とあるフットボーラーの肖像 - ルイジ・リーヴァ ~サルディーニャの雷鳴と1970年、カリアリの奇跡~



1970年、イタリア・セリエA。
並み居るビッグクラブをなぎ倒し、奇跡を成し遂げたプロビンチャの物語。

元ネタ:THUNDER IN SARDINIA: RIVA, CAGLIARI AND THE MIRACLE OF 1970

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ユヴェントスのオーナー、ジャンピエロ・ボニペルティは、彼を手に入れたと思った。
「彼がイタリア北部でクラブしていた時、常に私は彼に電話した」と後にボニペルティは語る。
ルイジ・リーヴァを手に入れるために、たった1人のために、6人の選手を引き換えにしようとしたこともあった。

1973年、リーヴァが29歳の時、ビアンコネリは最終的にRombo di Tuono―雷鳴の二つ名で知られた彼を手に入れたかに見えた。
トリノの巨人が彼とサイン間近までいったのは、それが初めてではなかった。リーヴァが23歳の時、ユーヴェへの移籍を完全に拒んだことがあった。
6年の歳月で未曾有の成功を収めた後、その移籍は完結したかに見えた。カリアリは10億リラ(150万ポンド)でこの取引を許可した。

事が進むと、この取引は容易に今までの移籍金の世界記録を塗り替えた。
1968年、ユヴェントスがピエトロ・アナスターシに支払った50万ポンド、そして1973年にバルセロナがヨハン・クライフに支払おうとしていた92万2千ポンドも。

一つ、思わぬ障害が発生した。
リーヴァが再び拒んだのだ。
リーヴァは彼の同胞を置き去りにしようとはしなかった。

リーヴァが生まれたのはスイスとの国境にほど近いロンバルディア州・レッジューノだったが、サルディーニャ島を故郷のように感じていた。
彼はすでにカリアリファンにとって象徴のような存在となっていた。選手とクラブ、地域は分かち難く結びついていた。
リーヴァは現在でもサルディーニャのアイコンであり続けている。
彼はカリアリを、それまでに見たことのない、そしてそれから現在までも見ることのない高みへ導いた。

◇◇◇

結びつきが始まったのは1963年のことだった。
当時カリアリは、40年の長きに渡りセリエBに所属していた小さなクラブだった。
19歳のリーヴァは、セリエC所属のレニャーノから370万リラでロッソブルに加入し、カリアリの選手として最初のシーズン―カリアリが昇格を果たす事となるシーズンを過ごした。

「サルディーニャ島は私にとってアフリカみたいな場所だった。流刑島だったからね!」と彼は後に語る。彼は、カリアリが自分にとっているべき場所か、確信が持てずにいた。
しかし彼らはヴァレーゼに続いて2位でシーズンを終えた。
おとぎ話の始まりだ。

最初の目標は2部への降格阻止だったがカリアリはその目標を容易に成し遂げ、1964-65シーズンを6位で終えた。
その後の3シーズンも11位、6位、9位とまずまずの飛行を続け、チームとしての下地を積み上げた。
しかし、カリアリは決して現実的なスクデット候補として見られることはなかった。
リーヴァを除いて、ロッソブルにとっての誇りは、後にインテルにトレードされ、偉大なスクデットを獲得する原動力となったロベルト・ボニンセーニャピエルイジ・チェラコムナルド・ニコライであった。

彼らを率いたのはマンリーノ・スコピニョ。成し遂げた最大の成功が1970年で、カリアリの成功と彼の名は同義語となっている。
彼は1940年台から50年台に選手としてプレーしており、うち3シーズンで当時セリエB所属のサレルニターナに在籍した。
その後、キャリア唯一のセリエA経験となるナポリへ移籍し僅かな時間を過ごした後、膝を負傷しカタンザーロへ移籍。6度だけ試合に出場した。

引退後、リエティで指導者のキャリアを開始。リエティは彼のホームタウンであり、選手生活をスタートした土地でもあった。
セリエAで初めて指揮をとったのは1961年、ラネロッシ・ヴィチェンツァ。ここで4シーズン過ごした後ボローニャへ移動し、彼らをセリエA2位に導いた。ボローニャがスクデットを獲得した2シーズン後の事だった。

カリアリに来たのは1966年のことだった。チームを6位に導いたにも関わらず、クラブの取締役会は
エトーレ・プリチェッリ招聘を選び、彼は1年間職を失った。
インテルがエレニオ・エレーラの後任監督としてスコピニョの招聘を画策(訳注:往年のインテルは、エレーラの下グランデ・インテルを謳歌していた)したが、彼はそれを拒んで1968年、再びロッソブルの監督へ就任する。

スコピニョが特に賞賛されるのが、傍観者の立場から試合を読む能力であり、「賢人」という二つ名で呼ばれることもあった。
アンジェロ・ドメンギーニ曰く「チームをフィールドに押しだし、モチベーションを上げる力が素晴らしかった。彼はチームに責任を持たせた」。

チェラは、選手グループが試合前の静養時間にまつわる次のようなエピソードを語る。

「僕らはイタリアンカップの試合前夜、7時か8時だったかな、ポーカーをするためにこっそりホテルの一室に集まったんだ。完全にルール違反の行動だった。
みんなタバコを吸いながらゲームを楽しんでいた。もちろん酒のボトルも床に転がっていたね。
すると、突然スコピニョが部屋に入ってきたんだ!『オー、ゴッド!』って思ったよ。
叱責と罰金を覚悟したんだけど、スコピニョは舞い上がる煙の中部屋に入ってきて僕らの横にしずかに腰を下ろし、タバコの箱を出してこう尋ねたんだ。『タバコ吸ってもいいか?』
30分後にはみんなベッドで眠っていた。そして、次の日僕らは3-0で試合に勝ったのさ」

◇◇◇

1968-69年シーズン、カリアリは後に1970年ワールドカップの代表GKとなるエンリコ・アルベルトージと、その後10年以上カリアリに在籍することになるマリオ・ブルニェーラをフィオレンティーナより獲得し、チームに加えた。
アルベルトージは後に「最初にカリアリの話を聞いた時、行きたくないって思ったね。だってフィレンツェではいつも『あそこは流刑地だぜ』ってバカにしてたし」と最初の印象を回想している。
ドメンギーニはカリアリこそフットボールをする上で最適な環境と語る。「サルディーニャは素晴らしい場所で、世界でもっとも美しい海がある。悪く言う方が難しい」

スコピニョのチームは名声を増していった。
1968年欧州選手権決勝の再試合でユーゴスラヴィアのネットを揺らしたリーヴァがチームの先頭に立ち、29試合で20ゴールを上げる活躍を見せた。
3チームがスクデットを争い、カリアリは第21節までライバルのフィオレンティーナと、前年王者でそのシーズン欧州王者となるACミランの上の順位に立っていた。
しかし、ホームでユヴェントスに敗北を喫すると、2度とリーグテーブルのトップへ返り咲くことはなかった。
スコピニョはシーズンを2位で終えた。首位のヴィオラとは4ポイントの差だった。

パズルの最後の2ピース、ドメンギーニとセルジオ・ゴーリが1969年の夏に加わった。
彼らは二人共、12ヶ月後メキシコ・ワールドカップ行きの飛行機に乗ることになる。
二人をインテルから獲得する前に、カリアリはボニンセーニャを放出しなければならなかった。
彼は冷酷なフィニッシャーで、ピッチ上でリーヴァと破壊的なパートナーシップを形成していたが、二人の個人的な反目から、ボニンセーニャはネラッズーリへ帰る決断をしていた。

セリエA最恐のストライカーであるリーヴァは、スタディオ・アムシコラを我が家のように感じていた。
1967年、ユヴェントスからの誘いを断ったことに関しリーヴァは次のように語る。
「移籍すれば3倍の給料を稼げただろう。しかしサルディーニャが私を男にしてくれた。そこが私の場所だった。当時、イタリア人は我々の事を『羊飼いと無法者』なんて呼んでいた。私は23歳で、偉大なるユーヴェが私を金で誘ってきた。だが、私はサルディーニャのためにスクデットを勝ち取りたかった。そして、我々は成し遂げた。無法者と羊飼いがね」

リーヴァは68-69シーズンより良い成績を残した。
1試合出場が少なかったが、ゴール数は前シーズンを1上回り、2季連続でカポカノイエーレ(得点王)に輝いた。
リーヴァはすさまじいシュートを蹴ることで知られており(ネット裏から練習を見学していた9歳の少年の腕をへし折ってしまうというエピソードが残っている)、空中戦にも強く、他の選手を活かすことにも長けていた。
シンプルに、対処が困難な選手であった。

リーヴァが先陣で危険な存在であったのと同様、ロッソブルは強力なバックラインも擁した。
キャプテンのチェラは、ボールを前に運ぶ能力を持ったスウィーパーだったが、良くディフェンスを統率した。
ゴールマウスを守るアントニオージは30試合出場し、ゴールを許したのはわずかに11度でリーグ最高の成績を残した。2位が19ゴールだったことを考えると、驚異的な数字だ。

ドミンゲーニは40年の後、いかにキャプテンが岩のような堅固な守備を築いたのかを語っている。
「彼は中盤でプレーしていたんだが、ジュゼッペ・トマシーニが怪我をしてからスコピニョがディフェンスに置いた。その穴をブルニェーラが埋める形になり、攻撃的にも改善したんだ。やむを得ない事情にせよ偶然にせよ、あれがいわゆるターニングポイントだったね」

カリアリは開幕5試合を1失点で切り抜けると上昇気流に乗る。
最初の5試合で4勝し、ホームのインテル戦を迎えた。
その前週には、前年度王者であるフィオレンティーナを、リーヴァが唯一のゴールを奪う形で葬り去っていた。
インテルがルイス・スアレスのゴールで早い時間に先制したものの、後半にネネのゴールで同点にすると、カリアリは貴重な勝ち点をもぎ取った。

スロースタートだったユヴェントスとの試合を際どい展開で引き分けると、第12節にはシーズン初の敗戦をパレルモに喫する。
それでもなお、「賢人」スコピニョと彼のチームは、1969年冬の王者で年を越した。
ユヴェントス、そしてフィオレンティーナとのタイトルレースは熾烈であり、インテルやミランも虎視眈々とトップの座を狙っていた。

カリアリは後半戦も快進撃を続けた。折り返して最初の5試合をやはり4勝。
唯一勝てなかった試合も、フィオレンティーナとのスコアレスドローだった。
その翌週、インテル相手に敗戦を喫した(1-0、得点者は昨シーズンまで彼らの仲間だったボニンセーニャ)ものの、それがシーズン2度目の敗戦だった。
トップ5とそれ以下の差が開き始め、ユヴェントスが徐々に順位を上げてきていた。

22節でナポリ戦に勝利、23節でローマ戦にドローと着実に勝ち点を積み重ねたカリアリは、ついに3月15日、ユヴェントスとの決戦を迎える。
ビアンコネリはインテル、ナポリ相手に勝ち点を落としていた。

シーズン終了まで残り6試合。この試合はタイトルを争う上で極めて重要な一戦となった。
トリノの巨人はフラストレーションを感じていた。リーヴァを誘い出せなかったことに、そして何より10年前にはセリエCだったカリアリが、最高のユーヴェ相手にスクデットを争っているという事実に。

「マフィア・マネーが北から最高の選手たちを奪い去った。でなければ、誰が景勝地でフットボールをプレーしたいなんて思うだろうか?」―これはユヴェントスが公式に発したメッセージだ。

スコピニョも負けていない。
「ユーヴェやミランは富とコネクションを持ち続けてきた。それは、彼らが自分たちのやりたいようにやるためだ。もしもカリアリがセリエA優勝を成し遂げたならば、この何年かの間で唯一『本物の』チャンピオンとなるだろう」
戦後カルチョ界を牛耳ってきたユーヴェ、ミラン、そしてインテルへの明確な反旗であった。

◇◇◇

カリアリのディフェンダー、ニコライは、イタリア国内ではオウンゴールの名手として有名だった。
29分に雨でずぶ濡れになりながら満員となったスタディオ・コムナーレで、彼はその特技を披露。
ニアポストに飛んできたボールに頭を合わせ、ボールはアルベルトージの後ろへ入っていった。
ニコライは数ヶ月後メキシコ行きの飛行機へ乗ることになるのだが、スコピニョをして「私の人生ではなんでも起こりうるが、まさかニコライを国際放送で見ることになるとはね」と言わしめた。

その後、ハーフタイムと同時にブルニェラより放たれたコーナーキックにリーヴァが反応し、ロベルト・アンツォリンの守るゴールに突き刺さった。
試合は同点となる。

両チームとも慎重に入った後半は、69分に均衡が破られる。
ユーヴェがペナルティを獲得したのだ。
キッカーのヘルムット・ハーラーによって蹴られたボールは、アルベルトージがセーブ。
カリアリの選手たちは皆喜びを爆発させたが、主審であったコンチェット・ロ・ベッロは蹴り直しを指示する。
アルベルトージがキックの前に動いたという判定だった。

選手たちの抗議は失敗に終わった。
アナスターシが責任を取る形でやり直しのPKを蹴り、ユヴェントスが再びリードする。

「ロ・ベッロは、実際には起きていないファウルに対し笛を吹いたんだ。マルティラドンナレオナルディを止めたとね。アルベルトージがハーラーのシュートをセーブした時、私は自分に『まだ行けるぞ!』と言い聞かせた」―ドメンギーニはこう回想する。
「アナスターシが決めて2-1となったが、ロベッロは帳尻を合わせる形で我々にもPKを与えてくれた」

試合残り10分を切ったところでドメンギーニがペナルティエリアにフリーキックを上げると、リーヴァとサンドロ・サルヴァドーレが取っ組み合いの喧嘩をしていた。
ロ・ベッロは近くにいて、ホールディングを見逃さなかった。
そしてペナルティスポットを指さす。これもサービスのペナルティであった。

「彼が自分のミスを帳尻合わせしたことに、私は気づいた」とドメンギーニは続ける。
「ボールが入ってきた瞬間、彼はペナルティの笛を吹いた。『マルティラドンナのホールディングだ』(映像では、明らかにリーヴァが掴んでいる)と、彼は怒れるユヴェントスの守備陣の前で言い放った」
アンツォリンはリーヴァが蹴った低い弾道のペナルティを手に当てたが、結局ボールはゴールネットを揺らした。
2-2。カリアリはポイントをもぎ取り、最も厳しい試練を通過した。

◇◇◇

その試合の1か月後、アミスコラは天井桟敷まで観客で満員となった。
4月12日にスタジアムに詰めかけた群衆の中には脱獄犯が2名含まれており、彼らはスタジアムで逮捕されたが監房へ戻る前に試合観戦を許可された。
残留圏まで3ポイントで残り3試合だった為、対戦相手のバリは降格の恐怖にさらされていた。
しかしカリアリの選手たちは熟知していた。この試合に勝ち、ユーヴェが負ければシャツにスクデットの紋章が縫い付けられることを。

試合はホームチームが押したが、ハーフタイム間際まで同点のままだった。
ここはリーヴァがゴールを決め、選手たちの神経を落ち着かせるしかない場面だ。
ブルニェラが蹴りこんだフリーキックに、彼は自らの身を投げ出し、ファーポストで頭を合わせた(訳注:公式記録では、先制点はゴーリのゴールとなっている)。

セカンドハーフには、ラツィオが対戦相手のユヴェントス相手に2-0でリードしている朗報も飛び込んできた。そのうちの1点はジョルジョ・キナーリャが決めたものであった。
終了2分前にはゴーリのゴールで喜びに花を添え、歓喜がペナルティエリアの中から湧き上がった。
パーティタイムの始まりだ。

観客がピッチに雪崩れ込み、リーヴァに押し寄せた。
翌週にはユヴェントスと2つのミランのクラブのために、模擬葬儀が決行された。
サルディーニャ在住の3クラブのファンは、無理やりカリアリのシャツを着ることを強要された。
「我々は何かしら、全サルディーニャ人が誇りに思えるようなことを与えられたかな」とリーヴァは微笑む。

著名なイタリア人フットボールライターであるジャンニ・ブレラは、このスクデットの成功を「サルディーニャ島がイタリアに認められた入り口だった」と語る。
それは歴史的な偉業であり、スクデットがイタリア本土を離れた唯一の出来事でもあった。
ライターのステファノ・ボルドリーニは、リーヴァのゴールについて「カリアリを応援するため、羊飼いたちにトランジスタラジオを買わせ」、島の近代化に貢献した、と表現する。
島全土を一つにまとめた勝利であった。

◇◇◇

メキシコワールドカップでは、グループステージ初戦のスウェーデン戦で5人のカリアリの選手が先発し、ドメンギーニが決勝ゴールを挙げた。
ニコライは前半のうちにピッチを去り、その後試合に出ることはなかった。
しかしながら、アルベルトージ、チェラ、ドメンギーニ、そしてリーヴァはレギュラーとなった。
ジジ(リーヴァの愛称)は大会当初は低調で、タブロイド紙のセックススキャンダルのターゲットともなったが、準々決勝にホスト国であるメキシコとの対戦で目覚めた後、準決勝では「世紀の一戦」と呼ばれた西ドイツ戦で追加タイムに劇的なゴールを決めた。

その後、カリアリは奇跡を再現することは出来なかった。

翌シーズンの開幕戦の勝利を皮切りに、第4節にリーヴァが2ゴールを決めて3-1でインテルを破るなど好調を維持し、前シーズンからの「ハネムーン」は決行された。
この試合のリーヴァの活躍は、ブレラをして「カリアリはサンシーロでインテルに屈辱を与えた。70,000人の観客はリーヴァがふさわしい活躍をしたと認め、私は彼に『雷鳴』というニックネームを付けた」と言わしめた。

不運なことに、その週の終わりにイタリア代表に合流していたリーヴァが足を骨折すると、カリアリがタイトルを守ることは難しくなってしまった。
彼らは結局7位でシーズンを終え、ヨーロピアンカップでもベスト16でアトレティコ・マドリーに敗れた。

ドメンギーニは、別の要因があったことを指摘する。
「私達はアミスコラからスタディオ・サンテーリアへ本拠地を移転するために多額の出費をした。新しいスタジアムには陸上トラックがあり、ファンとの距離が遠くなってしまった。アミスコラは、来たものを無傷では返さない掩蔽壕だった」

リーヴァとカリアリは、1971-72シーズンに息を吹き返す。
リーヴァが30試合で21ゴールを決めると、彼らは4位へ順位を押し上げた。
このシーズンが、スコピニョが指揮を取った最後のシーズンともなった。「賢人」と謳われた彼は、ローマ招聘の前に1年間の長期休暇を取った。
彼はローマ加入後6日で職を辞すと、その後ヴィチェンツァで2シーズン過ごした。
ヴィチェンツァはセリエAから降格し、あわやセリエCという状況に陥った。スコピニョの魔法は解けてしまった。

リーヴァは翌シーズンも12ゴールを決め、ユヴェントスが再びメガ・オファーを持ってやって来た。
リーヴァは再び拒否した。カリアリが、彼の居場所だった。
しかし、彼らは二度とタイトルへ挑戦することはなかった。
1975-76年シーズンに怪我をすると、リーヴァは試合から遠ざかった。
そのシーズン、カリアリはセリエAより降格。No.11も引退した。

ロッソブルには、後に僅かな期間、60~70年代の栄光を思い出させる活躍があった。
1992-93年シーズンにUEFAカップでユヴェントスを破った後、準々決勝でインテルに敗れた。
儚い夢のようだった。

近年は、カリアリはセリエAを主戦場としているが、栄光の日々は遠い昔のことだ。
だが1970年の奇跡の記憶は色褪せない。
忠誠心と、噛ませ犬たちの大番狂わせにまつわる途方も無いおとぎ話。

「カリアリでの1度の優勝は、他のクラブにとって10度にも匹敵する価値を持つ」。
スコピニョ、かく語りき。

(校了)

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