とあるフットボーラーの肖像 - ベンフィカを呪った男



前回のポスト、「SCハコア・ウィーン 忘れ去られた開拓者たち」を書いてからずっと気になっていた人のことを書きます。
ハコアがアメリカ遠征に訪れた際、欧州を席巻したユダヤ人狩りを逃れるために亡命した、とある選手の話。

元ネタ:BÉLA GUTTMANN: THE MAN WHO CURSED BENFICA

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「男は墓石の側に跪き、手と手を重ね天国行きを懇願した。瞼から涙が流れ落ち、オーストリアの土壌に流れ落ちた。彼の偉大なる指導者が眠る土地だった。
この訪問は墓参りの為のものではなく、慈悲を乞うための心よりの嘆願を行うためのものだった。

ひざまずくその男の名は、エウゼビオ
墓に眠る者は彼が指導を受けたフットボールの監督で、偉大なるベーラ・グットマンであった。

エウゼビオの声は嗄れ、喉の奥からは嗚咽が漏れ、愛するクラブを30年に渡る呪縛から開放するよう故人へ懇願したが、返事はなかった。
翌日のヨーロピアンカップ決勝、ACミランがベンフィカを1-0で下した。
グットマンは折れなかった。ベンフィカは、呪われたままだった。」

少し誇張が過ぎるかもしれないが、事実の部分は全て真実である。
ACミランとの決戦前日、エウゼビオは実際にベーラ・グットマンの墓石を訪れ、そのハンガリー人が1962年にベンフィカにもたらした呪いを開放するように懇願したのだ。
エウゼビオが、まだポルトガルに来て間もない頃だった。

フットボール界を遍歴したグットマンの生涯は、信じがたいフィクションのように思える人生を過ごしながら、現代のフットボールの前触れとなった男の物語だ。
遊牧民であり、職人であり、流浪者であった彼のキャリアは3つの大陸にまたがり、フットボール界の歴史に深く刻み込まれた。


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ベーラ・グットマンは1900年にブダペストで生まれた。両親はオーストラリア=ハンガリー帝国に住むユダヤ人で、名前をアブラハムとエスターと言った。
彼は少年時代、ダンスのインストラクターを営んでいた両親の影響を受け、同じ道を歩もうとしていた。16歳になる頃には、彼は既にインストラクターの資格を持っていたようだ。

同じ頃、ハンガリーではフットボールが隆盛で、グットマンは他に漏れず、大いに魅了された。
彼が黄金期の初期段階だったハンガリーのフットボール界に足を踏み入れるきっかけとなったのは、地元の下部リーグに所属していたTorekvasというチームとの契約だった。

1919年にはユダヤ人が所有していたネムゼティ・バイノクシャーグ(1部リーグ)のクラブ、MTKブダペストに加入。そこで彼自身にとっては初となるシルバーウェア、リーグタイトルを1921年に勝ち取った。
そこでの数年間は彼にとって素晴らしいもので、MTKで見せたパフォーマンスによってハンガリー代表に選出されることとなった。

1924年にオリンピックのフットボール代表に選ばれたグットマンは、そこで彼の持つ激烈なパーソナリティが伺えるエピソードの一端を垣間見せる。
チームに同行したハンガリーの役人たちの人数が選手よりも遥かに多く、宿泊施設が静かにコンディションを整えるより騒がしいパーティをするために準備されたことに怒りを覚えた彼は、自らの鬱憤を晴らすため、死んだネズミを役人たちの部屋のドアに吊るしたのだ。
抗議は意味不明なものとして受け取られ、グットマンが代表に選ばれることは二度となかった。


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20世紀初頭にハンガリー国内で政権を握ったホルティ・ミクローシュの反セム主義政策により、グットマンは1922年に今は無きハコア・ウィーン(ハコアは力、強さを表す)に移籍。
ハコア・ウィーンは魅力的なクラブで、初めて世界ツアーを行ったクラブの一つで、ロンドンやニューヨークで興行を行い、数千人ものユダヤ人ファンを動員した。
ハコア・ウィーンでの経験は、彼に旅行熱のきっかけを与えたと言っても過言ではない。

1926年の全米ツアー後、アメリカに魅了されたグットマンは移住を決意。そこで選手としてのキャリアのほとんどを過ごすこととなる。
アメリカでは3年間をニューヨーク・ジャイアンツで過ごした後、ユダヤ人のクラブ、ニューヨーク・ハコアに移籍。その後、ブルックリン・ハコアとニューヨーク・ハコアが合体してできたハコア・オールスターズにも在籍した。そこには、かつてハコア・ウィーンで共に戦った仲間も参加していた。

日常生活においても、放蕩者だったグットマンはビッグ・アップルでの生活を満喫。
特にスピークイージー(訳注:当時は禁酒法時代であったため、酒場をこう呼んだ)に入り浸りだった(酒場の共同経営に参加してすらいた)。

しかし、彼の豪放磊落な生活も1929年のウォール街大暴落により終焉を迎えることとなった。
この出来事は、彼の人生を運命づけてしまった。
大暴落後も数年をアメリカで過ごしたが、アメリカサッカーリーグが崩壊した1932年、彼はヨーロッパへ帰還した。


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グットマンのプレースタイルは良くエレガントで上品と称されるが、間違いなく彼のダンス経験の賜であろう。高く賞賛された技術を持っていたという。
4つのタイトルを獲得した後、彼は選手生活と別れを告げ、コーチのキャリアへと進んだ。

かつて所属していたハコア・ウィーンは、彼の最初の監督としての職場となった。
33歳から35歳までをハコア・ウィーンで過ごし、その後オランダのFCトウェンテ(訳注:現在知られるトウェンテではなく、かつて存在したトウェンテ・エンスヘーデのこと。わかりづらいので、以降エンスヘーデとする)に移籍して2年間指揮を執り、37歳から38歳までを再びハコア・ウィーンで過ごした。

エンスヘーデ時代には、こんな出来事があった。
ずる賢いグットマンは、クラブがリーグ優勝した場合の莫大なボーナスを要求した。
クラブのチェアマンはボーナスを支払えばクラブが破産することを承知していたが、毎年のように降格争いを続けていた為そんなことは起こりえないだろうと感じ、契約を承諾した。

最初のシーズン、エンスヘーデは降格を免れエールステ・クラッセ・イースト(アマチュアリーグ)を優勝。チャンピオンシップのプレーオフ出場の権利を獲得し、そこでも3位の成績を収めた。
首位のフェイエノールトとは2ポイントの差だった。
(訳注:プロ化前だったオランダの国内リーグは、各地区リーグの優勝クラブが集まってプレーオフが開催され、そこで優勝チームを決定した)
チェアマンにとっては、予期せぬ出来事だった。

エンスヘーデでの並外れた成功を成し遂げた後、グットマンはウーイペシュトFCで彼自身にとって初めての主要タイトルを獲得する。
ハンガリーリーグタイトル、そしてミトローパカップ(現在のチャンピオンズリーグの原型とも言える)を同じシーズンに獲得し、2冠を達成したのだ。

その後、第二次世界大戦が勃発してしまい、ユダヤ人であるグットマンはハンガリーからオーストリアへ逃亡せざるを得なかった。
数奇なことに、彼の生涯において、タイトル獲得はひとつの困難の兆しであった。
アメリカでの成功の後、金融危機でヨーロッパへ。そしてウーイペシュトでの栄光の後も、職を手放すことになってしまった。

彼がどんな経験をしたのか、その詳細は明らかにされていない。
わかっていることは、彼が何らかの形で安全を求めてスイスへと移住したこと、そこの捕虜収容所で戦争を生き延びたこと。
悲しいことに、兄弟を含む彼の家族の多くは、ナチスの魔手によって処刑された。


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戦争終結の後、グットマンはフットボールの世界に戻った。
ヴァシャシュSCで仕事を始めた彼は、この時代の食料不足の影響で、給料を野菜で支給してもらっていたという。
ヴァシャシュの会長がチームのセレクションに口を出すという一悶着があった後、ユダヤ人が経営していたルーマニアのマッカビ・ブカレストへ移籍。その後、キシュペスト(現在のブダペスト・ホンヴェードFC)と職を転々とした。

ホンヴェードにはシャーンドル・コチシュボジク・ヨージェフチボル・ゾルターン、そしてフェレンツ・プスカシュといった4人の伝説的な選手(1950年代にハンガリー黄金期を形成する中心選手でもある)が所属していた。
グットマンは、前任だったプスカシュの父親であるプスカシュ・シニアの後を継ぐ形で監督に就任したが、親子の肥大化したエゴがチームで問題を引き起こした。プスカシュ・シニアがチームのセレクションに口を出してきたのだった。
グットマンのホンヴェードでの支配は緊張をはらんでおり、彼の我慢の限界は最終的に頂点に達した。それはジエールとの試合の最中の出来事だった。

彼はディフェンダーのミハイ・パティのパフォーマンスに激怒し、ハーフタイムの打ち合わせで本人に、後半はロッカールームから出てこないよう命じた。
つまり、ホンヴェードは一人の選手を欠いた状態でプレーすることを強要されたのである。
プスカシュは怒り(正当なことだが)、パティにピッチに戻るよう、他の選手と一緒になって説得した。

この行動をグットマンは許さなかった。
彼は、ダグアウトに戻る代わり、スタンドに行って試合終了まで競馬新聞を読んだ。
電車で家に戻り、二度とチームに戻ることはなかった。


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この時代、ハンガリー人の選手・コーチがイタリアに移籍するというのは珍しいことではなく、グットマンもその例に続いた。
ホンヴェードでの大失敗の後、パドヴァトリエスティーナでそれぞれ1シーズンをすごし、イタリアのフットボールを学んだ。

グットマンにとっての最大の試練が、1953年の11月11日に訪れる。彼は偉大なるACミランの監督に抜擢されたのだ。
当時のミランは、かの高名な「グレ・ノ・リ」トリオのうちグンナー・ノルダールニルス・リードホルムの二人を擁していた(トリオの最後の1人、グンナー・グレンはグットマンの就任直前にジェノアに移籍した)。
チームには、ウルグアイのレジェンド、アルベルト・スキアフィーノも所属していた。

ノルダール、リードホルム、スキアフィーノを前線に配置し、グットマン率いるロッソネリは54/55シーズンの19試合終了時点で順位表の頂上に君臨していた。
しかし秘密裏に物事は悪い方向へと進んでおり、グットマンは、いつもの通り、ミラン首脳陣と衝突を続けていた。
その結果、19試合で印象的な試合を見せ続けたにも関わらず、ミランは彼を解任した。

記者団が集まる中、ベーラ・グットマンは落胆した様子もなく、未来永劫残る別れ台詞を言ってのけた。

「俺は犯罪者でも、ホモセクシャルでもないのに解任された。じゃあな」
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ミランでの一件により、グットマンは契約条項に「順位表で首位に立っている時に解任しない」という条項を必ず入れるようになった。
ヴィチェンツァでの驚くべき平穏無事なシーズンを送った後、ホンヴェードへと戻った。
チームにはマイティ・マグワイヤーの中心選手が多く所属していた。
グットマンがイタリアであれこれしている間、ハンガリーは印象的な成長を遂げていた。
プスカシュ、ゾルターン、コチシュ、ヨージェフ、ブダイ・ラースローローラーント・ジュラグロシチ・ジュラといった面々だった。

1956年、ホンヴェードは2度めのヨーロピアンカップ出場権を獲得。アスレティック・ビルバオが対戦相手だった。
ファーストレグでビルバオに2-3で敗れると、ホームゲームの直前にハンガリー動乱が失敗に終わり、再びハンガリーはソヴィエト連邦の統治下に置かれるという政治的事件が発生した。
選手たちは戦闘で荒れたブダペストではなく、ブリュッセルのヘイゼル・スタジアムでホームゲームを行うことを選んだ。
試合中、キーパーのラジョス・ファラゴが負傷した。残った控え選手がいなかったため、ゾルターンがグローブをはめることとなった。
試合は3-3で終わったが、アグリゲートで敗退した。

選手たちは引き続き国に帰ることを拒否したが、リーグからの除籍を強制されたことと、経済的な危機的状況のため、彼らに困難が立ちはだかった。
彼らは家族を呼び寄せ、ポルトガル、イタリア、スペインへと資金集めの旅に出かけた。
このツアーはFIFAとソヴィエト連邦の管理下となったハンガリーサッカー協会から猛烈に反対されたが、グットマン達は信念を貫き通した。
スペインではFCバルセロナ4-3で下し、レアル・マドリーと5-5の死闘を演じた。
チームを取り巻く騒動とは裏腹に、彼らのフットボールは素晴らしかった。

しかしながら、ホンヴェードは危機的状況にあり、FIFAの要求に背いたためクラブ解散を迫られていた。

メキシコのナショナルリーグが彼らの庇護とリーグへの参加を提案したが、フラメンゴ、ボタフォゴとブラジル国内で行うミニトーナメントへの参加のため、クラブはその申し出を拒否した。
グットマンは1930年の夏、ハコア・オールスターズの選手として初めて南米を訪れたが、今度はハンガリーの流浪のスーパースターを率いて戻ってきた。

FIFAは彼らの活動を非合法的と表明し、彼らに「ホンヴェード」のクラブ名使用を禁じた。
ここに、ハンガリーの最も偉大なクラブは終焉を迎えた。
チームはヨーロッパへ戻り、新たな活動を始めるために解散した。
しかし、そこにグットマンの姿はなかった。

彼はサンパウロの熱い気候に、新たな生活の場を求めたのだった。


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1957/58シーズン、サンパウロとともにカンピオナート・パウリスタを獲得したグットマンは、そこで新たな4-2-4フォーメーションを発明した。
それは翌年、ブラジルにワールドカップをもたらしたものであった。

ブラジルでの成功と仲違いの後、グットマンはポルトガルに向かった。
1958/59シーズンが6試合終了した時点で、FCポルトの監督に就任した。
就任時はライバルでもあったベンフィカの後塵を拝していたが、最終的にはリーグタイトルを獲得した。(訳注:カップ戦は決勝でベンフィカに1-0で敗北)

ハンガリーやブラジルでの成功を収めてきたグットマンだったが、彼の名声はポルトガルで不朽のものとなった。

ポルトでタイトルを獲得した後、彼はベンフィカへ電撃移籍。
そのことは大いに衝撃的ではあったが、ベンフィカでシニアチームの選手を20人近く解雇し、彼らの代わりとしてユースチームの選手を起用したことも大きな驚きをもたらした。

そして、ジグソーパズルの最後のピースが現れる。
床屋でスカウトのジョゼ・カルロス・バウエルと会話している最中、バウエルからモザンビークで稲妻の速さで走る10代の若手選手を見つけたと聞きつけたグットマンは、選手と契約を結ぶためにその足でモザンビークヘ向かった。
その選手の名は、エウゼビオ・ダ・シウヴァ・フェレイラ、現在では単純に「エウゼビオ」として知られている。

エウゼビオ本人にオファーを出す前に、グットマンは彼の母親と兄に話しを持ちかけた。
3年間で約1000ユーロの給料をオファーする予定だったが、エウゼビオの兄がその倍額を要求してきた。
グットマンは迷わず同意した。

ベンフィカにとっては不幸なことに、エウゼビオは彼らのライバルであったスポルティング・リスボンの下部組織であるモザンビークのフランチャイズクラブに所属していた。
騒動が勃発し、ベンフィカは若いエウゼビオの誘拐計画に戦々恐々していた。
結果的に、彼を2週間アルガルヴェのホテルに匿うこととなった。
彼がポルトガルに到着した時にはRuth Malossoという暗号が与えられており、この移籍いかに緊張の走るものだったかを物語っている。

チームにはユース選手が溢れ、アフリカの片田舎からやって来た名もなき10代の選手がそこに加わった。
一人の過激なハンガリー人にクラブの未来がめちゃくちゃにされている、首脳陣とファンの思いはいかほどのものであっただろうか。

純粋な狂気の沙汰とは裏腹に、グットマンが行うことは全てが理にかなったものだった。
黒豹(エウゼビオの二つ名として知られている)を前線に配置し、マリオ・コルナを中盤の深いポジションに陣取らせると、彼は最も美しく流れるような攻撃的フットボールを作り上げたのである。
彼の哲学は単純なものだった。

「相手が何点取ろうが知ったことではない。なぜなら、私は常に自分たちがより多くの点を取れると考えているからね」

グットマンは1959/60シーズンと60/61シーズンにリーグタイトルを連覇すると、61/62シーズンにはポルトガルの国内カップを獲得。
さらに歴史的なヨーロピアンカップ連覇を61年と62年に達成した。
スイス・ベルンのバンクドルフ・スタジアムでバルセロナを3-2で下した翌年、オランダ・アムステルダムのオリンプスフ・スタディオンでレアル・マドリーを5-3で下したのだ。

当時はレアル・マドリーがヨーロピアンカップを支配していた時代だった。
自ら編み出した前衛的スタイルを用い、さらには若い選手たちで欧州王者を打ちのめしたことは、驚異的な偉業であった。
試合終了後、レアル・マドリーに所属していたプスカシュは若いエウゼビオに自らのシャツを渡した。
この光景は、多くの観客の目にレアル時代の終焉とベンフィカ時代の始まりを予見させた。

1962年のシーズン終了後、彼はベンフィカ首脳陣に掛け合い、給料交渉を行った。
欧州王者のレアル・マドリーを下し、ポルトガル国内でもベンフィカの支配力を強めた彼の功績は、賃上げ、もしくは少なくとも特別ボーナスの支給に十分な成果であった。

しかし、彼の要求は拒絶された。
首脳陣は、彼の契約書内のいかなる箇所にも成功給の支払い項目が含まれていないことを指摘した。
グットマンは激怒し、クラブを飛び出した。

正確な文言は定かではないが、有名な逸話では、彼はこのように発言したとされている。

「今後数百年間、ベンフィカがヨーロッパ王者になることは無いだろう」

グットマンはクラブでの2シーズンを終えた後、3年目が重要と個人的に考えており、ボーナスの未払だけがクラブを辞める理由ではなかったと考えられる。
しかし、理由はどうあれ、ベンフィカにとっては大きな打撃だった。

彼の退団を聞いたイングランド3部所属のポート・ヴェールは彼に手紙を書いた。
彼の実績を賞賛し、自分たちの監督に就任してほしいとの内容だった。
しかし、彼らとイングランドにとっては不幸な話だが、グットマンはこのオファーを拒絶、あるいは無視した。

彼は三度、南アメリカへ向かった。
ペニャロールでウルグアイのリーグタイトルを獲得すると、シーズン終了後に大陸を去った。
これが、彼の監督生活での最後のタイトルだった。

もっともなことだが、その後の数年間の監督生活で、彼がベンフィカ時代に成し遂げた高みへ再び到達することはなかった。
オーストリア代表監督、再びのベンフィカ監督、スイス、ギリシャ、ウィーン、そして最後に、1959年に自ら袂を分かったポルトへの帰還・・・。


◇◇◇


ベーラ・グットマンは1981年の8月21日、82歳でこの世を去った。
彼の奇行癖と、他人と喧嘩する桁外れの才能は、度々彼の試合への戦術的なアプローチに影を落とした。
オーストリアで過ごした期間、彼はハンガリーの「コーヒーハウス」文化に染まり、そのことがフットボールの戦術・コーチング面に影響を与えたと考えられている。
時代の先進的な空気が、後に彼が戦術を開拓する際の鍵となった。

フットボール研究者の間では、グットマンがトータルフットボールを体現した最初期の人物だっと考えるものもいる。
1930年代、伝説的なスコットランド人監督であったジミー・ホーガンによってオーストラリアに導入された素早くパスを回すスタイルが、オーストリアのヴンダー・チームを形作った。
シェネシュ・グスターヴブコヴィ・マールトン、そしてベーラ・グットマンがこのメソッドを厳格にトレーニングに導入し、選手間で流動的動作と多ポジション性をもたらした。

この時代のハンガリーは、おそらく最も最初期に「偽の9番」を作り上げたチームであった。
当時としては、前代未聞の戦術だった。

ベーラ・グットマンを表現する際、多くの形容詞が付属する。
曰く「カリスマ的」「厳然としている」「奇行癖のある」「ずうずうしい」「エゴイスト」「開拓者」「予見者」「型破りな」「遊牧民」「冒険者」「流浪者」、そして「天才」。
全て、このフットボール史上最も偉大な開拓者の一人である人間に捧げられた言葉である。


◇◇◇


彼がベンフィカを呪縛した呪いは、未だに生き続けている。
グットマンがクラブを去って以降、彼らは7度のヨーロッパファイナルに進出した。
1963年、65年、68年、83年、88年、90年、そして直近では2013年。
彼らはこの全てに負け続けてきた。

多くの者にとって、この呪いは単なるお伽話の一つかもしれない。
しかしグットマンは常に天上でクラブを見張り続けていて、試合を操作している可能性だってあるのだ。

(校了)

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