フットボールの話をしよう - 1964年のリバプール・フットボールクラブ -在りし日の思い出 in ボストン


歴史の授業です。

In 1964, Liverpool was a hit in Boston

1964年5月8日、ビートルズがボストン・ガーデンでチケット完売のライブを行った4ヶ月前、リバプールFCはエヴァレット・スタジアムで親善試合を行ないました。
その対戦相手はボストン・メトロス。リバプールが8-1でメトロスを下したそうです。

その試合に出場していた選手たちの、在りし日のリバプールの回顧録です。
すごく面白いので、下記に翻訳してみました。

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文責:フランク・デル・アパ(海外担当)

1964年、2つのリバプール出身者のグループがアメリカを旅して名をあげた。
9月にはビートルズがボストン・ガーデンを満員にした。その4ヶ月前、リバプールFCがエヴァレット・スタジアムで試合を行い、同じように群衆を惹きつけた。

ボストン・ガーデンの聴衆がビートルズに圧倒されたように、リバプールFCも対戦相手のボストン・メトロスと呼ばれるチームを一掃したのだった。1964年、5月8日のことだった。

スコアはリバプール8、メトロス1だった。

しかし、もしもあの出来事がなければ、点差はそこまで開かなかったかもしれない、と、当時メトロスの中盤でプレーしたフランク・ミリソラさんは語る。
そう--あるボストンの選手が、リバプールのディフェンダーの股をドリブルで抜き、観客を熱狂させるようなことがなければ--。

「それはリバプール最高の選手の1人だった彼にとっては、恥ずべきことだった」とミリソラさんは語る。
「その後、試合の流れが変わり、彼らは本気でプレーをし始めたんだ」

「最初の15分は0-0だった。もしかしたら、彼らを3点か4点ぐらいに抑えることができたかもしれない…8-1の代わりにね」

「しかし、彼らのチームには代表選手が6人もいた--今のユヴェントスみたいにね。彼らはプロフェッショナルだった…そして、監督はビル・シャンクリーだったのさ」

1964年はリバプールの復活の年だった。
1部リーグで優勝し、ヨーロッパで最も成功したクラブの一つとして歴史を刻んだ。
次の年、リバプールは初めてFAカップに優勝した。
2年後にはチャンピオンズカップ初出場。インテル・ミランにセミファイナルで負けたものの、実力を見せつけた。
(訳注:おそらく1964-65シーズンのチャンピオンズカップのことを指していると思われる。リバプールを準決勝で下したインテルが、そのまま決勝でベンフィカを下して優勝した)

リバプールとメトロスの地位の差は明白だった。
リバプールのメンバーのうち、3名は勲章を得ていた(シャンクリー、ボブ・ペイズリー、そしてイアン・キャラハン)。
ゲリー・バーンとキャラハンは1966年ワールドカップの優勝チームのメンバーだ。
他の選手もすごい。アラン・アクールにロニー・モーラン、イアン・セント・ジョン、ロン・イェーツ。アンフィールドの英雄たちだった。

◇◇◇
メトロスは、ブラジル人のカルロス・メティディエリなどのようなフルタイムのプロ契約の選手と、ミリソラさんのようなセミプロの選手で混成されていた。
(何人かのメトロスの選手-ミリソラさんや彼の兄弟のフィリッポさん、サルヴァトーレ・ゴリーノ、サル・ロ・グラッソ、そしてマリオ・ルッソ-はシーズン終了後もこの地域に残った。
メトロスのオーストリア人ディフェンダー、フバート・フォゲルジンガーは後の1970年台にボストン・ミニットメンや、北米サッカーリーグの数チームでコーチを務めた。)

メトロスは自分たちの業績を残しておく常設のスタジアムを持っていなかった。彼らの伝説は、メドフォードやその他の北地区のカフェの中だけで、ひっそりと、口から口へ伝えられていった。

◇◇◇
メトロスはアメリカサッカーリーグ(ASL)で成功していた、リーグの先駆者だった。
リバプールとの試合の数日後、メトロスは車でフィラデルフィアヘ趣き、ウクレイニアン・ナショナルズとの試合を行う予定だった。

「私はとても若かったのです。」と現在65歳のロ・グラッソさんは語る。

「今でも覚えています。コーチはこう言いました。『お前は次の日曜日にフィラデルフィアの試合に出てもらうから温存しておくぞ』と」

「ですので、私はベンチにいました。しかし、リバプールの選手たちを覚えています。彼らは信じられないほど素晴らしかった。全員プロフェッショナ ルでした。私は当時インテルのファンでしたし、ヨーロッパのサッカーの情報を追っていましたので、リバプールが素晴らしい、本当に良いチームだと知ってい ました」

「私は彼らを恐れませんでした。全く。なぜそんな必要が?私は当時いい選手でした。試合に加わりたかったのですが、私はとても若く彼らは非常に経 験豊かな選手たちでした。信じられない夜でした。エヴァレット・スタジアムは18000人かそれ以上の観客で埋め尽くされました」

その試合の観客数については諸説ある。リバプールのファンサイトでは10000人と記載されている。

「15000人のはずさ。チケットの販売数だ」とミリソラさんは語る。彼は今、ボストン・パブリックスクールリーグで審判の監督役を務めている。

「完全に満員ではなかった。エヴァレット・スタジアムの客席は蹄鉄型に配置された屋根なしの観覧席だった。チケットを持たない観客も何人かいたはずだ。しかし、私がチケットの枚数を確認したところによると、観客は15000人だった」

◇◇◇
アメリカでサッカーが大衆に認知され始めたのは、60年台の事だった。
大勢の観客が、国中で行われるメジャーなサッカーのイベントに集い始めた。それは、しばしば他のスポーツよりも観客を引きつけた。
1964年のレッドソックスの平均観客数は11000人だった。

こんな記録もある。
5月27日にフェンウェイ・パークで行われたレッドソックス対ワシントン・セネターズの試合の観客数が3315人であったのに対し、同日チェル シー・スタジアム行われたメトロス対ハンブルガーSVの試合は6000人もの観客を集めた。(7-1でメトロスが敗れたのにも関わらず)

その頃、サッカーは経営上の問題とメディアでの露出不足に貧していた。才能を持った選手を育てるプログラムはいい加減だった。
何人かのボストンの選手--マティディエリ、ネスター・カサレス、フランシスコ・カトロッパ、ジョージ・ピオッティなど--は彼らのプロ選手生活を南米でスタートし、カナダのトロント・イタリアに引きぬかれた。

ロ・グロッソとミリソラ兄弟はティーンエイジャーの時にシチリア・リエージから移民してきた。何度かプロサッカーに触れる機会はあったものの、彼らは肉体労働に勤しみ、地元のチームに居場所を見つけた。ギリシャやイタリア、ポーランド、ポルトガル系列の集まる場所だった。
学校にも居場所はなかった。言語の壁があったからだ。しかし、彼らはサッカーフィールドの上では受け入れられた。

ボストン・イタリアのクラブオフィスはハノーバー通りにあり、試合はノース・エンド・パークで行われた。
「サル・ピッツァ」という店をケンブリッジ通りに開いていたウンベルト・アトリアが、ASLに「メトロス」の名で加入していたそのチームのコーチをしていた。(最終的には「タイガース」を名乗ることになる)

メトロスは9勝1分3敗の結果を残し、ASLでウクレイニアン・ナショナルズに次いで2位で1964年のシーズンを終えた。

チームは幾つかの民族コミュニティでは名を知られていたが、主要メディアではほとんど取り上げられることはなかった。

「当時、サッカーは非常に大きなものでした」とロ・グロッソさんは語る。

「色んなカフェに出入りしたものです。カフェ・デッロスポルト、カフェ・パラディッソ…。それらのカフェには大きなボードが設置してあり、ASLの得点ランキングと順位表が掲示されていました」

「我々は良いチームでした。多くの選手がプロでプレーしていて、年齢を重ね、経験豊かでした」

イギリスのチームは定期的に北米ツアーの大会に参加していて、彼らのモチベーションは1950年ワールドカップでアメリカがイングランドに1-0の勝利を収めた後に高まるようになった。
1964年5月、3人のリバプール選手(ロジャー・ハント、ゴードン・ミルネ、そしてロジャー・トンプソン。彼らはリバプールの北米ツアーには参 加せず、代表に合流していた)を含んだイングランド代表が、ニューヨークで行われたアメリカ代表との親善試合で10-0の勝利を収めた。

ボストンはアメリカを訪れた幾つかのヨーロッパのクラブ--セルティックFC、ハポエル・ペタ・ティクバ(イスラエル)、ハンブルガーSV、ハー ツ、ノッティンガム・フォレスト、ウェストハム・ユナイテッド、セリエAの数チーム--と戦う予定だった。スタジアムを持っていなかったので、試合はチェ ルシー・スタジアム、エヴァレット、リン、マルデン、そしてソメルヴィルで行われた。

「いい試合は1試合だけで、ハーツに1-1で引き分けました」とロ・グラッソさんは語る。彼はASLでプレーする予定だった。

「私がフリーキックで得点を決めたのです。しかし、それは85分で結局1点どまりでした。我々のゴールキーパーは素晴らしかった」

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引退後、彼らの何人かはフットボールに関わり続けた。
1972年にニッケルソン・フィールドで行われたASローマのプレシーズンマッチ、対ウーイペシュトFC戦(2-0でローマが負けた試合)の主審はフランク・ミリソラさんだった。

多くのメトロスの選手たちは、フットボールと関係ない業界に転職した。
ロ・グロッソさんとミリソラさんは南ボストンのL通りをお互い挟んでレストランを開業した。

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話は変わって、リバプールは60年台、ヨーロッパのサッカー界に伝説的な金字塔を打ち立てた。監督のシャンクリーの名は、彼の銅像と「シャンクリー・ゲート」として今もアンフィールドに残り続けていいる。

スコットランド人のシャンクリーは、リバプールが2部リーグに所属していた時に長期計画を打ちたて、その計画は1962年の1部昇格、そして64年の1部リーグ優勝という形で実を結んだ。

スコットランド人のシャンクリーはリバプールFCを彼自身の社会主義的な集団哲学の元にまとめあげた。
シャンクリーは強迫的な性格で、以下の言葉でよく知られている。
「何人かの人は『フットボールは生や死のようなものだ』と信じているようだが、私はこの態度に非常に失望している。私が保証しよう。フットボールはそんなものより、とても、とても重大だ」

シャンクリー時代は、リバプールの後の成功をも形作った。
「レッズ」は1977年、78年、81年にペイズリー監督の元チャンピオンズカップに優勝した。
彼らは84年にもASローマをローマのスタディオ・オリンピコで下し、チャンピオンズカップを優勝しているが、そのメンバーにはニューイングランド・レボリューションの元監督だったスティーブ・ニコルも加わっていた。
そして、最近では2005年にも優勝している。

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ボストンは、その栄光のリバプールの前史を知っている。1964年、5月8日のあの試合によって。


「リバプールは若いチームでした」とロ・グロッソさんは振り返る。

「スピードがあり、それが多くの違いを生み出しました。経験を持った我々でさえ、太刀打ち出来ませんでした」

「彼らはリーグ優勝をし、翌年にはチャンピオンズカップでインテルと戦いました。彼らを相手にするのは非常に難しいものでした。スピードがまるで違うのです」

「プロであるからには自分たちが良いチームだという矜持がありましたが、彼らはそれを更に上回っていました」

(校了)

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