クラブ・デポルティーボ・パレスチーノは白、緑、赤の3色に彩られたユニフォームを着てプレーするフットボールチームだ。スタジアムにはパレスチナの国旗が掲げられ、クラブ施設の中には1948年以前のパレスチナを模した屋外プールがある。
しかし、このクラブはパレスチナどころか中東でプレーしているわけですらない。一般的に「パレスチーノ」と呼ばれる彼らはチリのトップリーグであるプリメーラ・ディビシオン・デ・チリに所属している。
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チリは中東以外では最大のパレスチナ人人口を抱える国で、現在50万人弱を数えるパレスチナ人コミュニティはほぼ1世紀にわたるチリの対パレスチナ政策の形成に貢献してきた。このコミュニティの中心にあるパレスチーノは移民たちの結集点としてだけでなく、文化交流と外交の手段としても機能してきた。
チリに最初に到着したパレスチナ人移民の波は、1850年代にクリミア戦争から逃れてきた人々だった。1909年からオスマン帝国が若いキリスト教徒やユダヤ教徒の男性にも兵役義務を課したため、第二波は第一次世界大戦前から大戦中にかけて多くやってきた。ある者は徴兵から逃れ、またある者は息子が兵役を強いられ稼ぎ手を失い貧困に陥り、パレスチナを去ることを選んだ。
移民の第三波、そして今の所最後の大きな波は、1948年の大災厄(ナクバ)の後に訪れ、70万人のパレスチナ人が家を追われた。ほとんどの移民はブエノスアイレス港に到着し、その後アルゼンチンを横断し、ラバに乗ってアンデス山脈を越えてチリに入った。
こうした新しいチリ系パレスチナ人は激しい人種差別に直面した。チリのパレスチナ人は、オスマン帝国から逃れてきた人々と同様にしばしば軽蔑的に「トルコ人」と呼ばれた。子孫たちが経済的に繁栄するにつれ、彼らはチリ国内の他のディアスポラコミュニティからさえも偏見に直面し続けた。
チリのパレスチナ人ディアスポラの人数と保有する富が増大するにつれ、彼らはパレスチーノを含む一連のコミュニティを設立した。このチームは実際には1916年にチリの首都サンティアゴでアマチュアチームとして設立されたが、プロになったのは1952年のことだった。クラブの現在のスタジアムであるラ・システルナは1988年にオープンし、現在もパレスチナ人コミュニティの文化センターとなっている。
パレスチーノは、チリへの移民によって設立された唯一のプロサッカークラブではない。アウドゥクス・イタリアーノは1910年にイタリア人によって設立され、クラブ・ウニオン・エスポーニョーラは1897年にスペイン人によって設立された。1933年以来、この3つのクラブは、クラシコ・デ・コロニアス(植民地クラシコ)として知られるダービーマッチで毎年競い合う。
だが、チリ国内と祖国の両方でそのような政治的影響力を行使したのはパレスチーノだけである。
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このパレスチナ人ディアスポラはチリの対パレスチナ政策を形作っており、チリ政治の左派と右派を結びつけることも多い。1947年、チリは国連のパレスチナ分割決議を棄権した。そして保守派のセバスティアン・ピニェラ大統領の下、チリは2011年にパレスチナ国家を承認した。
ピニェラ大統領は2019年、2期目の任期中に、パレスチナ当局者らとともにユダヤ教の聖地である神殿の丘を訪れたことでイスラエルから批判された。2022年には、チリの現左派大統領ガブリエル・ボリッチ氏がパレスチナにチリ大使館を開設する計画を発表した。
パレスチーノ自身も、何世代にもわたるパレスチナの政治家やフットボールファンとの関係構築に貢献してきた。2003年、当時のパレスチナ大統領ヤセル・アラファトは、破産の危機に瀕したクラブを支援する手紙をガザ地区から送った。
そして2015年、パレスチナがコパ・リベルタドーレスに出場する試合を前に、パレスチナの現大統領マフムード・アッバス氏がクラブに手紙を書いた。彼は2018年、チリの毎年恒例のカップ戦であるコパ・チリを前に再びクラブに手紙を書いた。
パレスチーノは、パレスチナのクラブファンへの支援も拡大している。2010年以来、このサッカークラブの最大のスポンサーはパレスチナ銀行であり、これはパレスチナ人ディアスポラとの関係強化に向けた銀行の取り組みの一環である。こうした取り組みの一環として、パレスチナ銀行は2013年にチーム下部組織のヨルダン川西岸ツアーを後援した。
また、2019年、パレスチーノはアトレティコ・リーベル・プレートとの2試合のために、パレスチナのファンが試合を観戦できるようにヨルダン川西岸の都市ラマッラーに巨大スクリーンを設置したこともあった。
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パレスチーノの歴史に政治的な論争がなかったわけではない。2014年、新シーズンのユニフォームに背番号の代わりに1948年以前のパレスチナの地図が含まれていたため、チリサッカー連盟から罰金を科された。チリのユダヤ人コミュニティとイスラエル政府が抗議し、パレスチーノは最終的にユニフォームから地図を削除した。
だが、基本的にはパレスチナはパレスチナ国家に対する支持を声高に主張し続け、揺るぎなく支持しており、チリ国家も大抵の場合、彼らの側に立っている。
チリには古くから「この国のどの町にも必ず 3 つのものがなければならない」という諺がある。その3つとはすなわち、司教、警官、そしてパレスチナのことだ。この強力で歴史あるコミュニティは、チリとパレスチナ両国におけるスポーツだけでなく政治の歴史も形作ってきた。そしてガザでの戦争が続く現在においても、パレスチーノのフットボールの試合は連帯、哀悼、そしてチリとパレスチナのアイデンティティに対する反抗の場となっているのだ。
本稿冒頭に挙げた写真は2024年10月6日にシステルナで行われたコキンボとのリーグ戦で掲げられた横断幕である。曰く「虐殺1年、占領76年間」と。
(校了)
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