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リーグ戦連続未勝利(2020年11月24日時点で24試合)にあえぐブンデスリーガの巨人、シャルケ。あまりのふがいなさに選手たちがサラリーの一部を返上するという異常事態に陥っている。
そんな折、SNSを通じてある男が投稿を寄せた。
「シャルケに私たちの記録を破ってほしくない。それは私たちのもので、タスマニアのアイデンティティだ」
現在はドイツ5部のオーバーリーガに所属しているSCタスマニア・ベルリン。その会長、アルミル・ヌミッチは、自分のクラブが半世紀近く前に記録した31試合未勝利のリーグ記録を引き合いに出し、皮肉とも応援とも取れるコメントを発した。
彼らは奇縁と時代の偶然によって、本来プレーすべきではないトップリーグを経験し、現代にも残る恥ずべき記録を残した。ベルリンにありながら「タスマニア」という場違いなクラブ名と共に、堂々とブンデスリーガの歴史に名を刻んでいる。
◇◇◇
ノイケルン。グロピウスシュタット。リックスドルフ。南ベルリンに位置するこの小クラブには、時代によってさまざまな地名が接頭辞に付けられてきた。しかし、彼らがオーストラリアの海岸沖に浮かぶ小島の名前を名乗っている明確な理由はあまり知られていない。
1900年にクラブを結成したベルリン市民たちはヴァン・ディーメンズ・ランドへの移住を計画しており、その夢を新たな船に乗せた。彼らはクラブ結成後すぐに海を渡ってしまったが、名前だけは残り続けた。ファンたちは現在でもスタンドでボクシングをするカンガルーの旗を振る。
収容人員わずか3,000名のヴェルナー・ゼーレンビンデル・シュポルトパルクに集うのは数少ないファンと家族たちだけで、吹けば飛ぶようなこの小クラブのことを、しかしながらドイツフットボールのファンたちの多くが知っているというのは奇妙なことかもしれない。
ブンデスリーガの歴史教科書を一目見ればその理由がわかる。リーグ最少勝利、最多失点、最多敗戦、最少勝点、最大得失点差、最悪の敗戦、そして最少の1試合観客数・・・それらはすべて1965/66シーズンにこのクラブが記録したものだった。
にもかかわらず、その悪名は実際には彼らに責があったとは言い難い。タスマニアの無能さには甘酸っぱい時代のロマンチズム、そして脆弱な政治的意思が介在している。
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ドイツでは1962/63シーズンまで各地域リーグの優勝クラブ参加によるトーナメント(全国選手権)で国内王者を決定していたが、1963年に全国リーグであるブンデスリーガが創設された。
創設時にベルリンから唯一参加したヘルタ・ベルリンがスキャンダル(レベルの高い選手を連れてくるために賃金支払いルールに抵触してしまった)で1965年に降格扱いとなると、地域リーグ優勝のテニス・ボルシア・ベルリンもプレーオフに敗退してしまい、ブンデスリーガに西ベルリンのクラブが一つもなくなってしまう事態が懸念された。そこで白羽の矢が立ったのが地域リーグ2位のシュパンダウアーSVだったが、彼らはその申し出を拒絶した。
そして、西ドイツFAが目を付けたのが3位のタスマニアだった。彼らのブンデスリーガ昇格が決まったのはシーズン開幕のわずか1週間前だった。64/65シーズンのタスマニアはアマチュアクラブで所属選手もフットボール以外に自分たちの仕事を持っていたが、数日のうちにプロになることを余儀なくされた。
「クラブは私たちに、たった一晩しか与えず、フットボール以外の仕事をあきらめるよう要求してきました」と語るのは当時主将を務めていたハンス・ギュンター・ベッカーだ。「私は半日で辞めてやろうと雇用主に告げました。しかし、こんな無茶はどうせ1シーズンしか続かないだろうと私たちはわかっていました」
このサプライズで、1958年にワールドカップを制したメンバーの一人であるホルスト・シマニアクをセリエAから連れてくることに成功したが、周囲の選手のレベルに合わせることはできなかった。「肉体労働者のチームでは完全に場違い」と新聞に書かれたこともあった。
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開幕戦、タスマニアはヘルタのホームだったオリンピア・シュタディオンに詰めかけた81,000人の群衆の目の前でカールスルーエに勝利した。当時ドイツ国内だけでなくタスマニアチャートも席巻していたビートルズにちなんで「リンゴ」と呼ばれていたウルフ・インゴ・ウスベックが2ゴールを決めた試合だった。
しかし、その初戦が終わると瞬く間に物事は解体へと向かっていった。
タスマニアは11月の足音を聞く前に、ボルシアMG、ハンブルガーSV、ハノーファーに5失点、ケルンに5失点、ニュルンベルクに7失点を喫した。監督のフランツ・リンケンはケルン戦の後すみやかに解任され、後任としてヘインズ・ルドヴィク・シュミットが選ばれた。しかしシュミットは自分が手にした杯いっぱいに毒が入っていたことを知らなかった。彼は指揮した最初の2試合を0-5で落とした。
翌年1月までに、彼らの観客動員は開幕戦の1%にまで落ち込んでいった。ブンデスリーガ史上最低観客動員となったホームのボルシアMG戦には、鈍色の空から降り注ぐ雪の中、857名のファンがスタジアムに訪れた。幸運ながら、彼らが見たのはスコアレスドローというタスマニアにとっては多少心が安らぐ試合で、過去3か月で唯一獲得した勝ち点だった。
「自分のチームがこれほどひどいプレーをしているのは見たことがない」と語ったのはボルシアMGのヘネス・ヴァイスヴァイラー監督だった。
「もちろん、それは私たちの精神を大きく貶めました」とは主将を務めたベッカーの言だ。「しかし、だれが観客を責めることができるのでしょうか?シーズン前半戦を通じて観客はどんどん減っていき、最終的にスタジアムに訪れるようになったのはノイケルンの住民だけでした」
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どん底は3月に訪れた。現在はMSVデュースブルクという名で活動しているマイデリヒェルSV戦で喫したのは9失点だった。現在でもブンデスリーガ史上最大の敗戦として刻まれている汚辱だ。そして数週間後のアイントラハト・フランクフルト戦において、タスマニアは記念すべき100失点目を献上した。スタンドのファンはこのマイルストーンを祝うためにプラカードを用意していた。
驚くべきことに、同シーズンに降格したボルシア・ノインキルヒェン戦で2勝目を達成することができたタスマニアだが、最終的に108失点、15得点、28敗でシーズンを終えた。
フランクフルト戦までにチームを離れることを公表していた6人の選手にとっては残りのシーズンは冗長だったかもしれないが、せっかくトップリーグにいるのだから全力でプレーしようとしていた残りの選手たちは異なる印象を持っていたようだ。
「基本的には全試合が絶望的だったので、そのことが少し楽観だったかもしれません」とベッカーは回想する。「うまく行かないとき、私たちは盛大なユーモアで敗北していました」
ベッカーは下部に戻ったタスマニアに残り続け、自身のキャリアを終えた。しかし、それは遠い未来のことではなかった。ブンデスリーガでの大失敗から8年後、クラブは破産した。それまでの間、彼らはトップリーグに戻るために昇格プレーオフに2度挑戦したが敗退していた。ブンデスリーガで味わった栄光、そしてプロクラブとしての意識が1973年の破産を招いてしまったと考える者もいる。
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現在南ノイケルンで活動するタスマニア・ベルリンは新しい組織であり、地元コミュニティに奉仕することを目的として古い組織の死後に再設立された。オリンピア・シュタディオンの81,000人の観客がいなくなったのち、それでもクラブを愛してやまなかったのは1,500人の地元ファンだった。
1965年当時、ノイケルン地区は北側と東側がベルリンの壁に囲まれ、南側にはテンペルホーフ空港があった。人々を多く集めるには閉鎖されたエリアだった。
現在、ノイケルンはベルリンのトルコ人、アラブ人コミュニティの中心となっており、流行の発信地としても知られている。新たなタスマニアはカルステン・ラメロウやアントニオ・リュディガーがキャリアの最初期に所属していたこともある。地元出身の若手にとってはその後のキャリアへの橋頭保となっている。
しかし、彼らは常に1965/66シーズンを持っている。それを覚えておきたいかどうかにかかわらず。どこかのチームがひどいキャンペーンで記録を脅かそうとするたびに、ブンデスリーガのファンたちはタスマニアの名前を思い出す。しかし、これまでのところ、彼らの偉大な記録が破られたことは一度もない。
(校了)
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