フットボールの話をしよう - ウクライナ・フットボール史 後編(1972-1984)

後編では、1972年から1984年まで取り上げます。

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1972年は、これまでとは違う衝撃的な出来事が起きた年だった。
東ウクライナの地方クラブであったゾーリャ・ボロシーロフグラード(現在のルハンスク)が、想像も出来なかったソヴィエトリーグ優勝を勝ち取ったのだ。
彼らはディナモを3-0で一蹴すると、CSKAやディナモ、スパルタクなどのモスクワ勢をも破った。
ゾーリャは、首都ではない都市のクラブとして、史上初めてソヴィエトリーグを制したクラブとなった。この偉業を次に成し遂げたのは、1984年のゼニト・レニングラードだった。

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思いがけない歴史の中で、マスロフの遺した物を引き継いだ者はヴァレリー・ロバノフスキーを除いて他にはなかった。彼はマスロフのディナモ・キエフ就任時にチームから追い出された選手の1人だった。
コーナーキックから直接ゴールを決める能力で有名だったロバノフスキーはチーム退団後、チョルノモレツ・オデッサ(※1)で数シーズンをすごし、最後はシャフタール・ドネツクでキャリアを終えた。
引退後直ぐにドニプロ・ドニプロペトロウシク(※2)のヘッドコーチに就任した彼は、クラブをソヴィエトのトップリーグへと昇格させ、1972年にはリーグ6位に導いた。
彼の活躍はディナモ・キエフ上層部とウクライナ共産党の第一党書記だったヴォロディミール・シチェルビツキー(※3)の目に止まった。シチェルビツキーは自らロバノフスキーを、彼が支援していたディナモ・キエフに招いた。ソ連では、党の責任者からの誘いは、今では悪名高いほどに断るのが困難な事であった。

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ドニプロをトップリーグの高順位へ導いたというささやかな成功だけが、キエフが彼を求めた理由ではなかった。
オシェンコフやマスロフという偉大な前任者たちの足跡を辿るに当たり、「ロバ」は確かな戦術眼を持ち、また選手の肉体的な健康状態管理の部分で厳格な管理者でもあった。
彼は科学の力を信じていた完璧主義者だった。
フットボールを、現代的なテクノロジーを用いてシステム的に解析可能で、そこから勝利の方程式をつくり上げることが出来るものだと考えていたのだ。
統計学者でドニプロペトロフスク肉体科学機関の長でもあったアナトリー・ゼレンツォフとの出会いによって、ロバは彼自身が持っていたサッカー観を現実のものとした。

両者は協力を始め、最新のコンピューター技術をフットボールに応用した。
1994年に出版された「フットボールの敵」の中で、著者のサイモン・クーパーはこう語る。

「ゼレンツォフは、ある事実を前提にフットボールに接していた。それは、現代フットボールではほんの僅かな考える時間が大きなタイムラグになってしまうということだった・・・すなわち、選手はボールが来る前からどこへパスすべきか知らなければならない。
結果的に、ディナモの選手たちはアメリカン・フットボールの選手のようにセットプレーのフォーメーションを記憶し、実行しなければならなかった」

ゼレンツォフは、「試合中の重要な場面でミスの割合が18%以下のチームが負けることはない」という統計をはじき出した。これらの統計は、ロバノフスキーのトレーニングにおける基礎となり、予め決められたプレーの型が、チームの戦術的構築に深く埋め込まれた。
リヌス・ミケルス(※4)が開発したトータルフットボールのポジション移行にも、この考えが顕著に現れている。
ロバノフスキーとゼレンツォフは彼らのアイディアを記した「トレーニングモデル開発のための方法論的基礎」という著作の中で、このように語っている。

「戦術的進化について語る時、まず最初に考えるのは相手を私達のプレースタイルに対応させないように新しい動きを作り出す努力をすることだ。もし 対戦相手が私達のプレースタイルに適応し、カウンターをし始めたら、私達は別の新たな戦略を作り出す必要がある。それが試合の弁証法である。
そのようにして、幅広い攻撃のオプションを用いて対戦相手のミスを誘いながら、我々は進化しなければならない。
言い換えれば、対戦相手には我々が望むコンディションでいさせる必要がある、ということだ。
その最も重要な意味の一つは、私達自身のプレーエリアの大きさを変えることなのだ」

それは科学的共産主義とトータルフットボールの出会いだった。
彼の厳格なスタイルは、常に観衆を特別楽しませるものではなかったかも知れない。特にロバはアウェーの試合でドローを得る戦術を好み、シーズンを通してホームでのみ勝ちに行った。
しかし、成功は大きなものであった。

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マスロフが解任された後、ヘッドコーチのポジションはロシア人のアレクサンドル・サヴィドフに任された。
サヴィドフは攻撃的精神を好み、最初のシーズンにソヴィエトリーグで優勝を飾った。
しかしその後は2年連続で2位となり、1973年のソヴィエトカップ決勝ではアララト・エレバンに敗れるという失態を犯してしまったことで彼の運命は決まった。
しかしながら、彼の指導の元、ストライカーのオレグ・ブロヒン(※5)とプレーメーカーのレオニド・ブリャクが台頭してファーストチームへ昇格した。

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ロバノフスキー就任後、ディナモは未だかつて無い高みに到達した。
彼の最初のシーズン、ディナモはリーグ戦とカップ戦を勝ちダブルを達成。
彼の在任17年間(そのうち1年はソヴィエト代表監督で中断されているが)でリーグ戦を7度優勝し、ディナモはソヴィエト連邦で最も際立ったクラブとなった。また、彼自身もソヴィエト最高の監督へのし上がった。
付け加えれば、その間にディナモはソヴィエトカップ6度優勝し、3度ダブルを達成した。

しかし、国内での印象的な成功の傍ら、ディナモはヨーロッパ大陸の大会でも語り継がれる伝説を作った。

ロバノフスキーが初めて参加したヨーロッパの大会は1973-74シーズンのUEFAカップだった。
その大会でディナモは、3回戦でVfBシュトゥットガルトに敗れて大会から姿を消した。
しかしながら翌シーズン、彼らの運命は変わる。

1973年シーズンにアララトが国内ダブルを達成したことで、ディナモにはソヴィエトカップ準優勝チームとしてカップ・ウィナーズ・カップの出場権が回ってきた。
神がかったブロヒンに導かれ、ディナモは対戦相手を次々に破って行った。
準決勝では、PSVアイントホーフェン相手にファーストレグで3-0、セカンドレグで1-2という結果を残して決勝へ駒を進める。

バーゼルのセント・ヤコブ・スタジアムで行われた決勝では圧倒的だった。
対戦相手はハンガリーのフェレンツヴァーロシュ(※6)だったが、ディナモは試合を支配した。
チーム内の化学変化と相互理解は、ハンガリーのチームがどうにか出来るレベルから遠くかけ離れた素晴らしいものだった。
前半にヴォロディミル・オニシュチェンコが2ゴールを決め、ディナモはハーフタイムを2-0で折り返す。
後半にはブロヒンが勝利を決定づけるマラドーナばりのランとフィニッシュを決め、3-0で勝利を収めた。
これは、ソヴィエトのクラブにとって初めてのヨーロッパでの栄光だった。

Dinamo Kiev vs Ferencvárosi TC- Cup Winners Cup 1974/1975 Final


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ロバノフスキーとディナモは、より大きな成功をつかむこととなる。
2回目の開催となるUEFAスーパーカップ(UEFAヨーロピアンカップとカップ・ウィナーズ・カップの優勝チーム同士が対戦する試合だった)では、ドイツの強豪チームだったバイエルン・ミュンヘンを下し、彼らにとって2つ目のヨーロッパのタイトルを獲得。

バイエルン・ミュンヘンは歴史上最も成功したクラブの一つとして格付けされているが、この大会でも圧倒的な優勝候補だった。
ディナモは、下馬評では単なる成り上がりのクラブでしか無かった。
しかし、ディナモはまたもブロヒンが活躍。
バーバリアンズ(バイエルンの愛称)を合計3-0で下してみせたのだった。
ブロヒンはすべてのゴールを決め、ヨーロッパ年間最優秀選手として1975年のバロンドールを獲得した。

11年後、ディナモはロバノフスキーの教えを最高の手本として、再度成功をつかむ。
ブロヒンは、この時もスカッドの中で重要な選手であり続けていた。パートナーはイゴーリ・ベラノフ(※7)だった。
2人のストライカーは、チームメートであるコンスタンティン・サバロフやディナモ・ドレスデンのフランク・リップマンらと並んで5ゴールを挙げ、このシーズンのカップ・ウィナーズ・カップの得点王となる。

決勝戦ではアトレティコ・マドリーと対戦。
ディナモはこの試合で3-0の勝利を収め、ブロヒンは85分に美しいカウンターアタックを決めて再びヨーロッパ決勝の得点者として名を刻んだ。
この年、ベラノフはバロンドールを獲得した。

Dinamo Kiev - Atletico Madrid 1986 European Cup Winners' Cup Final


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ディナモがフットボールクラブとしてそのステータスを上げていくに連れ、ソヴィエトのスポーツ協会がロバノフスキーに注目し始める。
ソヴィエト代表は、1976年欧州選手権予選大会の初戦でアイルランド相手に3-0で負けると、ソヴィエトフットボール協会は監督であったコンスタンティン・ベスコフを解任。ロバノフスキーが後任として監督に就任した。
ロバノフスキーは直ぐに代表チームの改造に着手し、ディナモをそのモデルとした。

結果は確かに改善された。
だが、結局本戦出場は叶わなかった。
最終予選ラウンドで、結果的に勝者となって本戦へ出場したチェコスロヴァキア代表の前に敗れ去った。

1976年のモントリーオル夏季五輪において、ソヴィエトは銅メダルを獲得した。17人の選手の内11人がディナモに所属し、監督もロバノフスキーだった。
数世紀もの間政治的、文化的にロシアに支配されてきたウクライナであったが、まさにこの時、フットボールでモスクワを支配することで自分たちのアイデンティティを主張していた。
ディナモのファンたちは、声高らかにこう叫んだ。

「ソヴィエト代表はディナモと同じ/他のチームの選手達のせいで弱くなっている」

しかし、この状況にモスクワの政党は黙っていなかった。

「プラハの春」の萌芽を抑止する為にソヴィエトが軍事介入して8年後、ブラティスラヴァで行われる予定だった1976年欧州選手権予選大会のチェ コスロヴァキア戦の前に、ソヴィエトの上層部は代表チームに「君たちは、自分たちの結果に責任を持たなければならない」と書かれたメモを送った。
強制収容所や見せしめ裁判の時代は過去の事となっていたにも関わらず、ウクライナ人が強く目立ったソヴィエト代表に対する国家の態度は明白だった。

3位決定戦でブラジルを下し、銅メダルを獲得した1976年のモントリオール五輪大会後、ロバノフスキーは代表監督を解任された。
金メダルを穫れなかったことが、国家的な失態と見做された。

1980年のモスクワ五輪で、ソヴィエト代表に所属したディナモの選手は2名だけだった。
かつてのディナモ・キエフの選手で1976年のメンバーだったヴォロディミル・ヴェレメイェフはこう振り返る。

「1976年とは違い、1980年の銅メダルはただ単に明るい結果と受け止められた。モントリオール後、何人もの選手が『スポーツマスター』ランクを剥奪された。
これこそがモスクワとキエフのライバル関係が表すもので、私達がソヴィエト連邦の首都から受けていたプレッシャーだったんだ」

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モスクワとキエフの間に相互の敵対関係があったにも関わらず、ロバノフスキーは1984年に再びソヴィエト代表監督に就任した。
だが、論争を巻き起こした失敗の後直ぐに解任されてしまった。
ポルトガルに喫した敗戦はソヴィエトの命運を決定した。
その試合を決定づけたのはポルトガルに与えられたPKであったが、ファウルはペナルティボックスの外で犯されたものだった。
科学も人的ミスまでは計算出来なかった。

ロバノフスキーは、その僅か2年後、三度代表監督に就任。
ソヴィエトがワールドカップ予選で酷い出だしを見せた後だった。最初の3試合で勝ち星は無かった。
ロバノフスキーはシンプルな方法でチームに改革をもたらす―代表選手をディナモの選手と入れ替える、という意味在る方法で。そしてそれは奏効した。

結果は瞬間的だった。
ソヴィエト代表は、グループを2位で勝ち抜け、1986年のワールドカップ出場を勝ち取った。
本大会でメキシコへ赴いたメンバー22名の内、12名がディナモの選手だった。

ソヴィエト代表はグループを勝ち抜け、決勝トーナメント1回戦でベルギー代表と対戦。
90分を2-2で終えた後延長戦に突入するも、最終的には4-3でベルギーが勝利した。
この試合は、未だに怒りと傷心とともに語り継がれている。
ベルギーの2点目は、完全にオフサイドだったとファンは主張している。

ロバノフスキーは1988年、代表監督として最後の歓喜を達成する。
彼は再度、ディナモの選手たちを重用した。
欧州選手権の最初の試合で彼らはオランダ代表相手に1-0の勝利をおさめたが、その試合のスターティングメンバーは9人がディナモの選手だった。
両チームは決勝で再び相まみえるも、マルコ・ファン・バステンの魔法の瞬間はオランダに勝利をもたらすのに十分だった。
オランダが2-0で勝利し、キエフを核としたチームは準優勝に輝いた。

Marco Van Basten goal Euro 88 Final

代表での栄光を、結局彼らは手にすることはなかった。


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このウクライナ・フットボールの歴史は、もしかしたらディナモ・キエフの歴史のように見えるかもしれない。
しかし、ディナモがウクライナフットボール界、ひいてはソヴィエトフットボール界を支配したことには、政治的・構造的な理由があった。
そしてその理由の多くは、ウラジーミル・シチェルビツキーという人間とともに言及されねばならない。

シチェルビツキーはただ単に共産党の高官であっただけでなく、熱狂的なディナモ・キエフのファンでもあった。
モスクワには様々なクラブがあり、党の高官達はそれぞれ応援するクラブが別々だった。
しかしキエフにはひとつのクラブしか存在せず、政治力は完全にディナモの成功を実現するために捧げられた。

キエフがウクライナの首都として持つステータス、そしてそれ故にウクライナの政治局の頂点の座は、ディナモの成功に貢献した。
かつてのフットボール選手で現在はロシアのテレビコメンテーターを務めるゲナディ・オルロフはインタビューでこう語る。

「ディナモを順位表の上に進ませるメカニズムは、ウラジーミル・シチェルビツキーに導かれたウクライナ中央委員会が創りだしたものだった。

彼の最初の秘書は、ルハンシクやドネツク、ハルキウ、ドニプロペトロウシク、そしてオデッサにいた彼の同僚に呼びかけ、このように伝えた、と言われている。

つまり『ディナモは共和国の旗頭であり、君たちは我々を助けなければならない。君たちのホームでは引き分けを狙いなさい。キエフでは、互角な試合をしようじゃないか』と。
互角の戦いをディナモのホームで出来ると思うかい?」

同じメカニズムは移籍市場でも働いた。
例えばドニプロ・ドニプロペトロウシクが2度のリーグ優勝を飾って80年台中盤に黄金時代に突入した時、多くの選手達がキエフへ移籍するように「勧められた」。
シチェルビツキーのオフィスからウクライナの様々な地域へ電話がかけられ、全ての最高のウクライナ人選手は最終的にはディナモへ移籍した。

中央委員会は、ディナモの内部の問題にも介入してきた。
1984年にディナモが10位に終わった際には、国会が開催されてその問題について議論された。

ジャーナリストのアレクサンドル・ゴルブノフは次のように語る。

「ある日ウラジーミル・シチェルビツキーは、重要な問題について話し合うミーティングを持った。――すなわち、ディナモの監督について、だ。
関係者によると、シチェルビツキーは、意見者達の黙って聞き、その中にはロバノフスキーを更迭しようとする人間たちもいたが、鋭くこう言ったそうだ。
『ロバノフスキーは留任だ。質問会は以上で終了だ』とね」

ディナモとウクライナ・フットボールの栄光の歴史は、一般的には、内在する彼らのフットボールの価値を高めるに相応しいものだった。
だが、スポーツは舞台の裏側で進む政治的陰謀と切っても切れないものだし、そのおかげでディナモのステータスと成功は決定づけられたことも事実だ。
ソヴィエトにおいて、政治力は全てであり、ディナモはその多くを持っていたのだった。

(校了)

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※1 チョルノモレツ・オデッサ

FCチョルノモレツ・オデッサ(ウクライナ語: ФК Чорноморець Одеса、英語: FC Chornomorets Odesa)は、ウクライナの都市オデッサを本拠地とするサッカークラブである。ウクライナ語名はFKチョルノモーレツィ・オデーサ。
1936年にディナモ・オデッサとして創設され、幾度もの改名を経て1957年に現在の名称に落ち着いた。チョルノモレツは黒海艦隊の水兵のこと であるが、黒海艦隊はソ連崩壊以降ロシア海軍に所属している。ソ連時代はロシア語名のチェルノモレツ (Черноморецチルナモーリェツ) の名で知られ、現在でもその名で言及されることは多い。また、公式に用いているラテン文字表記も、ロシア語名に沿ったFK Chernomoretsである(ウクライナ語名に沿った表記はFK Chornomorets’)。

引用元 Wikipedia.ja「FCチョルノモレツ・オデッサ」より

※2 FCドニプロ・ドニプロペトロウシク

FCドニプロ・ドニプロペトロウシク(英語: FC Dnipro Dnipropetrovsk, ウクライナ語: ФК "Днiпро" Днiпропетровськ)は、ウクライナの都市ドニプロペトロウシクに本拠地を置くサッカークラブである。ウクライナで金融・石油・鉄鋼などを経 営するプルィヴァート・グループ(英語版)がオーナーとして財政支援を行っている。
ソビエト連邦時代の1980年代に黄金期を迎え、ソビエト連邦サッカーリーグ、USSRカップ優勝を果たしている。

引用元 Wikipedia.ja「FCドニプロ・ドニプロペトロウシク」より

※3 ウラジーミル・シチェルビツキー

ウラジーミル・ワシリエヴィッチ・シチェルビツキー(Volodymyr Vasylyovych Shcherbytsky、1918年2月17日 - 1990年2月17日)は、ソビエト連邦の政治家。ソ連共産党政治局員(在任期間、1971年から1989年まで)、ウクライナ共産党第一書記(在任期 間、1972年から1989年まで)としてウクライナ・ソビエト社会主義共和国の指導者として君臨した。ウクライナ人。

レオニード・ブレジネフ、アンドレイ・キリレンコに次いでドニエプロペトロフスク州第一書記に就任した。その後ウクライナ共和国共産党書記を経 て、1961年ウクライナ共和国閣僚会議議長(首相)となるが、ニキータ・フルシチョフの忌避を受けて1963年に再度ドニエプロペトロフスク州第一書記 に降格された。
1964年ブレジネフがソ連共産党書記長に就任すると1965年シチェルビツキーはウクライナ首相に復帰し、1971年ソ連共産党政治局員とな り、ブレジネフの親しい協力者として台頭した。ウクライナ第一書記としては、前任者のペトロ・シェレストが民族主義に対して比較的穏健な立場を取ったのに 対して、徹底したロシア化政策を取り、ウクライナ民族主義には否定的な立場を取った。ブレジネフを中心とするドニエプルペトロフスク派(ドニエプル・マ フィア)の一員として政治局内に大きな地歩を占め、特に経済面に置いてソ連国内におけるウクライナの位置は重要なものとなった。1982年のブレジネフ死 後、ユーリ・アンドロポフ、コンスタンティン・チェルネンコ両書記長の時代を経て、ミハイル・ゴルバチョフ政権においてもウクライナ共産党第一書記の地位 を保ったが、1986年チェルノブイリ原発事故において、事故の情報を隠蔽し事故直後にキエフにおけるメーデー行進を行わせるなどしたため、事故犠牲者の 拡大につながった。ゴルバチョフはチェルノブイリの事故を重く見て情報公開(グラスノスチ)を推進することとなる。

引用元 Wikipedia.ja「ウラジーミル・シチェルビツキー」より

※4 リヌス・ミケルス

リヌス・ミケルス(Rinus Michels, 本名 Marinus Hendricks Jacobs Michels, 1928年2月9日 - 2005年3月3日)は、オランダ・アムステルダム出身のサッカー選手・監督。
サッカー界を代表する稀代の名将。「トータルフットボール」と称される組織戦術で、近代サッカーに一石を投じた人物。率いたチームにおけるその厳格な指導方法から、「将軍」と呼ばれた。彼が指導した代表的な選手としてヨハン・クライフ、ヨハン・ニースケンスらがいる。

引用元 Wikipedia.ja「リヌス・ミケルス」より

※5 オレグ・ブロヒン

オレグ・ブロヒン(ウクライナ語: Олег Блохін、ロシア語: Олег Блохин、1952年11月5日 - )は、ソ連・ウクライナ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW、現サッカーウクライナ代表監督。
名GKレフ・ヤシンと並んでソ連を代表するスタープレイヤー。ソ連の100m走記録を持っていた母親の血を受け継ぎ、その俊足と得点能力からウクライナの矢と呼ばれた。なお、後に同じウクライナ出身FWであるアンドリー・シェフチェンコがこの愛称を受け継いでいる。

引用元 Wikipedia.ja「オレグ・ブロヒン」より

※6 フェレンツヴァーロシュTC

フェレンツヴァーロシュTC(ハンガリー語: Ferencvárosi Torna Club)は、ハンガリーの首都ブダペストに本拠を置くスポーツクラブである。サッカー、アイスホッケー、水球、サイクリング、女子ハンドボールなどの部門がある。

ハンガリー人唯一のバロンドール受賞者アルベルト・フローリアーンを擁した1960年代には、1964-1965シーズンのインターシティーズ・ フェアーズカップ(UEFAカップの前身)で優勝、1967-1968シーズンのフェアーズ・カップで準優勝した。1974-1975シーズンのUEFA カップウィナーズカップでも準優勝した。

引用元 Wikipedia.ja「フェレンツヴァーロシュTC」より

※7 イーゴリ・ベラノフ

イーゴリ・ベラノフ(Igor Belanov、1960年9月25日 - )は、ウクライナ・オデッサ出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。元ソビエト連邦代表。

数あるバロンドール受賞者の中でも影の薄い存在であるが、1985-86シーズンにFCディナモ・キエフでUEFAカップウィナーズカップを獲得 した事、ソビエト連邦代表の一員として1986年、メキシコワールドカップ決勝トーナメント1回戦ベルギー戦でハットトリックを挙げた事、同年10月11 日に行われた欧州選手権予選で前回王者のフランスを2-0で下した3つの点が受賞理由とされ、他のゲーリー・リネカー、エミリオ・ブトラゲーニョといった 候補を退けた理由と言われている。

引用元 Wikipedia.ja「イゴーリ・ベラノフ」より) 

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