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今回は、第二次大戦後から1972年までの歴史について触れてみます。
◇◇◇
ナショナルスタジアム建設から3年後、キエフは赤軍の手によりナチス占領から開放された。
開戦日に「勝利の日まで、試合は延期とする」 と吊るされたバナーは、現実のものとなったのだ。
1944年6月25日、ドイツ国防軍空軍のキエフ爆撃から3年と3日後、ようやくナショナルスタジアムは一般市民に公開された。ディナモ・キエフ対CSKAモスクワの試合だった。
しかしながら、試合後、ナチス占領の間スタジアムが保護されずに損害を受けていることが明らかになり、修復のために再度閉鎖された。
1948年、スタジアムは再々開された。戦争を生き延び、1941年に行われる予定だったこけら落としの試合のチケットを保持していたすべての観客は、生涯に渡ってスタジアムへの入場が無料となった。
終戦後、ソヴィエトの国境は完全に現在のウクライナ共和国と同じ状態に拡大された。
西ウクライナに位置するリヴィウやウージュホロドの街はフットボールの才能を輩出する重要な場所となった。
しかしドイツに勝利してからの10年間は、ウクライナフットボールはソヴィエトリーグの中でインパクトを与える存在ではなかった。
ディナモ・キエフは選手の多くを失っていた。ドイツ占領期に殺されたり、身体に欠損を負ってしまったり、単純に消えた者もいたのだ。1941年のこけら落としに出場するはずだった22名の内、終戦後のメンバーに残ったのは2名のみだった。
◇◇◇
壊滅的な損失の結果、ディナモもまた壊滅した。
終戦後初のソヴィエトリーグが行われた1945年シーズン、下から2番目の順位となった。翌シーズンは最下位だったが、彼らの戦時中の事情を考慮して降格は免れた。
彼らの監督職は回転ドア状態だった。1946年から1951年の間、ディナモでは少なくとも10人以上の監督が辞めている。
その状況に終止符を打ったのは、ロシア人監督のオレグ・オシェンコフだった。1951年に彼が就任した後、クラブは安定軌道に入った。
オシェンコフはユースチームから多くの選手を起用し、選手たちの冬休暇を急激に少なくし、肉体強化のプログラムを導入した。
結果は直ぐに表れた。就任2年目、ディナモは長らく強豪であったスパルタク・モスクワに次ぐ2位でシーズンを終えた
1954年シーズンには、彼らはクラブで初めてのタイトルとなるソヴィエトカップ優勝を勝ち取る。スパルタクやCSKAといった強豪のモスクワ勢、レニングラードのゼニトを下し、決勝でアルメリアのスパルタク・エレバン(※1)を2-1で破った。
この時期、ディナモはウクライナで有力なクラブであったが、ディナモだけがソヴィエトリーグで活躍していた唯一のウクライナ勢だったわけではない。
シャフタール・ドネツクの前身であったスタハノフ・スタリーノがソヴィエトリーグで1949年から1952年の間プレーし、1955年からはトップリーグに定着した。
1960年にはハルキウのアヴァンガルドがトップリーグに昇格し、4年間在籍した。後にオデッサのクラブ、ドニプロペトロウシクとボロシーロフグラード(後のルハンシク)もソヴィエトリーグで活躍することとなる。
しかしディナモは、疑う余地もなく、ウクライナフットボールにおける旗艦的存在だった。1950年台はソヴィエトカップで優勝できなかったが、 ディナモの選手たちはソヴィエト代表に呼ばれるようになった。1955年にヴィクトル・フォミンがソヴィエト代表でプレーする初めてのディナモの選手にな ると、ユリー・ヴォイノフは1958年にワールドカップに出場したソヴィエト代表に選出され、1960年には初開催のチャンピオンズカップ優勝メンバーと なった。そして1961年には、ディナモは遂にモスクワ支配を打ち破り、首都以外でソヴィエトリーグを優勝した初めてのクラブとなった。
同年、シャフタールもソヴィエトカップを優勝。ウクライナフットボールの時代が到来した。
◇◇◇
1961年のタイトルはこの後起こる出来事の、ちょうど予兆のようなものだった。
優勝後の2シーズンは5位、7位と停滞したディナモだったが、それは彼らのソヴィエトリーグの頂点へ上り詰めていく弛むことのない上昇の中の、一時的な降下であった。
1964年、ロシア人監督のヴィクトル・マスロフがディナモの監督に就任した。マスロフは試合でプレーする方法に効果的な革命をもたらした。就任 後、ヴァレリー・ロバノフスキーやユリー・ヴォイノフ、オレグ・バジレヴィシュなどの有名な選手をチームから追い出して、彼は多くのディナモファンの怒り を買った。彼らはディナモに初めてのタイトルをもたらした重要な選手たちだった。
マスロフは、チーム内で派閥が構築されていることに不満だったと伝えれている。有名選手たちが、その派閥文化の先導者であったと考えたのだ。
しかし、有名選手追放にはフットボール面の原因もあった。
マスロフはヘビー・プレッシングの先駆者であり、彼らのような選手たちが自分の求めるスタイルに合わないと考えたのかもしれない。
彼は、サー・アルフ・ラムゼイがイングランドを1966年ワールドカップで優勝させたのとほぼ同時期に4-4-2のフォーメーションを導入。 サー・アルフ・ラムゼイは4-4-2システムを発明した人物だと考えられている。1964年にシャフタールからディナモに加入したヴィタリー・フメルニツ キーは、マスロフにとってのキープレイヤーであった。
彼はこう語る。
「マスロフは、攻撃と守備を最大の人数で行えるチーム作りを模索していた。2人のフォワードが前線に構え、その下を4人のミッドフィールダーがサ ポートする。その4人は、必要なときにはディフェンスも行う。私の考えでは、一般的に言われているが、それは『中盤が全てのチームの個性と実力を規定す る』 というものだ」
マスロフはフィジカルの優位性と厳しいトレーニング管理の実施もまた重要視した。
フメルニツキーは、マスロフがどのようにしてコーチングについて熟知するようになったかについて聞かれた際、シンプルにこう答えている。
「神からの贈り物だよ。ミュージシャンや詩人、画家として生まれてくる人がいる。マスロフは監督になるべく生まれてきたんだ」
著名な英国人記者のジョナサン・ウィルソン(東欧フットボールとフットボールの戦術史に詳しい)は、マスロフの戦術は「モダン・フットボールの誕生」と考えられる、と記した。
◇◇◇
結果は直ぐに出る。
同年、彼らは2度目のソヴィエト・カップ優勝を勝ち取った。
より重要なことは、彼らがUEFAカップ・ウィナーズ・カップの出場権を得たということだった。
この時点より以前では、ソヴィエトのサッカー協会はクラブの大陸間大会への参加を許可していなかった。当時は冷戦下で、ソヴィエトのクラブが資本主義国家のクラブに敗れて威信が低下することを恐れての措置だったと推測できる。
しかしこの時、驚くべきことに、 ディナモは大会への参加を許可され、ソヴィエトで初めてヨーロッパ間における大会に参加するクラブとなった。アンドレイ・ビバ(※2)はソヴィエトのクラブとして初めてヨーロッパの大会で得点した中盤の選手だが、後にこう語っている。
「なぜ出場許可が下りたのか、私にはわからない。しかし、チームのメンバーは『モルモットとして利用された』と考えていたよ。モスクワのビッグク ラブにとっては、自らリスクを冒すことなく大会で実力を確かめられるんだ。私たちは非常に利用しやすかったのだ。私たちは『目隠し状態』でプレーしていた よ。なにせ、対戦相手の情報を得ることが全く出来なかったんだからね。今のようにコーチングスタッフが旅行して相手チームを偵察に行くというのは、当時は 夢物語のようなものだった。 全てが新しく、未知の世界だった。一言で言えば、私たちは『開拓者』だったのさ」
対戦相手の情報が不足していたにも関わらず、ディナモは彼らの初めてのヨーロッパで見事なパフォーマンスを見せた。
チームにはKGBも帯同し、政治的に不適切な態度を取らないように監視されていた。
ディナモは北アイルランドのコルレーンFC(※3)を合計10-1で下し、次の試合ではノルウェーのローゼンボリBKを相手に6-1の勝利を収めた。
準々決勝でセルティックに敗れはしたものの、セルティックは翌年ヨーロピアンカップに優勝して英国勢で初めてヨーロッパ制覇を達成したほどの強豪であった。
ディナモは国内でも成功を収めた。
ソヴィエトリーグを1966年から68年まで三連覇。CSKAモスクワが1946年から48年の間に成し遂げた偉業を再現してみせた。
1966年には、2位のFC SKAロストフ(※4)との勝ち点差を9ポイントに広げての圧勝だった。しかも当時は勝利した時の勝ち点が2ポイントであったのに、この大差である。
同年、アンドレイ・ビバはソヴィエトの最優秀年間選手に選出。加えて、ディナモは3度目のソヴィエトカップ優勝を1966年に飾っている。彼らは初めて国内2冠を達成した。
初出場のヨーロピアンカップでは、前年度覇者のセルティックを相手に1回戦で勝利するも、2回戦でポーランドのグールニク・ザブジェ(※5)に敗れて大会から姿を消した。
◇◇◇
そんな栄光の日々も、終わりを告げる。
マスロフは、彼がディナモをトップレベルに維持できなければ何の意味もないという厳しい道に気が付こうとしていた。
1969年に2位に終わったディナモは翌年7位に降下。賛否両論ある中、ディナモはマスロフ解任を決めた。
結果として監督の交代というのは不可避のものかもしれないが、マスロフが解任されたようなぞんざいな方法は彼のクラブへの貢献に相応しいものではなかった。
ディナモはCSKAと対戦する為、モスクワに滞在していた。
ソヴィエト・デイリースポーツ・エクスプレス紙のインタビューでアンドレイ・ビバはこう明かしている。
「マスロフ解任は単純に最低だった。想像できるかい?クラブはキエフで彼と会談を持つのを恐れていたんだ。ウクライナスポーツ委員会のメンバー だったミジャクが…彼はフットボールに関しては素人だったんだが、何故かウィンタースポーツの担当者になったんだ…、彼が予期せず我々が滞在していた 『ロッシア』ホテルに訪れた。我々のクラブの卑怯な会長が、ミジャクにマスロフへの伝言を託したんだ。『キエフはもうこれ以上マスロフに監督をさせるつも りはない』というね。次の日、私達がどうやってプレーしたか思い出せないよ。私たちは空港から飛行機に乗り、マスロフは残った。苦しい目をしていた。私達 には一度も見せなかった涙を目に湛えていた」
そうやって、ディナモ・キエフの初めての黄金期は恥ずべき終わりを迎えた。しかし、そんな不名誉な状況で解任されたにも関わらず、マスロフはディナモで不朽の遺産を残し、このドニプロ川沿いの伝説的なクラブを構築する土台を作り上げたのだ。
この土台は、彼らを次のレベルへ押し上げる監督、明確なビジョンを持った人間を必要とした。
◇◇◇
ディナモの成功の裏で、ウクライナの選手はソヴィエト代表に招集されなかった。
1966年のワールドカップでディナモから選出されたのはたった5人で、そのうちヨゼフ・サボのみが11人の中のレギュラーとしてプレーした。他のウクライナのクラブからは、選出されなかった。
しかし、1960年台の終わりにモスクワ主体であった代表チームの中心選手、レフ・ヤシン(※6)やエドゥアルド・ストレリツォフ(※7)、ウラジミル・ポノマレフらがキャリアの終わりを迎えつつあった。
このことで、ウクライナのより若い世代にチャンスが与えられることになった。1972年の欧州選手権において、6人のウクライナ人選手が招集された。
決勝戦でドイツに負けた試合では、ザーリャ・ボロシーロフグラード(※8)、シャフタール・ドネツク、カルパティ・リヴィウ(※9)の選手がチームに参加していた。
ディナモがウクライナフットボールを支配し続ける中、他地域のクラブもソヴィエトリーグで新たな波を作り出していた。
1969年にカルパティ・リヴィウが最初にして唯一、トップリーグ在籍チーム以外でソヴィエト・カップを制したクラブになると、翌シーズンにはトップリーグに昇格。
決勝戦では4,000名のファンが1,400km離れたモスクワのルジニキ・スタジアムへ遠征し、SKAロストフとの試合を観戦した。
カルパティが20分に先制を許したが、彼らのファンは声を張り上げて応援し続けた。はるばる旅行した派遣軍団は、試合中ウクライナ語の歌である「Cheremshyna」(※10)を歌い続けた。カルパティの主将だったイホル・クルチェツキーはこう振り返る。
「『Cheremshyna』の歌はスタジアム中から聞こえてきた。信じられない出来事だったよ。ナーバスな心を一気に吹き飛ばしたんだ」
ファンの声援に押されてカルパティは後半2ゴールをあげ、見事地元にトロフィーを持ち帰った。
彼らは翌シーズンにはカップ・ウィナーズ・カップにも出場したが、善戦空しく1回戦でステアウア・ブカレストに敗れて大会を去った。
(続く)
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※1 FCアララト・エレバン
FCアララト(アルメニア語: Ֆուտբոլային Ակումբ Արարատ Երեւան、英語: Football Club Ararat)は、アルメニアの首都エレバンを本拠地とするサッカークラブである。
クラブは1935年にスパルタクとして創設され、1963年に現在のアララトに改名された。
チームは1949年から1950年、1960年から1963年、1965年から1991年の間、ソ連トップリーグに在籍した。1973年には国内 リーグとUSSRカップのダブルを達成、1975年にも再びUSSRカップに優勝した。アララトはソ連の主要タイトルを獲得した唯一のアルメニアのクラブ だった。
1973年のソ連リーグ優勝によって出場した1974-75シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは準々決勝に進出したが、最後は西ドイツのバイエルン・ミュンヘンに2試合合計スコア1-2で敗れた。
(引用元 Wikipedia.ja「FCアララト・エレバン」より)
※2 アンドレイ・ビバ
ビバは東欧における史上最高のプレーメイカーとして知られている。ガーディアン紙のジョナサン・ウィルソンは「彼はヴィクトル・マスロフ率 いるディナモ・キエフの中で、サー・アルフ・ラムゼイ率いるイングランドのボビー・チャールトンの役割を果たしていた。攻撃的な中盤の選手でボールをア タッキング・サードで動かし、ミドルシュートも打った」と説明している。
ビバはソヴィエト代表として、唯一1965年7月4日の親善試合・対ブラジル戦に出場し、ペレとプレーしたことがある。
(引用元 Wikipedia.en「Andriy Biba」より)
※3 FCコルレーン
コルレーンFCは北アイルランドのセミプロクラブである。IFAプレミアシップに在籍。1927年にロンドンデリー州コルレーンに設立され、ショウグラウンズを本拠地として使用している。クラブカラーは青と白。
コルレーンは「ベルファスト・ビッグ2」として知られたリンフィールドとグレントランを除き、北アイルランドで最も成功したクラブで、アイリッシュリーグ優勝1回、アイリッシュカップ優勝5回を誇る名門である。
(引用元 Wikipedia.en Coleraine F.C.)
※4 FC SKAロストフ
クラブは1937年8月27日にRODKA(РОДКА、1937年–1953年)として創設され、ODO(ОДО、1954年–1956年)、SKVO(СКВО、1957年–1959年)というクラブ名を経て、1960年に現在の名前に落ち着いた。
SKVOは1958年にソビエトリーグのクラスB(2部)に参加した。それ以前のチームは地域のトーナメントでプレーするだけだった。SKVOは 1958年のクラスBでチャンピオンとなり、クラスA(1部)に昇格した。1973年までソビエトサッカーのトップレベルに留まり続け、1966年には準 優勝、1959年、1960年、1963年、1964年には4位となった[1]。
1970年代と1980年代のSKAはトップリーグとファーストリーグの間を何度も往復した。1973年の降格後、1974年、1976年から 1978年、1982年から1983年、1986年から1989年の時期はファーストリーグ、1975年、1979年から1981年、1984年から 1985年の時期はトップリーグでプレーした。ソビエトサッカーの最後の2年間(1990年と1991年)をSKAはセカンドリーグ(3部)で過ごした。
SKAはUSSRカップでも成功を収めた。1981年にトロフィーを勝ち取り、1969年と1971年にも決勝戦に進んだ。
(引用元 Wikipedia.ja「FC SKAロストフ・ナ・ドヌ」より)
※5 グールニク・ザブジェ
クラブはザブジェ市の KS Zjednoczenie、KS Pogon、KS Skra、KSコンコルディアが合併して誕生した。名称のグルニクとはポーランド語で鉱夫を意味する言葉で、ザブジェで鉱工業が盛んであった事に由来している。
1950年にシレジア地域リーグに加わり1952年にポーランド2部に昇格。1955年に1部リーグに昇格した。昇格初年度に3位、翌1957年 に初のリーグ制覇を成し遂げた。1961年には初めてUEFAチャンピオンズカップに出場したが1回戦でイングランドのトッテナム・ホットスパーFCに敗 れた。
1960年代に入るとリーグ5連覇(1963、1964、1965、1966、1967)を達成した。なお、これは現在もポーランド記録となっている。
ヨーロッパサッカー界におけるクラブ最大の成功としては1970年のUEFAカップウィナーズカップにおいて、オリンピアコスFC、グラスゴー・ レンジャーズFC、レフスキ・ソフィア、ASローマを下して決勝進出した事が挙げられる。ウィーンで行われた決勝ではマンチェスター・シティFCに1-2 で敗れたが、ヴォジミエシュ・ルバンスキらを中心としたサッカーは話題となった。
(引用元 Wikipedia.ja「グールニク・ザブジェ」より)
※6 レフ・ヤシン
しばしばサッカー史上最高のゴールキーパーと評される。彼は現在までにGKで唯一のバロンドール受賞者であり、1998年にはFIFAの 20世紀ワールドチームのGKに選ばれた。FIFAワールドカップの大会最優秀GKに与えられる賞には、1994年大会以降「ヤシン賞」と名付けられてい る。
クラブではデビューから引退まで20年以上をディナモ・モスクワ一筋で過ごし、326試合出場[1]、リーグ優勝5回、カップ優勝3回を経験し た。ソ連代表としては通算78試合に出場し、夏季オリンピック優勝1回、欧州選手権優勝1回。FIFAワールドカップでは合計13試合に出場した。
非常に長い腕と、黒いユニフォームと黒いグローブを付けていた風貌から「黒蜘蛛」と呼ばれた。必要とあらば積極的にペナルティエリアの外にも飛び 出すプレースタイルは同時代のほかのGKには見られない特長だった[1]。真偽は不明だが語られるところによれば彼は150本以上のPKを止めたという。
ナショナルチームでは通算78試合プレーし、70失点だった。ヤシンの全盛期だった当時は現在と比べてディフェンス技術のレベルが高くなく、フェ レンツ・プスカシュを始めとした一流のストライカー達が容易くゴールを決められる環境であったことを考えると驚異的な記録といえる。
(引用元 Wikipedia.jp「レフ・ヤシン」より)
※7 エドゥアルド・ストレリツォフ
エドゥアルド・アナトリエヴィッチ・ストレリツォフ(Эдуард Анатольевич Стрельцов、1937年7月21日 - 1990年7月22日)は、ソビエト連邦出身のサッカー選手である。
FIFAワールドカップ出場がないこともあり国際的知名度は高くないが、1950年代から1960年代にかけてのソ連を代表する伝説的FWで、「ロシアのペレ」と呼ばれる。
1953年にトルペド・モスクワのユースチームに加入し、1954年に17歳でソ連リーグデビューを果たす。トルペドではワレンチン・イワノフ(1962年W杯チリ大会得点王)と強力な2トップを組んだ。1955年に15ゴールを挙げて得点王に輝く。
ソ連代表に初招集されたのは1955年。デビュー戦のスウェーデン戦でいきなりハットトリックを挙げて、ソ連は6-0で快勝した。1956年のメルボルンオリンピックでは4試合出場2ゴールで金メダル獲得に貢献した。
順調だった彼の人生は1958年に大きく変わる。W杯スウェーデン大会初戦が2週間に迫った時期に、ストレリツォフはレイプ事件の加害者として起 訴された。自白すればW杯に間に合うという甘い囁きもあったが、現実にはそうはならなかった。結局、エースを失ったソ連は準々決勝で開催国スウェーデンに 敗れた。
有罪判決を受けたストレリツォフは強制労働所に送られ、サッカー選手としての最盛期を無為に過ごした。しかしこの事件の真相には疑わしい部分が多 く、当局により仕組まれた罠との見方が支配的である。彼がKGB系のディナモ・モスクワや赤軍系のCSKAモスクワへの移籍を拒否したため、または彼の奔 放で無軌道な振る舞いを潔癖主義の当局が嫌ったため、または政府要人のエカチェリーナ・フルツェワの娘を公の場で侮辱する発言を行ったためなど、原因には 諸説がある。
1963年にモスクワに帰還。当初はトルペドの母体である自動車工場のアマチュアチームでプレイしていたが、1965年にトルペドに戻り、同年の ソ連リーグで優勝した。ブランクを経て、プレイスタイルは以前のストライカーからプレイメーカーへと変わっていたものの、その才能の輝きは変わらなかっ た。1966年に再び代表に招集され、1967年と1968年にはソ連年間最優秀選手賞を受賞した。1970年に負傷のため引退した。
(引用元 Wikipedia.jp「エドゥアルド・ストレリツォフ」より)
※8 ザーリャ・ボロシーロフグラード
現・FCゾーリャ・ルハンスク。
1923年にルハンスクの製鉄所の労働者たちが前身であるメタリストを作る。1972年にゾーリャは一度だけソヴィエトリーグで優勝を果たした。
(引用元 Wikipedia.en「FC Zorya Luhansk」より)
※9 カルパティ・リヴィウ
FCカルパティ・リヴィウ(英語: FC Karpaty Lviv, ウクライナ語: ФК «Карпати» Львів)は、ウクライナの都市リヴィウに本拠地を置くサッカークラブである。
USSRカップ優勝1回、ウクライナ・カップ準優勝2回(1993,1999)を誇る。
(引用元 Wikipedia.ja「FCカルパティ・リヴィウ」より)
※10 Cheremshyna
「Cheremshyna」はウクライナ語のポピュラーなロマンス・ソングである。その知名度ゆえ、フォークソングとして知られている。こ の歌が初めて発売されたのは1965年のことで、作曲はヴァシル・ミクハイリュク、作詞はミコラ・ユリーチュクによるもの。初めて歌ったのはドミトロ・フ ナチュク。
Cheremshynaはウクライナ語で「Prunus padus」(エゾノウワミズザクラ:サクラの一種。ロシアでは果実を食べるが、苦味を持つ)の意。
様々な歌手に歌い継がれる名曲である。
(引用元 Wikipedia.en「Cheremshyna」より)
Youtubeより:КВІТКА ЦІСИК "ЧЕРЕМШИНА"
ナショナルスタジアム建設から3年後、キエフは赤軍の手によりナチス占領から開放された。
開戦日に「勝利の日まで、試合は延期とする」 と吊るされたバナーは、現実のものとなったのだ。
1944年6月25日、ドイツ国防軍空軍のキエフ爆撃から3年と3日後、ようやくナショナルスタジアムは一般市民に公開された。ディナモ・キエフ対CSKAモスクワの試合だった。
しかしながら、試合後、ナチス占領の間スタジアムが保護されずに損害を受けていることが明らかになり、修復のために再度閉鎖された。
1948年、スタジアムは再々開された。戦争を生き延び、1941年に行われる予定だったこけら落としの試合のチケットを保持していたすべての観客は、生涯に渡ってスタジアムへの入場が無料となった。
終戦後、ソヴィエトの国境は完全に現在のウクライナ共和国と同じ状態に拡大された。
西ウクライナに位置するリヴィウやウージュホロドの街はフットボールの才能を輩出する重要な場所となった。
しかしドイツに勝利してからの10年間は、ウクライナフットボールはソヴィエトリーグの中でインパクトを与える存在ではなかった。
ディナモ・キエフは選手の多くを失っていた。ドイツ占領期に殺されたり、身体に欠損を負ってしまったり、単純に消えた者もいたのだ。1941年のこけら落としに出場するはずだった22名の内、終戦後のメンバーに残ったのは2名のみだった。
◇◇◇
壊滅的な損失の結果、ディナモもまた壊滅した。
終戦後初のソヴィエトリーグが行われた1945年シーズン、下から2番目の順位となった。翌シーズンは最下位だったが、彼らの戦時中の事情を考慮して降格は免れた。
彼らの監督職は回転ドア状態だった。1946年から1951年の間、ディナモでは少なくとも10人以上の監督が辞めている。
その状況に終止符を打ったのは、ロシア人監督のオレグ・オシェンコフだった。1951年に彼が就任した後、クラブは安定軌道に入った。
オシェンコフはユースチームから多くの選手を起用し、選手たちの冬休暇を急激に少なくし、肉体強化のプログラムを導入した。
結果は直ぐに表れた。就任2年目、ディナモは長らく強豪であったスパルタク・モスクワに次ぐ2位でシーズンを終えた
1954年シーズンには、彼らはクラブで初めてのタイトルとなるソヴィエトカップ優勝を勝ち取る。スパルタクやCSKAといった強豪のモスクワ勢、レニングラードのゼニトを下し、決勝でアルメリアのスパルタク・エレバン(※1)を2-1で破った。
この時期、ディナモはウクライナで有力なクラブであったが、ディナモだけがソヴィエトリーグで活躍していた唯一のウクライナ勢だったわけではない。
シャフタール・ドネツクの前身であったスタハノフ・スタリーノがソヴィエトリーグで1949年から1952年の間プレーし、1955年からはトップリーグに定着した。
1960年にはハルキウのアヴァンガルドがトップリーグに昇格し、4年間在籍した。後にオデッサのクラブ、ドニプロペトロウシクとボロシーロフグラード(後のルハンシク)もソヴィエトリーグで活躍することとなる。
しかしディナモは、疑う余地もなく、ウクライナフットボールにおける旗艦的存在だった。1950年台はソヴィエトカップで優勝できなかったが、 ディナモの選手たちはソヴィエト代表に呼ばれるようになった。1955年にヴィクトル・フォミンがソヴィエト代表でプレーする初めてのディナモの選手にな ると、ユリー・ヴォイノフは1958年にワールドカップに出場したソヴィエト代表に選出され、1960年には初開催のチャンピオンズカップ優勝メンバーと なった。そして1961年には、ディナモは遂にモスクワ支配を打ち破り、首都以外でソヴィエトリーグを優勝した初めてのクラブとなった。
同年、シャフタールもソヴィエトカップを優勝。ウクライナフットボールの時代が到来した。
◇◇◇
1961年のタイトルはこの後起こる出来事の、ちょうど予兆のようなものだった。
優勝後の2シーズンは5位、7位と停滞したディナモだったが、それは彼らのソヴィエトリーグの頂点へ上り詰めていく弛むことのない上昇の中の、一時的な降下であった。
1964年、ロシア人監督のヴィクトル・マスロフがディナモの監督に就任した。マスロフは試合でプレーする方法に効果的な革命をもたらした。就任 後、ヴァレリー・ロバノフスキーやユリー・ヴォイノフ、オレグ・バジレヴィシュなどの有名な選手をチームから追い出して、彼は多くのディナモファンの怒り を買った。彼らはディナモに初めてのタイトルをもたらした重要な選手たちだった。
マスロフは、チーム内で派閥が構築されていることに不満だったと伝えれている。有名選手たちが、その派閥文化の先導者であったと考えたのだ。
しかし、有名選手追放にはフットボール面の原因もあった。
マスロフはヘビー・プレッシングの先駆者であり、彼らのような選手たちが自分の求めるスタイルに合わないと考えたのかもしれない。
彼は、サー・アルフ・ラムゼイがイングランドを1966年ワールドカップで優勝させたのとほぼ同時期に4-4-2のフォーメーションを導入。 サー・アルフ・ラムゼイは4-4-2システムを発明した人物だと考えられている。1964年にシャフタールからディナモに加入したヴィタリー・フメルニツ キーは、マスロフにとってのキープレイヤーであった。
彼はこう語る。
「マスロフは、攻撃と守備を最大の人数で行えるチーム作りを模索していた。2人のフォワードが前線に構え、その下を4人のミッドフィールダーがサ ポートする。その4人は、必要なときにはディフェンスも行う。私の考えでは、一般的に言われているが、それは『中盤が全てのチームの個性と実力を規定す る』 というものだ」
マスロフはフィジカルの優位性と厳しいトレーニング管理の実施もまた重要視した。
フメルニツキーは、マスロフがどのようにしてコーチングについて熟知するようになったかについて聞かれた際、シンプルにこう答えている。
「神からの贈り物だよ。ミュージシャンや詩人、画家として生まれてくる人がいる。マスロフは監督になるべく生まれてきたんだ」
著名な英国人記者のジョナサン・ウィルソン(東欧フットボールとフットボールの戦術史に詳しい)は、マスロフの戦術は「モダン・フットボールの誕生」と考えられる、と記した。
◇◇◇
結果は直ぐに出る。
同年、彼らは2度目のソヴィエト・カップ優勝を勝ち取った。
より重要なことは、彼らがUEFAカップ・ウィナーズ・カップの出場権を得たということだった。
この時点より以前では、ソヴィエトのサッカー協会はクラブの大陸間大会への参加を許可していなかった。当時は冷戦下で、ソヴィエトのクラブが資本主義国家のクラブに敗れて威信が低下することを恐れての措置だったと推測できる。
しかしこの時、驚くべきことに、 ディナモは大会への参加を許可され、ソヴィエトで初めてヨーロッパ間における大会に参加するクラブとなった。アンドレイ・ビバ(※2)はソヴィエトのクラブとして初めてヨーロッパの大会で得点した中盤の選手だが、後にこう語っている。
「なぜ出場許可が下りたのか、私にはわからない。しかし、チームのメンバーは『モルモットとして利用された』と考えていたよ。モスクワのビッグク ラブにとっては、自らリスクを冒すことなく大会で実力を確かめられるんだ。私たちは非常に利用しやすかったのだ。私たちは『目隠し状態』でプレーしていた よ。なにせ、対戦相手の情報を得ることが全く出来なかったんだからね。今のようにコーチングスタッフが旅行して相手チームを偵察に行くというのは、当時は 夢物語のようなものだった。 全てが新しく、未知の世界だった。一言で言えば、私たちは『開拓者』だったのさ」
対戦相手の情報が不足していたにも関わらず、ディナモは彼らの初めてのヨーロッパで見事なパフォーマンスを見せた。
チームにはKGBも帯同し、政治的に不適切な態度を取らないように監視されていた。
ディナモは北アイルランドのコルレーンFC(※3)を合計10-1で下し、次の試合ではノルウェーのローゼンボリBKを相手に6-1の勝利を収めた。
準々決勝でセルティックに敗れはしたものの、セルティックは翌年ヨーロピアンカップに優勝して英国勢で初めてヨーロッパ制覇を達成したほどの強豪であった。
ディナモは国内でも成功を収めた。
ソヴィエトリーグを1966年から68年まで三連覇。CSKAモスクワが1946年から48年の間に成し遂げた偉業を再現してみせた。
1966年には、2位のFC SKAロストフ(※4)との勝ち点差を9ポイントに広げての圧勝だった。しかも当時は勝利した時の勝ち点が2ポイントであったのに、この大差である。
同年、アンドレイ・ビバはソヴィエトの最優秀年間選手に選出。加えて、ディナモは3度目のソヴィエトカップ優勝を1966年に飾っている。彼らは初めて国内2冠を達成した。
初出場のヨーロピアンカップでは、前年度覇者のセルティックを相手に1回戦で勝利するも、2回戦でポーランドのグールニク・ザブジェ(※5)に敗れて大会から姿を消した。
◇◇◇
そんな栄光の日々も、終わりを告げる。
マスロフは、彼がディナモをトップレベルに維持できなければ何の意味もないという厳しい道に気が付こうとしていた。
1969年に2位に終わったディナモは翌年7位に降下。賛否両論ある中、ディナモはマスロフ解任を決めた。
結果として監督の交代というのは不可避のものかもしれないが、マスロフが解任されたようなぞんざいな方法は彼のクラブへの貢献に相応しいものではなかった。
ディナモはCSKAと対戦する為、モスクワに滞在していた。
ソヴィエト・デイリースポーツ・エクスプレス紙のインタビューでアンドレイ・ビバはこう明かしている。
「マスロフ解任は単純に最低だった。想像できるかい?クラブはキエフで彼と会談を持つのを恐れていたんだ。ウクライナスポーツ委員会のメンバー だったミジャクが…彼はフットボールに関しては素人だったんだが、何故かウィンタースポーツの担当者になったんだ…、彼が予期せず我々が滞在していた 『ロッシア』ホテルに訪れた。我々のクラブの卑怯な会長が、ミジャクにマスロフへの伝言を託したんだ。『キエフはもうこれ以上マスロフに監督をさせるつも りはない』というね。次の日、私達がどうやってプレーしたか思い出せないよ。私たちは空港から飛行機に乗り、マスロフは残った。苦しい目をしていた。私達 には一度も見せなかった涙を目に湛えていた」
そうやって、ディナモ・キエフの初めての黄金期は恥ずべき終わりを迎えた。しかし、そんな不名誉な状況で解任されたにも関わらず、マスロフはディナモで不朽の遺産を残し、このドニプロ川沿いの伝説的なクラブを構築する土台を作り上げたのだ。
この土台は、彼らを次のレベルへ押し上げる監督、明確なビジョンを持った人間を必要とした。
◇◇◇
ディナモの成功の裏で、ウクライナの選手はソヴィエト代表に招集されなかった。
1966年のワールドカップでディナモから選出されたのはたった5人で、そのうちヨゼフ・サボのみが11人の中のレギュラーとしてプレーした。他のウクライナのクラブからは、選出されなかった。
しかし、1960年台の終わりにモスクワ主体であった代表チームの中心選手、レフ・ヤシン(※6)やエドゥアルド・ストレリツォフ(※7)、ウラジミル・ポノマレフらがキャリアの終わりを迎えつつあった。
このことで、ウクライナのより若い世代にチャンスが与えられることになった。1972年の欧州選手権において、6人のウクライナ人選手が招集された。
決勝戦でドイツに負けた試合では、ザーリャ・ボロシーロフグラード(※8)、シャフタール・ドネツク、カルパティ・リヴィウ(※9)の選手がチームに参加していた。
ディナモがウクライナフットボールを支配し続ける中、他地域のクラブもソヴィエトリーグで新たな波を作り出していた。
1969年にカルパティ・リヴィウが最初にして唯一、トップリーグ在籍チーム以外でソヴィエト・カップを制したクラブになると、翌シーズンにはトップリーグに昇格。
決勝戦では4,000名のファンが1,400km離れたモスクワのルジニキ・スタジアムへ遠征し、SKAロストフとの試合を観戦した。
カルパティが20分に先制を許したが、彼らのファンは声を張り上げて応援し続けた。はるばる旅行した派遣軍団は、試合中ウクライナ語の歌である「Cheremshyna」(※10)を歌い続けた。カルパティの主将だったイホル・クルチェツキーはこう振り返る。
「『Cheremshyna』の歌はスタジアム中から聞こえてきた。信じられない出来事だったよ。ナーバスな心を一気に吹き飛ばしたんだ」
ファンの声援に押されてカルパティは後半2ゴールをあげ、見事地元にトロフィーを持ち帰った。
彼らは翌シーズンにはカップ・ウィナーズ・カップにも出場したが、善戦空しく1回戦でステアウア・ブカレストに敗れて大会を去った。
(続く)
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※1 FCアララト・エレバン
FCアララト(アルメニア語: Ֆուտբոլային Ակումբ Արարատ Երեւան、英語: Football Club Ararat)は、アルメニアの首都エレバンを本拠地とするサッカークラブである。
クラブは1935年にスパルタクとして創設され、1963年に現在のアララトに改名された。
チームは1949年から1950年、1960年から1963年、1965年から1991年の間、ソ連トップリーグに在籍した。1973年には国内 リーグとUSSRカップのダブルを達成、1975年にも再びUSSRカップに優勝した。アララトはソ連の主要タイトルを獲得した唯一のアルメニアのクラブ だった。
1973年のソ連リーグ優勝によって出場した1974-75シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは準々決勝に進出したが、最後は西ドイツのバイエルン・ミュンヘンに2試合合計スコア1-2で敗れた。
(引用元 Wikipedia.ja「FCアララト・エレバン」より)
※2 アンドレイ・ビバ
ビバは東欧における史上最高のプレーメイカーとして知られている。ガーディアン紙のジョナサン・ウィルソンは「彼はヴィクトル・マスロフ率 いるディナモ・キエフの中で、サー・アルフ・ラムゼイ率いるイングランドのボビー・チャールトンの役割を果たしていた。攻撃的な中盤の選手でボールをア タッキング・サードで動かし、ミドルシュートも打った」と説明している。
ビバはソヴィエト代表として、唯一1965年7月4日の親善試合・対ブラジル戦に出場し、ペレとプレーしたことがある。
(引用元 Wikipedia.en「Andriy Biba」より)
※3 FCコルレーン
コルレーンFCは北アイルランドのセミプロクラブである。IFAプレミアシップに在籍。1927年にロンドンデリー州コルレーンに設立され、ショウグラウンズを本拠地として使用している。クラブカラーは青と白。
コルレーンは「ベルファスト・ビッグ2」として知られたリンフィールドとグレントランを除き、北アイルランドで最も成功したクラブで、アイリッシュリーグ優勝1回、アイリッシュカップ優勝5回を誇る名門である。
(引用元 Wikipedia.en Coleraine F.C.)
※4 FC SKAロストフ
クラブは1937年8月27日にRODKA(РОДКА、1937年–1953年)として創設され、ODO(ОДО、1954年–1956年)、SKVO(СКВО、1957年–1959年)というクラブ名を経て、1960年に現在の名前に落ち着いた。
SKVOは1958年にソビエトリーグのクラスB(2部)に参加した。それ以前のチームは地域のトーナメントでプレーするだけだった。SKVOは 1958年のクラスBでチャンピオンとなり、クラスA(1部)に昇格した。1973年までソビエトサッカーのトップレベルに留まり続け、1966年には準 優勝、1959年、1960年、1963年、1964年には4位となった[1]。
1970年代と1980年代のSKAはトップリーグとファーストリーグの間を何度も往復した。1973年の降格後、1974年、1976年から 1978年、1982年から1983年、1986年から1989年の時期はファーストリーグ、1975年、1979年から1981年、1984年から 1985年の時期はトップリーグでプレーした。ソビエトサッカーの最後の2年間(1990年と1991年)をSKAはセカンドリーグ(3部)で過ごした。
SKAはUSSRカップでも成功を収めた。1981年にトロフィーを勝ち取り、1969年と1971年にも決勝戦に進んだ。
(引用元 Wikipedia.ja「FC SKAロストフ・ナ・ドヌ」より)
※5 グールニク・ザブジェ
クラブはザブジェ市の KS Zjednoczenie、KS Pogon、KS Skra、KSコンコルディアが合併して誕生した。名称のグルニクとはポーランド語で鉱夫を意味する言葉で、ザブジェで鉱工業が盛んであった事に由来している。
1950年にシレジア地域リーグに加わり1952年にポーランド2部に昇格。1955年に1部リーグに昇格した。昇格初年度に3位、翌1957年 に初のリーグ制覇を成し遂げた。1961年には初めてUEFAチャンピオンズカップに出場したが1回戦でイングランドのトッテナム・ホットスパーFCに敗 れた。
1960年代に入るとリーグ5連覇(1963、1964、1965、1966、1967)を達成した。なお、これは現在もポーランド記録となっている。
ヨーロッパサッカー界におけるクラブ最大の成功としては1970年のUEFAカップウィナーズカップにおいて、オリンピアコスFC、グラスゴー・ レンジャーズFC、レフスキ・ソフィア、ASローマを下して決勝進出した事が挙げられる。ウィーンで行われた決勝ではマンチェスター・シティFCに1-2 で敗れたが、ヴォジミエシュ・ルバンスキらを中心としたサッカーは話題となった。
(引用元 Wikipedia.ja「グールニク・ザブジェ」より)
※6 レフ・ヤシン
しばしばサッカー史上最高のゴールキーパーと評される。彼は現在までにGKで唯一のバロンドール受賞者であり、1998年にはFIFAの 20世紀ワールドチームのGKに選ばれた。FIFAワールドカップの大会最優秀GKに与えられる賞には、1994年大会以降「ヤシン賞」と名付けられてい る。
クラブではデビューから引退まで20年以上をディナモ・モスクワ一筋で過ごし、326試合出場[1]、リーグ優勝5回、カップ優勝3回を経験し た。ソ連代表としては通算78試合に出場し、夏季オリンピック優勝1回、欧州選手権優勝1回。FIFAワールドカップでは合計13試合に出場した。
非常に長い腕と、黒いユニフォームと黒いグローブを付けていた風貌から「黒蜘蛛」と呼ばれた。必要とあらば積極的にペナルティエリアの外にも飛び 出すプレースタイルは同時代のほかのGKには見られない特長だった[1]。真偽は不明だが語られるところによれば彼は150本以上のPKを止めたという。
ナショナルチームでは通算78試合プレーし、70失点だった。ヤシンの全盛期だった当時は現在と比べてディフェンス技術のレベルが高くなく、フェ レンツ・プスカシュを始めとした一流のストライカー達が容易くゴールを決められる環境であったことを考えると驚異的な記録といえる。
(引用元 Wikipedia.jp「レフ・ヤシン」より)
※7 エドゥアルド・ストレリツォフ
エドゥアルド・アナトリエヴィッチ・ストレリツォフ(Эдуард Анатольевич Стрельцов、1937年7月21日 - 1990年7月22日)は、ソビエト連邦出身のサッカー選手である。
FIFAワールドカップ出場がないこともあり国際的知名度は高くないが、1950年代から1960年代にかけてのソ連を代表する伝説的FWで、「ロシアのペレ」と呼ばれる。
1953年にトルペド・モスクワのユースチームに加入し、1954年に17歳でソ連リーグデビューを果たす。トルペドではワレンチン・イワノフ(1962年W杯チリ大会得点王)と強力な2トップを組んだ。1955年に15ゴールを挙げて得点王に輝く。
ソ連代表に初招集されたのは1955年。デビュー戦のスウェーデン戦でいきなりハットトリックを挙げて、ソ連は6-0で快勝した。1956年のメルボルンオリンピックでは4試合出場2ゴールで金メダル獲得に貢献した。
順調だった彼の人生は1958年に大きく変わる。W杯スウェーデン大会初戦が2週間に迫った時期に、ストレリツォフはレイプ事件の加害者として起 訴された。自白すればW杯に間に合うという甘い囁きもあったが、現実にはそうはならなかった。結局、エースを失ったソ連は準々決勝で開催国スウェーデンに 敗れた。
有罪判決を受けたストレリツォフは強制労働所に送られ、サッカー選手としての最盛期を無為に過ごした。しかしこの事件の真相には疑わしい部分が多 く、当局により仕組まれた罠との見方が支配的である。彼がKGB系のディナモ・モスクワや赤軍系のCSKAモスクワへの移籍を拒否したため、または彼の奔 放で無軌道な振る舞いを潔癖主義の当局が嫌ったため、または政府要人のエカチェリーナ・フルツェワの娘を公の場で侮辱する発言を行ったためなど、原因には 諸説がある。
1963年にモスクワに帰還。当初はトルペドの母体である自動車工場のアマチュアチームでプレイしていたが、1965年にトルペドに戻り、同年の ソ連リーグで優勝した。ブランクを経て、プレイスタイルは以前のストライカーからプレイメーカーへと変わっていたものの、その才能の輝きは変わらなかっ た。1966年に再び代表に招集され、1967年と1968年にはソ連年間最優秀選手賞を受賞した。1970年に負傷のため引退した。
(引用元 Wikipedia.jp「エドゥアルド・ストレリツォフ」より)
※8 ザーリャ・ボロシーロフグラード
現・FCゾーリャ・ルハンスク。
1923年にルハンスクの製鉄所の労働者たちが前身であるメタリストを作る。1972年にゾーリャは一度だけソヴィエトリーグで優勝を果たした。
(引用元 Wikipedia.en「FC Zorya Luhansk」より)
※9 カルパティ・リヴィウ
FCカルパティ・リヴィウ(英語: FC Karpaty Lviv, ウクライナ語: ФК «Карпати» Львів)は、ウクライナの都市リヴィウに本拠地を置くサッカークラブである。
USSRカップ優勝1回、ウクライナ・カップ準優勝2回(1993,1999)を誇る。
(引用元 Wikipedia.ja「FCカルパティ・リヴィウ」より)
※10 Cheremshyna
「Cheremshyna」はウクライナ語のポピュラーなロマンス・ソングである。その知名度ゆえ、フォークソングとして知られている。こ の歌が初めて発売されたのは1965年のことで、作曲はヴァシル・ミクハイリュク、作詞はミコラ・ユリーチュクによるもの。初めて歌ったのはドミトロ・フ ナチュク。
Cheremshynaはウクライナ語で「Prunus padus」(エゾノウワミズザクラ:サクラの一種。ロシアでは果実を食べるが、苦味を持つ)の意。
様々な歌手に歌い継がれる名曲である。
(引用元 Wikipedia.en「Cheremshyna」より)
Youtubeより:КВІТКА ЦІСИК "ЧЕРЕМШИНА"
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