とあるフットボーラーの肖像 - アヤックスの「良き処刑人」



時にフットボーラーは、その身をクラブに捧げる事がある。彼らはクラブにとって名刺代わりの存在となるだけでなく、そのクラブそのものの良き土台となるだろう。監督はその好例だ。
彼らはチームがどのようにトレーニングを行い、そしてピッチの上でどのようなフットボールを表現するかを指し示すコンパスとなる。

ただし、監督だけがそう言った存在となりるわけではない。
選手であれ、関係者であれ、真にクラブのサーバントたらんとするものであれば人々の記憶に残り続けることが出来る。

全てのクラブにそのような人物がいるはずだ。
例えば70年代のトゥエンテを代表する「キック」ファン・デル・ファルやエディ・アクターバーグ、PSVで長く君臨したヴィリー・ファン・デル・カイレンなどが代表的だろう。 
今より少し昔の時代にプレーしたフットボーラーは、ワン・クラブ・マンとして過ごすことに誇りを感じていたのかもしれない。

アヤックスでも、もちろんそのような象徴は存在した。
しかし、一般的にはあまり名の知られている人物とは言えないかもしれない。

「Mr.アヤックス」という言葉から、現在のフットボールファンが連想するのはいったい誰か? 世界を席巻し、その遺伝子が現在でも継承されているヨハン・クライフ?それとも、トータルフットボールを史上初めて世界に知らしめたリヌス・ミケルスか?

違う。

彼らはアヤックスで上げた名を世界に轟かせ、一大潮流を築き上げた。 
しかし、その裏側でクラブのために戦い続けた男がいた。

彼の名は、ボビー・ハームス。 
その生涯を、アムステルダムの赤と白のユニフォームに捧げた男だ。


 ◇◇◇


1934年3月、当時建設中だったかつてのアヤックスの本拠地デ・メール・スタディオン建設の喧騒の中、ハームスは工事現場から道を挟んだ小さな家に生を受けた。彼の少年時代は、同年12月に完成したデ・メールとともにあった。

1938年に初めてスタジアムのスタンドからアヤックスの試合を観戦したハームスは、それが当然であるかのようにギリシャ神話の英雄、アイアースの名から取られたクラブの門を叩くことになる。

いくつかのテストマッチを経験し、正式に入団を勝ち取ると1952年には選手としてのデビューを飾った。対戦相手は、こちらも英雄の名が冠せられたFCヘラクレスだった。そして1954年11月29日にクラブとのプロ契約を交わした。

1955年6月26日、彼の現役時代唯一のゴールが生まれた。
5-3と乱戦となったDFC戦を、彼はこう振り返っている。

「確かにゴールを決めることはできた。だけどミケルスは2点決めたんだ」

同年11月27日、旧東独で3度の優勝経験を誇った名門クラブSCヴィスムートを向こうに回し、ヨーロッパの舞台で初めてのデビューを飾ることも出来た。会場はアムステルダムのオリンプスフ・スタディオンだった。

しかし、彼の選手生活は長くは続かなかった。怪我に泣かされたハームスは、わずか8年間、58試合出場1得点という不本意な形でブーツを脱いだ。

引退試合となったのはブラウ・ヴィット戦。愛するアヤックスを勝利に導くことはできず、0-1の敗戦を喫した。ハームスに現役を退くよう助言したのは、のちのアヤックス黄金期の礎を築いた名将ヴィック・バッキンガムだったという。結果的に、持病だった膝の負傷に泣かされることとなった。

僅か25歳の時のことだった。


◇◇◇


1967年、選手時代に同僚だったリヌス・ミケルスからアシスタント就任の要請を受け、「将軍」と呼ばれた厳格なマネジメントチームの一角に加わった。
ミケルスは後にこう述懐している。

「ハームスは学位を得る暇なんてなかっただろうね。クラブのために多忙な日々を過ごしていたから」

その後、彼は何人かの監督のもと、トレーナーとしての職を得ることになる。アシスタントコーチというポジションで、現役生活の間に壊れやすい身体と向き合ってきた彼の知見は大いに発揮された。

怪我から復帰した選手に対して行われたチェックは、特に綿密なものだった。彼の許可が下りなければ、選手はピッチの上に立つことが出来なかったほどだ。授けられたニックネームは「アヤックスの良き処刑人」。

ハームスはミケルスのマントラを選手たちに理解させる反響板としての役割も果たしていた。 関わり始めた当初はユース育成年代の指導に携わり、トップチームに加わるとすぐにその異名の本領を発揮した。

「処刑人」の由来は、もちろん復帰する選手に対して行った厳格なフィジカルチェックから取られたものだった。
しかし、「良き」の部分には別の理由が込められていた。 彼は親切で誰に対しても距離を取ることのないキャラクターを持っていたのだ。

ルート・クロルは彼の厳しいチェックの恩恵を受けた一人だ。1970-71年シーズンに骨折という深刻な怪我を負った彼は、ハームスの適切な指導のもと、復活を遂げた。

中心選手だったクロル不在の中、1971年6月2日にウェンブリーで行われたヨーロピアンカップ決勝のパナシナイコス戦で、アヤックスは2-0でパナシナイコスを下し初めての欧州王者となった。 その後、栄光に彩られることとなるハームスの初めての王冠だった。


◇◇◇


ワールドカップで西ドイツに次いでオランダ代表が準優勝を飾った1974年。3年前にバルセロナへと去ったミケルスの後、シュテファン・コヴァチが2年間と短期間の指揮を執り、その後監督に就任したジョージ・クノーベルも満足な成績を残すことが出来ずシーズン途中で解任された。暫定監督として白羽の矢が立ったのはハームスだった。

1988年にも同じことが起きた。その際はスピッツ・コーン、バリー・ハルショフとともに3人で暫定監督を務めた。
当時、彼はピッチサイドの中心人物ではなかった。1981年に監督に就任したドイツ人のクルト・リンデルは、彼をアシスタントコーチから外し、スカウトへ再配置した。その決断に失望したハームスはアヤックスを離れる決意をし、アマチュアクラブのVVアルスメアの監督に就任した。

1984年、かつてアヤックスで同僚だったレオ・ベーンハッカーの要請を受け、FCフォレンダムのアシスタントに就任すると、ベーンハッカーが去った後も後任監督のバリー・ヒューズと共に仕事をした。

ヨハン・クライフがアヤックスの監督に就任した1985年、個人的にハームスに連絡を取り、彼を呼び戻した。クライフは彼のアヤックスでの重要性を理解していたのだ。

そしてハームスとアヤックスの蜜月は続く。


◇◇◇


1993年2月5日に心臓発作による入院で一時的にクラブを離れると、熱心なアヤックスサポーターは2日後にハームスのファンクラブを結成し、病床の彼を応援し続けた。それこそがアヤックスでの彼のステータスを指し示すものだった。

1995年5月24日には、チャンピオンズリーグ決勝でACミランを1-0で下しアシスタントコーチとして4度目の欧州王者を勝ち取った。1997年11月8日、ハームスはクラブ入団から50年の節目を迎え、黄金のバッジを受け取った。

そして2000年2月9日、第一線を退く決意をした。既に65歳となっていた。同年5月7日に行われたMVV戦で、彼の長年の貢献をたたえるセレモニーが行われた。多くの花束、花火、献呈品に迎えられ、ハームスはクライフ・アレナのピッチに登場し、名誉会員の称号を与えられた。

コーチング業から退くことになったが、もちろんそれが彼とアヤックスの関わりの終焉ではなかった。彼はアヤックスで様々なポジションに携わった。例えば「アレナ芝管理委員会」は代表的なもので、スタジアムの芝の品質向上に一役買った。現役時代、怪我と戦い続けた経験を最大限発揮したものだった。

病に侵され、車椅子に腰掛けながらも、ハームスはほぼ毎日スタジアムに顔を出し、サポーターと共にアウェーゲームの旅にも出かけた。その姿勢から、彼はアヤックス・サポーターズホームの特別ゲストに任命され、サポーターズクラブとサポーター協会の名誉会員にも就いた。
アレナに掲げられたバナーには、彼の肖像とともに、こう書き添えられていた。

「Bobby Haarms forever Ajax」

彼の長きに渡る献身も、2009年6月6日に終わりを告げた。
ハームスはアムステルダムのVUメディカル・センターで息を引き取った。

同年6月13日、アヤックス・アカデミーの本拠地スポルトパルク・デ・トゥーコムスト(Toekomst、未来の意味だ)にてお別れ会が催された。 献辞を述べたのはルイス・ファン・ハールやクラブチェアマンのウリ・コロネルだった。

◇◇◇

アヤックスファンがボビー・ハームスの名を耳にするたび、常に完璧なワン・クラブ・マンだったことを思い出すだろう。2011年7月29日には、アレナのメインエントランス側に彼の銅像が建てられた。その資金はサポーターからの寄付によるものだった。

銅像が立つ台座には、彼の名と共にある言葉が刻まれた。

「DE GOEDE BEUL」──すなわち、良き処刑人と。

2015年には、道路とトラムの駅に彼の名がつけられた。

ボビー・ハームスは多くの名監督のアシスタントを務めた。ヨハン・クライフ、レオ・ベーンハッカー、リヌス・ミケルス、そしてルイス・ファン・ハール。

しかし何より、彼はフットボールファンでありアヤックスのサポーターだった。
彼の存在は、フットボールプレイヤーや監督だけがクラブの英雄ではない、という証だ。

生前、ハームスはアヤックスと自らとの関わりについて、このような言葉を遺している。

「愛する者がいるならば、そのためにすべてをするのが当然ではないか?」

(校了)

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