フットボールの話をしよう - BFCディナモの消滅と再生


近年隆盛を極めるドイツフットボールのトップクラブの名は、無関心なフットボールファンの頭の中にも強烈にこびりついているだろう。
バイエルン・ミュンヘンやドルトムントを始めとするドイツの名門は、同じくヨーロッパを支配するスペインの巨大クラブに引けを取らないほど欧州大陸を席巻し続けている。

今やブンデスリーガの試合は全世界で中継されており、商業面でも市場を拡大している。
ブンデスリーガは、一時期の苦境をぬけ新たな黄金時代へ突入したと言えるかも知れない。

その繁栄とは裏腹に、かつて10年もの間ドイツの頂点に立ち続けたこともあるフットボールクラブが歴史の影に隠れていることを知っているものは数少ない。

彼らはある一時期自国リーグで栄華を極め、ヨーロピアンカップにも出場した。
しかし現在では歴史の渦に飲み込まれ、困窮し、過去の汚名と闘い続けている。

そう、彼らの名はBFCディナモという。悪名高き「シュタージ」(東ドイツ秘密警察)のクラブだった。


◇◇◇


ワインレッドを身に纏い、BFCディナモが最後にタイトルを勝ち取ってから現在までの間、彼らは全く別の存在となった。
1988年、彼らの10度目の、そして最後となるDDRオベルリーガのタイトルをロコモティフ・ライプツィヒ相手に勝ち取った当時と比べると、スタジアムの観客席は屋根まで熱狂的なファンで埋め尽くされることは無くなった。


あなたが高名な歴史学者でなくとも、第二次大戦後にベルリンの街に起こった出来事はご存知だろう。同盟国の統治計画に基づきベルリンは東と西、2つの側に分割され、東西冷戦の縮図となった。
しかしどちらの側も実際的な戦争を仕掛けることはなく、冷戦はさながらプロパガンダ戦争の様相を呈することとなった。スポーツから音楽まで、あらゆるものが自陣営のイデオロギーを喧伝するものとして扱われ、その背景がBFCディナモを生み出す触媒となった。


◇◇◇


1954年、東ドイツで新たなフットボールクラブの設立が決定された。
西側諸国へフットボールの面でも東側の優位性を誇示することが目的だった。

新たなクラブは国内リーグのホームゲームをシュタージの根城だったホーエンシェーンハウゼン近郊のスタジアムで行う計画を立てていたが、主要なヨーロッパの大会はベルリンの壁より徒歩圏内にあるフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン・シュポルトパルクで開催する決断を行った。このプロジェクトは、東ドイツ国家の威信をかけて何としてでも成功させなくてはならなかった。そのためには、国内リーグだけではなく大陸全土においても新クラブはその名を轟かせる事を義務付けられる。
全ては西側への対抗心から来たものだった。

即時的な成功を齎すため、当時東ドイツ国内で隆盛を誇ったディナモ・ドレスデンの主要選手たちが新クラブに強制的に加入させられた。全てはシュタージの力によるものだった。

最初期においては、このプロジェクトは当初の目的を果たすかに見えた。設立後の5年間でトップリーグへの昇格と東ドイツカップ優勝を勝ち取ったのだ。東ドイツの社会主義者たちの夢は現実へ着実に近づいていた。が、そこから計画は思わぬ方向へ脱線し始める。

ドレスデンより連れてきた選手たちの加齢による実力の減衰はチームに大きな打撃を与えた。
手っ取り早い成功を目指した新クラブにはユースシステムが構築されておらず、主力のベテラン選手に取って代わる若手の台頭も起こらなかった。
彼らは次第に表舞台から姿を消していき、1967年にはトップリーグから降格してしまう。

しかしそれはディナモ・ベルリンというかつて存在したクラブが1度目の輪廻転生を果たす最後のプロセスにすぎなかった。

1967年の降格に先駆けて、シュタージは次の一手を打っていた。
彼らは1966年の1月に、新たなクラブを設立した。それがBFCディナモだった。
新たな才能ある選手が、より広範囲から連れて来られ、 なおかつここがもっとも重要なことだが、BFCディナモのクラブ組織はディナモ・ベルリンとは全く分割された。

そしてこの転生が、クラブの最も闇深き時代の幕開けとなった。


◇◇◇


最初のプロジェクトに失敗しても尚、東ドイツのクラブが大陸で覇を唱えるという野心をシュタージが捨て去ることはなかった。ドイツはどこまでもフットボールの国なのである。
加えてシュタージの野心に薪を焚べたのは、東ドイツが西ドイツに比べフットボールの成功という面で遅れを取っていたという明確な事実があったからだった。
ディナモ・ベルリンの衰退と時を同じくして、西側ではバイエルン・ミュンヘンの黄金時代が始まっていた。彼らはチームに西ドイツ代表の世界的スター、フランツ・ベッケンバウアーゲルト・ミュラーを擁していた。

1976年までの6シーズンにおいて、バイエルンはブンデスリーガを4度優勝、チャンピオンズカップ3連覇の偉業を成し遂げていた。東ドイツ側からは、ディナモ・ドレスデンが準々決勝までたどり着くのがやっとだった。1974年にはバイエルンとドレスデンが直接欧州の舞台で対戦するも、アグリゲート7-6という不名誉な敗戦を喫してしまう。
その数ヶ月後にワールドカップのグループステージで東ドイツ代表が西ドイツを破るという大金星を挙げることはできたが、最終的に王者の座についたのは西ドイツであった。

西ドイツ側の継続的な成功に業を煮やした東ドイツは、まずはBFCディナモを国内リーグで不朽の存在としてバイエルンを始めとする西側と戦わせようと目論んだ。その為に、彼らは悪魔と契約した。

頓挫したディナモ・ベルリン創設時との唯一にして最大の違いは、BFCディナモのトップの座に、かの悪名高き「恐怖のマスター」エーリッヒ・ミールケ書記長を据えた事だった。
ミールケは社会主義者の努力によるフットボールでの成功こそ重要と考えており、東ドイツが欧州で結果を残せていないことだけではなく、一地方のクラブだったディナモ・ドレスデンやFCマグデブルクが東ドイツ国内を牛耳っていることにも怒りを覚えていた。

1974年のワールドカップにおける東ドイツの小さな成功をより大きなものとするため、ミールケはBFCディナモを東ドイツの頂点に君臨させようと画策した。シュタージが持っていたありとあらゆる影響力を活用し、審判団買収、相手選手への脅迫、恫喝、試合中のミスの誘発等、悪行の限りを尽くした。
結果的に、1979年から88年の10年間、ワインレッドを身に纏ったBFCがオベルリーガ10連覇を成し遂げることとなる。

あからさまなシュタージの介入を目の当たりにし、激怒したのは他クラブのファンたちだった。彼らはホームグラウンドにBFCを迎える際は決まって「インチキのチャンピオン」と声高らかに歌い、アウェーチームへ罵詈雑言を浴びせた。
1986年のオベルリーガ決勝、BFC対ロコモティフ・ライプツィヒ戦で茶番劇のようなPKがBFC側に与えられると、全国的に一斉に抗議活動が始まった。しかし、この試合の唯一の被害者は主審を務めたベルント・シュタンフだった。彼はリーグ側より、トップリーグで笛を吹くことを禁じられた。それも、全てミールケの助力によるものだった。
BFCの治世は壁崩壊の1990年まで続くことになる。

しかしながら、当然の話ではあるが、BFCはミールケとシュタージの影響力を及ぼすことの出来るオベルリーガを支配することは出来たものの、欧州の大会では大きなインパクトを残すことができなかった。
1972年のカップ・ウィナーズ・カップで準決勝に進出して以降、彼らはヨーロピアンカップで準々決勝を突破することが出来なかった。さらに彼らの顔に泥を塗ったのは、最後にヨーロピアンカップへ出場した1988年に西側のヴェルター・ブレーメン相手に5-0の屈辱的な敗北を喫したことだった。


壁崩壊と東西統一によりシュタージの影響力も薄れ、エーリッヒ・ミールケの神通力を失ったことでBFCはその後の命運を決定付けられてしまった。「ワインレッズ」は歴史の表舞台から姿を消した。
過去の汚名を捨て去るために1991年にクラブ名をFCベルリンと改名した彼らは、統一リーグとなるブンデスリーガでは3部に位置づけられた。 それ以降、リーグの再編などもあり4部と5部の間で苦闘を続けた。かつて東ドイツの巨像となったクラブが、時代の渦に飲み込まれ泡と消えてしまったのだ。

一度はシュタージの暗い過去と決別したはずのFCベルリンだったが、1999年に財政的困難に陥ったためかつてのファンベースを取り戻すために黄金時代の「BFC」を再度名乗り始める。
しかし夢よもう一度の願いも虚しく、2002年にクラブは破産を申告する。
2004年に活動を再開してからは、現在もなお下部リーグに所属し続けている。


◇◇◇


彼らの名が、再び歴史に浮上する出来事が2004年に起こる。
ドイツフットボール協会は「ヴェルディエンテ・マイスターヴェライネ」という制度の導入を発表した。
それは1956年から現在までのブンデスリーガの優勝回数に応じて、ユニフォームに星の勲章を身に着けていいというものであった。(20回優勝で星4つ、10回で3つ、5回で2つ、3回で1つ)
しかしこのシステムで優勝回数がカウントされるのは西ドイツのブンデスリーガのみだった。本来であれば10度優勝で星3つの勲章着用を許されるはずのBFCはシステム制定後すぐに嘆願書を協会に提出したが、当初DFBは黙殺しようとした。彼らが扱うには政治的にデリケートすぎる話題だった為だ。

その後DFBは方針を転換しオベルリーガの優勝回数もカウントすることを決定した為この騒動は収まったが、多くのフットボールファンがBFCの行った行動は恥知らずなものだと考えているようだ。
彼らが過去に得た栄光はシュタージによるものであり、彼らはかつての黒い歴史から一定の距離を置くべきだと考えている人々は数多い。

これからどのような未来へ進むにせよ、BFCディナモの名を背負う限り彼らが過去の悪名から逃れることは難しいだろう。 BFCディナモというクラブは、見る者にかつての分断の歴史を思い起こさせるリマインダーとしての役割を宿命付けられているのだから。

(校了)

コメント