フットボールの話をしよう - 眼鏡はどこへ行った?

フットボールの歴史とは、ある面では「地球最強はどのチームか?」を確認し合う絶え間ない儀式のようなものであったかもしれない。村で、地域で、国で、大陸で、そして世界の中で、頂点を決めるための戦いが形を変えて日々繰り広げられており、その最新版が現フォーマットでは今年初開催となるFIFAクラブワールドカップ2025だろう。

その「世界最強決定戦」の歴史の1ページに奇妙な形で名を刻んだ、一人のオランダ人が2025年5月7日にこの世を去った。今日は彼の話をしよう。

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ロッテルダムの強豪クラブとして今でも名を馳せるフェイエノールトは、1960年代後半には無名の存在であったが、一気にヨーロッパ最強へと駆け上がった。1970年、サン・シーロで行われたUEFAチャンピオンズカップ決勝でサー・ジョック・ステイン率いるセルティックを破ったのだ。フェイエノールトを欧州の頂点へと導いたのは78年ワールドカップでオランダ代表を準優勝に押し上げたオーストリア人監督のエルンスト・ハッペルだった。

そのチームの中で、決して眩い輝きを放っていたというわけではない一人の選手がいた。彼の名はヨープ・ファン・ダーレ。この話の主人公である。実際のところファン・ダーレは、前述の決勝戦でも控えとしてベンチを温めた。それもそうであろう、当時はフェイエノールト史上最強のDFと呼び声高い「鉄のリヌス」ことリヌス・イスラエルがゴール前に鎮座していたのだから。

いずれにしてもフェイエノールトはヨーロッパ王者として大陸間最強を決めるためのインターコンチネンタル・カップへの出場切符を手にした。だが、大陸の向こう側では南米最強を競うもう1つのカップ戦、コパ・リベルタドーレスが混沌としていた。本来なら主役となるはずのブラジルのクラブは、大会のレギュレーションに異を唱え不参加だったのである。または、クラブよりも重要な70年ワールドカップに備えていたと考える者もいる。

その結果、アルゼンチン、ウルグアイ、チリのクラブチームが台頭し、結果的に決勝戦ではエストゥディアンテスがペニャロールを下した。エストゥディアンテスはこの前年のインターコンチネンタル・カップに出場した紛れもない実力者だったが、主催者は頭を抱えたに違いない。なぜなら彼らはその大会でACミランの選手たちを襲撃し血まみれにするという衝撃的な事件を起こしていたからだ。エストゥディアンテスが見せたその所業から、70年大会ではヨーロッパのクラブが参加を辞退するのではないかとも考えられていた。

69年のインターコンチネンタルカップはガゼッタ・デッロ・スポルト紙で「90分間の人間狩り」と評された。アルゼンチンでも同様にメディアが批判の論調を展開し、翌日の新聞には「イングランドは正しかった」(1966年ワールドカップでアルフ・ラムゼイがアルゼンチン代表を「野獣」と表現したことに由来する)という見出しが踊った。

この大会は歴史的に見てもヨーロッパよりも南米のクラブにとって大きな意味を持つが、エストゥディアンテスが「またやらかした」場合、大会自体の消滅を招く危険性があった。ヨーロッパの各クラブにとっては当然のことながら国内リーグが最優先であり、わざわざシーズン中に危険な場所へ行く意味などなかっただろう。

余談ではあるが現在と違い、当時は大陸間最強を決定するインターコンチネンタル・カップと言えどFIFAの管轄外であり、UEFAとCONMEBOLの共催として成立していた。明らかにFIFAにとっては単なる親善試合という扱いだったのだが、彼らもその重要性にようやく着目し始めたのが67年のことだった。それぞれ独自に大会を開催していたAFCとCONCACAFに参加要請を出し、真の意味での最強決定戦を開催しようと目論んだが、そのアイディアはUEFAとCONMEBOL双方から拒絶された。

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そういった歴史背景から、あらゆる懸念を払拭するため1試合目が1970年8月26日に「ラ・ボンボネーラ」で行われることとなった。会場はアルゼンチンの熱気に包まれ危険な空気が漂ったが、初戦をホームで行う処置が功を奏したのかもしれない。フェイエノールトの序盤のパフォーマンスが今一つだったこともあり、危惧していたような事態は起こらなかった。

6分、カルロス・パチャメが右サイドから蹴り込んだフリーキックをゴールキーパーのエディ・トライテルが取りこぼし、フアン・エチェコパルのヘディングシュートで1点目を決めた。さらに6分後、今度は左サイドからのフリーキックをフアン・ラモン・ベロンがニアポストでフリックしてゴール下へ流し込んだ。

だが、フェイエノールトは前述の通り一気に欧州の頂点へ駆け上がった彗星のようなクラブだった。このまま眠る虎を封殺することなど出来ようもなかった。21分、ヴィレム・ファン・ハネヘムが左サイドからのクロスに合わせて1点。彼はフェイエノールトのアイコン的存在で、ヨハン・クライフと並び称される天才だ。試合の空気が変わる。60分過ぎにオーヴェ・キンドヴァルがハーフウェーラインからのフリーキックをチャンスに変え、同点に追いついた。スコアラインは2-2。ロッテルダムでの2ndレグに望みを繋いだ。

9月9日に行われた試合、「デ・カイプ」には6万3千人の観客が詰めかけた。試合は一進一退を繰り返し、60分過ぎにクーン・ムーラインに代わって投入されたのがファン・ダーレだった。彼を投入した意味はすぐにピッチ上に現れた。登場わずか2分後、ペナルティエリアの端で左サイドからのボールがファン・ダーレに渡ると、低い弾道のシュートがゴールへと吸い込まれる。アグリゲート3-2。フェイエノールトにとっては喉から手が出るほど欲しい得点だった。

だが、ヨープ・ファン・ダーレのフットボール人生を決定づけたのはこの後の出来事だった。この事件の詳細は長年にわたり激しく議論されてきたが、事実だけを忠実に伝えよう。ゴールセレブレーション後に起きた両チームの乱闘でファン・ダーレは愛用していた眼鏡を顔から引き剥がされ、破壊された。後の証言によると、どうやらエストゥディアンテスのキャプテンを務めたオスカル・マルベルナトがひったくり、カルロス・パチャメへと渡したようだ。彼はその眼鏡を地面に投げ捨て踏みつけたという。

パチャメは2005年、オランダのフットボール雑誌にこう語っている。

「奴は攻撃時も守備陣も眼鏡をかけていた。明らかにルール違反だったから、チームの誰かが眼鏡を外してやったのさ。そうしてあれが起きたというわけだ」

フアン・ラモン・ベロンはこの件についてはより慎重な態度を示した。

「単に眼鏡が落ちただけだ。もしかしたら誰かが誤って踏みつけてしまったかもしれないがね」

エストゥディアンテス側の主張通り、当時の競技規則では確かに「ジュエリー」の着用は禁じられていたが、そもそも眼鏡はジュエリーに該当するのかは疑問が残る。また、もしもそれを問題視するならば、ファン・ダーレの顔から引き剥がして踏みつける行為が適切な苦情の表明方法だったのかも謎だ。さながら子供達が仲間外れを痛ぶるのいじめのようなものだったのかもしれない。

この試合では昨年ほどの暴力沙汰とはならなかったものの、事件が後の命運を決定づけた。フェイエノールトはそのまま1-0で勝利を収めトロフィーを掲げたが、欧州全てのクラブ関係者が注目したのは明らかにその瞬間ではなかっただろう。

翌年、アヤックスはウェンブリー・スタジアムでパナシナイコスを破り欧州王者となったが、インターコンチネンタル・カップの出場を拒絶した。1971年のコパ・リベルタドーレスはナシオナルがエストゥディアンテスを下して優勝したが、対戦相手と同様にその暴力性が広く知れ渡っていた。アヤックスの代わりに出場したパナシナイコスは1966年ワールドカップの得点王ルイス・アルティメに3得点を許し、アグリゲート3-2で敗れてナシオナルが「大陸王者」となった。だが、この試合が本当にそれを決めるためのものだったのかは大いに議論の余地があるだろう。

長年注目されてきたインターコンチネンタル・カップにまつわる危機は、主催者にとっては最悪のシナリオとなった。欧州王者と南米王者が競い合って初めて成立する大会のはずだがアヤックスの出場拒否はその存在意義を根底から覆すものであり、衰退の始まりでもあった。70年代には幾度も開催自体が中止に追い込まれ、最終的には80年代に南米、欧州のいずれでもない第3の中立国で一発勝負を行う案が採用された。それがトヨタ自動車が冠スポンサーとして日本で行われたトヨタカップである。この大会についてはまた様々なエピソードが存在するが、別の話だ。

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ヨープ・ファン・ダーレはこの事件でオランダのフットボール史、そして文化史に名を刻んだ(それが本人の望むところだったかはわからないが)。この出来事について書かれた歌をレコーディングするオファーも本人のところへ届いたというが、彼は拒否している。歌手のジョニー・ホーズによる"Waar is de Bril Van Joop van Daele" (ヨープ・ファン・ダーレの眼鏡はどこへ行った?)は現在でもYoutubeなどで聴くことが出来る。

眼鏡はフェイエノールトのクラブ博物館へ収蔵され、現在でも目にすることができる。だが、ひっそりと展示されるこの眼鏡が後のトヨタカップ、FIFAクラブワールドカップ、そして今年からフォーマットがリニューアルされた最新版の世界最強決定戦へと繋がる大切なマクガフィンであることを、ほとんどの人間は知らないだろう。

ファン・ダーレは1967年から77年にかけてフェイエノールトで144試合に出場、その後フォルトゥナ・シッタートで1981年に引退するまで選手生活を続けた。指導者の道を歩んだ後、2006年にスカウトとしてフェイエノールトへ帰還。2025年5月7日に77年の生涯を閉じた。オランダで最も偉大なクラブの1つ、そしてそのクラブの最も悪名高い試合の1つでプレーしたヨープ・ファン・ダーレの旅立ちに、幸多からんことを。

(校了)

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