フットボールの話をしよう - ウクライナ・フットボール史 前編(1878-1945)



FIFAの公式記録を調べると、正式に分離・独立したウクライナ代表チームがここ20年間しか存在していないことに気づくだろう。
この20年間、彼らの記録はそれほど印象的ではなかった。
2006年のワールドカップ出場、そして自国開催で自動的に出場権を得たEURO2012。
しかしこの平凡な記録は、ソヴィエト連邦の一員としてウクライナが残してきた燦然と輝くフットボールの伝説を正しく伝えていない。

FIFAの公式記録では、ロシアはソヴィエト連邦代表の正式な後継者であるとされる。
この歴史の連結は、ウクライナの選手やクラブがいかにソヴィエト代表の中で影響力を持っていたかという事実を見落としている。ウクライナは、独立した地域としてはちょうど1992年から実在しているが、ウクライナのフットボールの起源は大きく昔に遡る。

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地球上の様々な地域で起こったように――それこそリーベルプレートからロッテルダムまで――当時ロシア帝国の一部であったウクライナに初めてフッ トボールが訪れたのは、英国人兵士や商人、役人、ビジネスマンらの集団が世界を旅して各地域に持ち込んだ方法、写真家のデヴィッド・ゴールドプラットが 「非公式帝国」(Wikipediaより「非公式帝国」)と名付けた方法、によるものだった。
英国人の船乗り達は、早くとも1860年頃からオデッサにある黒海の港でフットボールをプレーするようになったと伝えられている。1878年には 「オデッサ・ブリティッシュ・アスレティック・クラブ」というウクライナで初めてのフットボールクラブが設立された。彼らの殆どはイギリス人だった。
6年後、このクラブは国で初めてのフットボールピッチを建設。
当初は国内で懐疑的であったフットボールだが、否応なしに競技の面白さが証明されると国中に広がっていった。特にソコル運動(※1)が活発であった西ウクライナでポピュラーな競技となり、ウクライナ国内で初めて公式記録の残る試合がリヴィヴで開催された。

その試合は、控えめに言っても型破りの出来事だった。1894年7月14日、リヴィウとクラカウのソコル・クラブの間でのフットボールの試合を含む、幾つかのスポーツのトーナメントがリヴィウで行われた。
Włodzimierz Chomickiが6分に先制してリヴィウがリードするが、主審はその後直ぐに試合の中止を宣言した。同じスタジアムで、別の体操の大会が開催される予定だった。
Chomickiのゴールは、ポーランドにとってもウクライナにとっても、初めての公式なゴールだと考えられている。この両国が共催して東欧初のヨーロッパ選手権が行われたことは、極めてふさわしいものだったといえる。

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フットボール人気は、1900年台初頭にも広がり続けた。1904年、後に「ポホン」と名付けられる「ギムナスティクス・スポーツクラブ」がリヴィウで設立された。戦時中、ポーランドリーグでも最高の成績を残すようになるクラブだった。
1906年、ウクライナで初めての都市間リーグがリヴィウで設立。その間ソコル運動は影響力を持ち続け、キエフでのフットボール競技普及の助力となった。
1911年までにはシティワイド・リーグはキエフとオデッサにも設立された。フットボールの波及は止められないかに思われた。
しかし1914年、かつてない巨大な規模で欧州各国によって兵力が動員され、戦争への準備が始まるに連れ、フットボールは無期限に中止となった。

第一次世界大戦とヨーロッパ帝国諸国の崩壊の結果、大陸間で国境が最規定された。西ウクライナのほとんどは再建されたポーランドの主支配下に下り、カルパート一帯とウクライナ南西部はチェコスロヴァキアとルーマニアに各々割譲された。
別々の国として別れてしまったが、ウクライナのチームは繁栄を続けた。
現在ではポーランドの一部であるリヴィヴはフットボールの有力な地域でありつづけた。ポホンは4度ポーランドリーグで優勝し、スパルタ・リヴィウは第二次大戦前に唯一開催されたポーランドカップでウィスラ・クラカウに次ぐ準優勝を勝ち取った。
正式な記録ではなかったにせよ、ルス・ウージュホロドは1933年にスロヴァキアリーグを優勝した。

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残りのウクライナ地域は、1922年までにウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国としてにソヴィエト連邦に編入された。
ハルキウは共和制資本主義であったが、ウクライナフットボールで支配的な力を持つようになった。ハルキウのクラブは1921年から1936年まで にウクライナ・ソヴィエトで開催された11のトーナメントの内8度の優勝を飾った。また、彼らはレニングラードから選抜されたチームを、1924年にソ ヴィエト間で初めて行われたカップ戦で下してみせた(このカップ戦が後にソヴィエト・リーグとなる)。 数人のハルキウの選手はソヴィエト代表に選抜された。この時代では、フットボールチームはまだ現在のようなクラブチーム構成ではなかった。各都市の最高の 選手たちが集まって、ウクライナ都市間の勝ち抜きトーナメントでプレーしていた。しかし、この方式はすぐに変化することとなる。
1927年に設立された伝説的なクラブ、ディナモ・キエフは1936年にソヴィエトトーナメントの最後の優勝チームとなった。彼らは、その大会で優勝した初めての「クラブチーム」だった。
1936年はまた、初めてソヴィエトの大会がリーグ戦の形式になった年でもあった。ディナモはその年、初開催の大会で準優勝した。

ウクライナが初めての代表公式試合を行う30年前、非公式の代表チームが詳細は不明だがトルコ代表と試合を行ったという謎めいた記録が残されている。
1933年、トルコ代表はソヴィエト代表との試合に2-1で敗れ、帰国する途上にあった。しかし、ソヴィエトからオデッサへの道のりの最終段階、 黒海を渡る直前になって、なぜか彼らはウクライナ人だけで構成されたチームと試合を行う事となった。その試合はハルキウで行われ、ビルボードには「ウクラ イナ代表 vs トルコ代表」と記載されていた。ウクライナ代表にはハルキウ出身選手7名が含まれていたが、キエフでプレーしていたコンスタンティン・シェゴドクシがハッ トトリックを達成し、3-2の勝利に貢献したという。

キエフは事実上スポーツの中心地として名を挙げており、50,000人収容のナショナル・スポーツ・コンプレックスという施設を建設するという大きなプランを打ち立てていた。1941年6月21日、プロレタリアン・プラヴァダ紙面上には、このような記事が掲載された。

「明日キエフではウクライナ最大の運動施設がオープンします。ニキータ・フルシチョフ(※2)によって『リパブリカン・スタジアム』と名付けられたこの新スタジアムは同時に70,000人が収容可能です。緑のフットボールフィールドは36の区画に分かれた50,000席に囲まれ、国際試合も開催可能です。アンリ・バルビュス通り(※3) に面した場所に現代的な細い柱列があり、そこがスタジアムへの入り口となっています。ソヴィエトの決定によると、レパブリカン・スタジアムは フィットネス施設と冬でも利用可能なプールが併設された総合スポーツ施設となっており、総合的な教育用スポーツトレーニング施設です…」

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6月22日に、こけら落としの試合が行われる予定だった。ディナモ・キエフ対CSKAモスクワだった。
しかし、なんの運命の因果か、まさにその試合当日、ドイツがソヴィエト連邦に対し侵攻を開始し、キエフはドイツ国防軍空軍(ルフトヴァッフェ)によって爆撃を受けた。大祖国戦争(※4)の始まりだった。
スタジアムに吊るされたバナーには、あまりにも楽観的すぎる文句が記されていた。

「勝利の日まで、試合は延期とする」

戦争にもかかわらず、多くのディナモの選手はキエフが占領されている間フットボールをプレーし続けた。
8人のディナモの選手と3人のロコモティフ・キエフの選手で混成されたFCシュタルトが1942年の春に発足。1942年6月7日に行われた発足 記念試合で、同じウクライナのルク相手に7-2の勝利を収めた。夏の間、シュタルトはルーマニアやハンガリー、ドイツなど占領駐屯軍で構成されたチーム相 手に数試合を行い、いずれも勝利した。

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8月6日にはドイツ空軍のエリートチームであったフラケルフと試合を行い、彼らに勝利した。フラケルフはシュタルトに再戦を申し入れ、その試合は 3日後に行われた。この接触の詳細は、曖昧で矛盾したものだった。幾つかのレポートによると、ドイツ側は汚くプレーし、常にシュタルトの選手に対しファウ ルを犯していたという。しかし主審でナチス親衛隊の役人だった人間はウクライナ側のアピールを無視した。にも関わらず、シュタルトは5-3で勝利を収め た。

その試合の直後、多くのシュタルトの選手たちが逮捕され、拷問を受け、ゲシュタポによって処刑された。この件に関して、どこからが真実でどこから がつくり話なのかを見極めるのは困難だ。ソヴィエトのプロパガンダによってシュタルトの選手たちがドイツ軍を恐れず、死が待っているとわかっていても勝利 したヒーローとして祭り上げられたかもしれない。この試合は「デス・マッチ」(※5) と名付けられ、ソヴィエト国内で有名でロマンあふれる物語となり、2度映画化された。しかし、この試合についての正確性は信憑性に欠ける。ハンブルク検察 当局が2005年に断言したところによると、試合に勝利したことで選手たちが殺されたと言う証拠は何もない、とのことだった。

その試合で何が起きたかは、この場合問題ではない。
ひとつ言えることは、その試合はウクライナ国家に勇気ある抵抗活動とフットボールでの武勇を植え付けた。
第二次大戦後の数十年間、ウクライナはその事実を自らの国のフットボール武勇伝としてヨーロッパの舞台でも誇ってきたのである。

(続く)

元ネタ
A HISTORY OF FOOTBALL IN UKRAINE 1878-1945
  

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※1 ソコル運動

ソコル運動は(スラブ語では「ファルコン」)若者たちのスポーツ活動であり、Miroslav Tyršと Jindřich Fügnerによって1862年に当時はオーストリア=ハンガリーであったチェコのプラハで結成された体操組織の名称でもある。元々はフィットネストレー ニング施設だったソコルはTyršの持つ肉体的、精神的、そして知的なトレーニングの場としても機能するようになった。このトレーニングは様々な階級のメ ンバーに広まり、最終的には女性も参加するようになった。また、ドイツ帝国(ポーランド)、セルビア、ブルガルア、ロシア帝国(ポーランド、ウクライナ、 ベラルーシ)、そしてクロアチアやスロヴェニアなどスラブ文化圏に広がりを見せた。それらの国々では、ソコルは斥候活動の先駆けともなった。公式には「政 治性のない」機関であったが、ソコルは国家主義的イデオロギーの場として機能し、チェコにおける国家主義発展の重要な一部となった。ソコルの定期刊行物に 掲載された記事やソコル図書室で開催されたレクチャー、そして大規模な体操フェスティバルにおいて行われた劇場的パフォーマンスは「スレッツ」(複数形: スレティ。「鳥たちの集会」を意味する。語源は動詞"slétnout se"で、「飛ぶために集まる」)と呼ばれ、チェコ国家主義神話と歴史的位置づけの形成・拡散に寄与した。

引用元 en.wikipedia 「Sokol」より

※2 ニキータ・フルシチョフ

後のソヴィエト連邦第4代最高指導者。当時はウクライナで政治力を振るっていた。

1931年に、モスクワ党専従となり、モスクワ地下鉄の建設の功でレーニン勲章を受章した。この功績がスターリンの目に留まり、1934年の第 17回ソ連共産党大会で中央委員に選出され、翌1935年にはモスクワ党第一書記となる。1938年、政治局員候補となり、スターリンに粛清されたスタニ スラフ・コシオールの後任として、ウクライナ共産党第一書記となった。1939年、第18回党大会で政治局員に昇格する。
この時期、党中央では大粛清の嵐が吹き荒れていたが、フルシチョフもスターリンを称える演説をし、さらにはウクライナにて大規模な粛清を実行し た。1938年だけで10万人以上が逮捕され、大部分が処刑された。中央委員会で200人の役員の中で生き残れたのは、わずか3人であった。


引用元 ja.wikipedia 「ニキータ・フルシチョフ」より

※3 アンリ・バルビュス

反戦小説『砲火』を書き、ゴンクール賞受賞。戦場体験にもとづいた反戦運動「クラルテ運動」を展開し、小牧近江、種蒔く人の人々、小林多喜 二ら日本の作家、芸術家にも影響を与えた。フランス共産党に入党し、ソ連擁護の立場で反ファシズム、反戦運動を展開した。スターリンの伝記を改作していた 時、モスクワで客死した。エスペランティストでもあった。

引用元 ja.wikipedia 「アンリ・バルビュス」より

※4 大祖国戦争

Отечественная война、ウクライナ語: Велика Вітчизняна війна)は、ロシアをはじめとする旧ソビエト連邦諸国のいくつかで使われる用語。第二次世界大戦のうち、ソビエト連邦がナチス・ドイツおよびその同盟 国と戦った1941年6月22日から1945年5月9日までの戦いを指す。旧ソ連諸国の外では、この用語は一般的に使われることはなく、東部戦線 (Eastern Front)、独ソ戦などの用語が使われている。この戦闘の詳細については「独ソ戦」を参照のこと。
「大祖国戦争」と「第二次世界大戦」とでは指す範囲が異なっている。「大祖国戦争」は、ドイツをはじめとするヨーロッパの枢軸国諸国軍とソビエト 連邦との間の戦いであり、ソビエト連邦と日本との戦い(満洲侵攻)や、ドイツと西欧・英米諸国との戦い(西部戦線)は含まれない。
「大祖国戦争」という用語は、1941年6月22日のドイツの対ソ攻撃(バルバロッサ作戦)開始の直後に登場した。1812年にロシア帝国へ侵攻 したフランス帝国のナポレオン1世をロシアが打ち破った戦いは、ロシアでは「祖国戦争」と称される。ソ連当局はこれをなぞらえた呼称でナチス・ドイツとの 戦争を呼ぶことで、戦いにあたってロシア・ナショナリズムによって国民を鼓舞しようとした。ドイツ軍の侵攻直後の「プラウダ」紙には、「ソビエト人民の大 祖国戦争」(Velikaya Otechestvennaya voyna sovetskogo naroda)と題された長い記事が掲載されている。1942年5月20日には、大祖国戦争において英雄的な行為を見せた兵士やパルチザンらに対して贈ら れる「祖国戦争勲章」(Орден Отечественной войны, Order of the Patriotic War)が制定された。
ソ連時代の辞書学においては、「大祖国戦争」とはソビエトの共産主義とドイツのナチズム(ファシズム)という二つのイデオロギーの間の闘争であり、最終的にソビエトの共産主義システムがファシズムに打ち勝ってその優位性を示したとされる。


引用元 ja.wikipedia 「大祖国戦争」より

※5 The Death Match - en.wikipedia参照。 

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