- リンクを取得
- ×
- メール
- 他のアプリ
厳しい冬のある日のことだった。
ロシア兵に扮装し、偽の入国許可証を手に掴んだハンガリー人の男たちが、トラックの荷台で寒さを耐えながらオーストリア入国のためにアルプスを越えていた。当時のオーストリアは一部アメリカに占拠されており、そこは難民たちにとって避難場所となっていた。
国境間近でトラックのタイヤが溝にはまり、男たちの一団は自らの足での逃避行を余儀なくされた。彼らは山岳地帯の氷点下の冷たい風をその身に浴びながら、雪と氷に覆われた大地を数キロメートルに渡って歩き続けた。1949年の1月のことだった。
多くの東欧諸国が、鉄のカーテンの向こう側にあった時代だった。
インスブルックに到着すると、数人の国境警備員がビザとパスポートを選り分けながら検問を始めた。警備員達はすぐに、ある男の存在に気がついた。
その男は金髪で、たくましい肉体を持っていた。
警備員達はフットボールファンで、男はフットボーラーだった。
ブダペストに産まれながらチェコスロヴァキア代表で得点を決めたその男の顔は、世間に知れ渡っていた。
その男こそ、ラディスラオ・クバラその人だった。
◇◇◇
今回は、国境を跨いで不朽のクラブの伝説となった男の物語。
元ネタ:THE GREAT REFUGEE: HOW LÁSZLÓ KUBALA BECAME A BARCELONA LEGEND
◇◇◇
クバラは20代前半から得点能力を開花させ、ブダペストのガンツTEやフェレンツヴァローシュでプレーした。 また、チェコスロヴァキアへ移動する前は短期間ハンガリー代表選手としても試合に出たことがある。チェコ移動後はSKスロヴァン・ブラチスラヴァへ入団した。
入団1年後にブラチスラヴァの監督で、スロヴァキア代表監督も兼任したフェルディナンド・ダウチクに呼ばれ、スロヴァキア代表のユニフォームに袖を通した。
そして、後に彼の妹のアンナと家庭を築くことになる。
軍に招集され、クバラとアンナは1948年にハンガリーへ戻りブダペストのヴァシャシュSCと契約したが、すぐ後に妻と息子のブランコをハンガリーに残して彼はアルプス越えを敢行した。
家族とは、イタリアで落ち合う手はずとなっていた。
クバラはアルプス経由でオーストリアへ向かい、妻は息子をタイヤの中に隠してドナウ川を下る計画だった。
◇◇◇
家族の到着を待つ間、クバラは短期間だけセリエAのプロ・パトリアでプレーした。
後の回想録で、彼はその時のことを次のように語っている。
「練習場に到着すると、チームの連中が練習を始めようとしていた。彼らの練習が終わるまで準備が出来ていないふりをして、私はボール遊びを始めた」
「クラブの会長がそれを見て、『400回ボールを落とさなければ、私の腕時計をくれてやろう』と言ってきた。彼は不可能だと考えていたようだったが、私はそれを2度は聞き返さなかった」
「右、左、右、左、太もも、頭…398、399、400回。全く問題なかった。良い入団試験だ」
「私はボールを落とさないように、フィールドを一周した。彼は大層驚いていた」新しいクラブで試合に出場し、ゴールも決めると、クバラの名はイタリア全土に広まり、とあるトリノのクラブがベンフィカとの親善試合に彼を招待したいと言ってきた。移動費はすべてクラブ持ちで、飛行機での旅となる計画だった。
「もらったのは本当にいい時計だったよ」
もちろん「トリノのクラブ」というのは他でもない、往時「グランデ・トリノ」の時代を謳歌していた、かのトリノFCだった。フットボールの歴史上、最強との呼び声の高いチームだ。
クバラはすぐにその申し出を受け入れた。
しかし、出発間際に彼の妻が深刻な病状の息子を抱えてイタリアへと到着した。
結果的に彼はトリノへの合流を断念し、息子の回復に専念した。
この決断は、彼の人生において最も重要な決断だったかもしれない。
ポルトガルでの親善試合を終えたトリノFC一行は、その帰路となる飛行機の機上で全員が命を落としてしまった。霧の立ち込めた薄暗い空を飛んでいた飛行機は、スベルガの小高い丘と衝突し、機体はすべて焼け落ちた。世に言う「スペルガの悲劇」である。
◇◇◇
クバラはこの時、FIFAより1年間の公式戦出場試合停止処分を受けていた。
軍招集を拒んだことや国を捨てたことを理由に、ハンガリー国内に残ったフットボール関係者が彼に相応の処分を要求したためだった。
すぐ後、彼はアメリカに占領されていたチネチッタへと移住した。
ローマ郊外にあり、イタリア国内における映画産業の中心地だった。
殆ど一文無しに近い状況だったが、そこで彼は「ハンガリア」というチームの創設に携わることになった。ハンガリー人やチェコ人、ロシア人、クロアチア人など、東側から逃れてきた多くの難民のためのクラブだった。監督は義理の兄であるダウチクが務めた。
1950年には、クラブ活動の一環として彼が主演の映画も制作された。タイトルは「クバラ 平和を探し求めるスター」というものだった。
1950年に、ハンガリアはスペインツアーを決行し、レアル・マドリーやエスパニョール、スペイン代表と試合を行った。
サンティアゴ・ベルナベウの観客はクバラに魅了され、彼はレアル・マドリーへの移籍を打診されたが、その見返りにダウチクの監督就任を要求したため破談となった。ダウチクも、FIFAの制裁を受けていた一人だった。
この時、クバラに関心を抱いていたクラブがもう一つあった。それがFCバルセロナだった。
クバラの契約の際のエピソードはいくつか語り継がれているが、ある話によると契約の際にクバラは泥酔しており、騙されて契約させられたという。また別の話では、彼がマドリーより打診された契約内容を、そのままバルセロナのフロントへ持ち込んで条件を釣り上げたというものもある。
いずれにせよ、彼がどのようにバルセロナと契約したかは大した問題ではなかった。
重要なことは、彼がバルセロナで何をしたかだ。
◇◇◇
クバラとダウチクがカタルーニャのクラブと契約したのは1950年6月のことだったが、FIFAの処分の影響で約1年間は試合に出ることが出来なかった。禁止処分が解けた1951年の4月にはリーグ戦は殆ど終結しており、バルセロナは4位でシーズンを終えた。
しかし、コパ・デル・ジェネラリスモのトーナメント戦はまだ続いており、バルセロナは準決勝まで駒を進めていた。
試合に出場したクバラは、すぐに強烈なインパクトを残す。セビージャとの第1レグを2-1で勝利した後、2戦目でゴールを決め、3-0の勝利に貢献したのだ。
決勝でもレアル・ソシエダを3-0で破り、ダウチクの率いるチームは見事に優勝を飾った。
7試合出場で6得点、トロフィーを飾るという最高のスタートを切ったクバラは、この成果を土台としてバルセロナでのキャリアを進めていく。
彼は数多くのトロフィーを「レス・コルツ」に齎しただけでなく、カタルーニャの人々の心も鷲掴みにしてしまった。「ククシ」の愛称を授かり、「クバラマニア」と呼ばれるファンが生まれた。
クバラは、一瞬にしてスーパースターとなった。
彼にとって最初のフルシーズンとなった1951-52シーズンに26試合出場で19得点を挙げた。
その中には、7ゴールを決めて9-0で勝利したスポルティング・ヒホン戦も含まれている。
最終的にはリーグタイトル、コパ・デル・ジェネラリスモ、コパ・エヴァ・デュアルテ、ラテン・カップ、コパ・マルティーニ・ロッシの5冠に輝いた。
1952-53シーズンは結核を患い殆どの試合に出場できなかったが、シーズン最終盤に合流してリーグタイトルとコパ・デル・ジェネラリスモ獲得の天啓をチームに授けた。
そして、この年までの3シーズンが、クバラとダウチクがバルセロナで過ごした輝かしい時間となった。
◇◇◇
ダウチクは翌シーズンを無冠で終えると、1954年にアトレティック・ビルバオへ旅立った。彼はそこでコパ・デル・ジェネラリスモ連覇の偉業を成し遂げ、56年にはリーグタイトルも獲得した。
クバラと同じく永住地を持たない遊牧民の気質を持っていたダウチクは、様々なクラブを渡り歩いた。アトレティコ・マドリーやポルト、ベティス、セビージャ、エスパニョールの監督を歴任し、1977年にCDCマスカルドというマドリードのクラブでその監督人生を終えることとなる。
彼はキャリアの終盤、1967-68年シーズンにスペインから遠く離れたトロント・ファルコンズで、再びクバラと共に時間を過ごした。トロントはクバラが選手生活を終えた地となった。
◇◇◇
1954年に友人でもあり恩師でもあったダウチクとの別れを経ても、クバラはバルセロナでキャリアを過ごし続けた。彼は依然としてレス・コルツの英雄であり、更には王となろうとしていた。
数千人の観客が彼を見るためにスタジアムへ通い、彼の見事なプレーに酔いしれた。
若かりし頃にボクシングを嗜んだ彼の肉体は頑強で、プレーは常にアグレッシブでもあり、時に天才的なひらめきでゴールを産んだ。
レアル・マドリーの伝説的選手だったアルフレッド・ディ・ステファノはクバラを「強い男」と表現した。曰く、「砲弾を持ってしても彼を倒すことは出来ないだろう」と。
クバラは頑強さに加え、敏捷性も持ち合わせていた。殆どのディフェンダーは彼のスピードに置き去りとなり、彼の筋肉が密集した太ももから放たれる強烈なシュートを防ぐことは出来なかった。
また、常に肉体のケアを欠かさず、完璧主義的な側面も持ち合わせていた。美しく弧を描くフリーキックはディフェンスの頭を越え、ゴールに突き刺さった。 このようなボールを蹴ることを出来る者は、1950年代には他にいなかったという。
◇◇◇
クバラマニアは拡大を続け、ついに群衆を収容しきれなくなったバルセロナは1957年カンプ・ノウの竣工を待ってスタジアムを移転することになる。
その翌年、クバラの選手人生に大きな影響を与える人物が監督に就任した。
後にカテナチオを用いて「グランデ・インテル」を築き上げる、「魔術師」エレニオ・エレーラである。
エレニオ・エレーラは独裁主義者だった。
彼はインテル・ミランの歴史にその名を刻む10年前にアトレティコ・マドリーの監督に就任し、 リーガを連覇するという偉業を成し遂げ、その後もスペイン国内のクラブを転々としてたどり着いたのがバルセロナだった。
この時のバルセロナは、隆盛を誇っていたレアル・マドリーと水を開けられており、ダウチク以降空白となっていた優秀な監督を欲していた。
フェレンツ・プスカシュ、ディ・ステファノ、”パコ”ヘントといった超一級のタレントを抱え、54年、55年、57年、58年にリーグタイトルを獲得した伝説的なチームを破るためにエレーラが選手たちに要求したのは、厳格な自己管理だった。選手たちは酒を飲むこと、喫煙を禁じられた。
エレーラの方針に真っ向から立ち塞がったのは、誰あろうクバラだった。
彼は既にバルセロナの王として君臨しており、飲酒家で女好きのスーパーヒーローだった。
クバラの夜遊びはカタルーニャでは語りぐさになるほどだった。彼はウィスキーを好み、夜ごとフラメンコダンサーとベットに入った。彼の遊び仲間には、信じられないことだが、クラブの上層部の人間や地元のジャーナリストもいた。クバラは二日酔いを醒ますためにシャワーを浴び、昼寝を取り、コーヒーとアスピリンを常用していた。
このようなやり方がバルセロナの日常であり、チームを結束させるための手段でもあった。彼は遊びながら、常に他のチームメートの面倒を見た。
当然ながら、エレーラはこのやり方を認めなかった。彼のチームでは、彼が一番の権力者でなければならなかった。クバラはすぐにチームから外され、ベンチからも追いやられた。
そしてこのことは、彼にとって致命的だった。
エレーラはレアル・マドリーの治世を打ち破り1959年と60年にリーグタイトルを獲得し、さらには59年のコパのトロフィーも勝ち取った。しかし、1960年のヨーロピアンカップ準決勝のレアル・マドリー戦でクバラをベンチ外にした挙句6-2で敗北した直後、監督の職を逐われてしまう。
バルセロナの幹部は、クラブの優先順位がどこにあるのかを把握していた。
結果的に、クバラが勝利したのである。
◇◇◇
クバラはスペインでの生活を満喫し、スペイン代表でゴールも決めたが、1950年代往時最も優勢を誇っていた代表チームは彼の母国でもあるハンガリーであった。
「マジック・マジャール」の二つ名を持ったハンガリー代表は、ワールドカップ優勝を 飾ることはなかったが、フットボール史上空前の強さを誇ったチームだった。
歴史にifがあるのなら、「もし」クバラがハンガリー国内に残り続けていれば、ワールドカップの栄冠を勝ち取ることが出来たかもしれない。「ベルンの奇跡」として知られる1954年の決勝戦でクバラがプスカシュと並び立ってフィールドに立っていれば、 歴史の1ページにハンガリーの名を刻むことが出来たかもしれない。
しかしながら、クバラ自身はハンガリー国内で直面した苦難や、ハンガリーFAより受けた仕打ちを鑑みて、マジック・マジャールの一員に加われなかったことを決して後悔しなかったという。
◇◇◇
彼のフットボールキャリアには、いくつものifがつきまとう。
もしハンガリーから脱出していなけれれば。
もしトリノに合流していれば。
もしレアル・マドリーと契約していれば。
もしエレーラと意気投合していれば。
もしハンガリー代表に加わっていれば。
しかし、それでもなお、彼がカンプ・ノウで観客を魅了し続けた輝きは色褪せることはない。
2009年9月24日、バルセロナのカーサであるカンプ・ノウで、クバラの銅像の除幕式が行われた。
それは、彼がそこで成し遂げた成果をこれ以上無いほどに物語っている。
母国を持たず、複数の代表選手としてピッチに立ったハンガリー生まれの遊牧民。
クバラはカタルーニャの人々に愛されながら、その名はフットボールの歴史が続く限り、語り継がれる。
(校了)
コメント
コメントを投稿
気が向いたらコメントをお願いします