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◇◇◇
ブンデスリーガの競争力が上昇すると共に、今まで以上にクラブは成功のために莫大な資金が必要となった。旧東独のクラブにとって、このリーグで勝つのは大変困難な状況である。
東のクラブのいない4度目のシーズンが始まろうとしている。1995年にSGディナモ・ドレスデンがトップリーグを去ってからの17年間、たったの2クラブしかブンデスリーガでプレーしていない。
一つはFCハンザ・ロストックで、彼らはGDR(旧東ドイツリーグ)最後の優勝チームであり、2000年台半ばまでは断続的にブンデスリーガに所属していた。
もう一つはFCエネルギー・コットブス。彼らは2000年にとてもありえない状況の中、ブンデスリーガへ昇格した。最近では、小さな奇跡とともに2008/09シーズンまで在籍していた。
GDRでのフットボールにおける政治的複雑さや連邦共和国再編などの状況下で、様々な要因が彼らの似つかわしくない成功を形作ったが、ある男の存在以上に、FCエネルギー・コットブスの運命を転換するのに重大なものはなかったであろう。
そう、その男こそ、エドゥアルド・ゲイヤーである。
◇◇◇
”エデ”はシレジア北部、ビーリッツの地に生を受けた。当時ビーリッツはドイツ帝国の一部であったが、時代は変わろうとしていた。
彼の幼少期、ゲイヤー一家は他の数千のドイツ人とともにビーリッツを離れなければならない状況にあった。第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの敗北を受けてのものだった。
結果、彼はドレスデンで育った。ドレスデンは戦争の結果被害を被った街であったが、彼の永遠の帰属意識を醸成した街でもあった。
彼はユース時代からドレスデンでフットボールを始めた。参加したチームは街で最も大きなクラブで、それがSCディナモ・ドレスデンだった。
1968年に入団した後は20年以上そのクラブで選手、コーチ、そして監督を経験した。
ゲイヤーはディナモで、選手としては2度のGDR優勝を経験し、監督としてもクラブを栄光に引き戻した。彼が指揮をとり、ディナモは1989年に11年ぶりのリーグ優勝を飾ったのだ。
ゲイヤーは選手としても監督としてもディナモで大きな成功を掴んだ。
◇◇◇
積極性と強い決意の元、”エデ”は、より大きな成功を東ドイツで掴むこととなった。
ディナモでの成功を受け、ゲイヤーは1989年に東ドイツ代表チームの監督として招聘された。
これまで幾つかのチャンスはあったものの、東ドイツ代表は主要な国際大会へは1度きりしか出場したことがなかった。それが1974年ワールドカップだった。
しかし、ゲイヤーのチームは90年イタリア大会へ出場目前に迫るまで勝ち進むことができた。あとは、最終戦でオーストリアに勝利するだけ、という状況だった。
その試合の日は1989年11月15日。
ベルリンの壁が突如崩壊した、6日後のことだった。
選手たちの心は、否応なくどこか別の場所をさまよった。
東ドイツ代表は、3-0で敗退した。
遠征中、選手たちの何人かは西ドイツのクラブと交渉を行なっていた。
それは、別の意味で「東独フットボール最後の日」を表す象徴的な出来事だった。
チームの選手たちとは裏腹に、ゲイヤーはその出来事で自らが試合に集中できなかったとは考えていない。
「個人的には、いつも言ってきた通り…あと4週間~6週間早ければ…」
彼は続ける。
「我々はワールドカップへ勝ち進んでいただろう」
しかしゲイヤーは、ただ勝利を見据える監督だ。
情熱的で時に挑戦的な、間違いなくユニークなスタイルを持っていた。
タッチライン上で爆発し、選手たちを度々叱りつけた。サイドラインからも、ベンチで面と向かって言うこともあった。時には退場になった試合で、観客席スタンドからも怒声が飛び交った。
「彼は非常に厳格な監督でした」と元ディナモ所属のウルフ・キルステンは語る。
確かに厳格ではあったが、サイドライン際で選手たちに関する細かな指示を与えるという几帳面さを持ち合わせていた。
それは、彼が以前一緒に仕事をし、ロールモデルにもしているヴァルター・フリッシュ監督(”将軍”の二つ名で知られている)のものだった。思慮深い戦術家だった。
後にコットブスでゲイヤーは、選手たちを評価しグレードを付けるようになる。
そのグレードは、Kicker誌や地元の新聞記者たちが付けるものよりも厳しい採点だった。
◇◇◇
実際にゲイヤーのように東側に残ったのは少数だった。
その事で、彼は壁の崩壊後職探しをする際に苦しんだ。
1990年にディナモ・ドレスデンを去り、名実ともに東独最高の監督であったゲイヤーは、西側で実力を試したいと考えた。
しかし、西側は彼を望まなかった。
彼の攻撃的なスタイルは彼にある一定の評価を与え、彼の方法論は多くの人間から古臭く感じられていた。
だがそこで彼のフットボール愛が潰えることはなかった。
ゲイヤーは、西側が東の人間を監督として迎え入れるには傲慢すぎたと感じた。
ただし、その事だけが彼からブンデスリーガの監督職を遠ざけた原因ではなかった。
1971年、彼は東独秘密警察(シュタージ)から密通者となるように接触を受けた。それは同僚の情報をまとめてレポートを作成するスパイの仕事だった。
彼はフットボール人生の終焉を恐れ、最悪なことに、ドレスデンや他の場所で政府の依頼を承諾したのだった。
彼は苦労して職探しをしたが、幾つか下部リーグの仕事を引き受けた後、1994年の7月に当時レギオナルリーガ北部のFCエネルギー・コットブスに就任した。
当時このクラブのことを知らなかったが、これが彼のキャリアで最大の仕事となった。
◇◇◇
エネルギーは東側においても、とても成功したクラブとは言えなかった。
1965年に東独がスポーツとフットボールの組織を再編した際、通常の様々なスポーツ活動を行うクラブとは別に、フットボールのエリートクラブが結成された。
GDRのフットボールの評価を高めるために、これらの新規クラブは他のクラブに与えられなかった特権(才能ある選手を買い漁る権利など)を持っていた。
そのような特権クラブは10団体あり(SCディナモ・ドレスデンも加えられた)、幾つかの例外を除き、GDRのオベルリーガを25年間に渡って支配し続けた。
エネルギー・コットブス(当時はBSGエネルギーの名称)はその特権クラブには含まれていなかった。
BSGエネルギーは、多くの年月をGDRオベルリーガの最下層で過ごしたのだった。
1990年の後、東側のクラブが西側リーグに組み込まれた時、エネルギーは前年度のGDRの順位が低かったために東側クラブだけが所属した3部の地域リーグに再編された。
彼らは経済的に脆弱でシステム上の下位であったが、この再編は彼らよりも、むしろ高位クラブを苦しめる結果となった。
下位のクラブは、彼らよりも上位のクラブには与えられなかった社会的、政治的、そしてフットボール的側面での確かな親和性を保持しており、それを持たなかった上位クラブは瞬時に混乱に直面した。
また、彼らはディナモ・ドレスデンのような上位側のクラブのように選手を引き抜かれることはなかった。何故なら、彼らは優秀なドイツ人タレントを保持していなかったからだ。
つまり何が言いたいのかというと、1994年当時コットブスの監督就任は決してエドゥアルド・ゲイヤーにとって夢の様なものではなかった、ということだ。そして、彼らが成し遂げたおとぎ話のような成功譚を予知できた者もいなかった。
もしかしたら、ゲイヤーのコットブスで繰り広げた長い旅路は実現さえしなかったかもしれなかったのだ。
◇◇◇
その夏、ゲイヤーは別の意味での旅行をした――高速道路A4線でエアフルトまで。 ロット・ヴァイス・エアフルトの監督になるための話し合いを行う予定だった。しかし、それは結局実現しなかった。
「とても暑い日でね、高速道路は完全に閉め切られていた」と彼は2000年に行われたインタビューの中で語る。
「私は高速道路の真ん中で、おそらく3時間から4時間ほど動けなくなっていたんだ。そして彼らに電話をした。『とても行けそうにないよ』とね」
彼とエアフルト側は最終的な話し合いで、合意には至らなかった。
彼はコットブスとも交渉を行なっており、エアフルトの代わりにその職に就くことを決めた。
当初、コットブスでの監督生活は大変なものだった。
設備は酷く、選手たちの態度は彼の望むものとはかけ離れていた。
「このクラブでフットボールに本当に興味のある者は一人もいなかったよ。なんというかもっと…そう、おちゃらけていて…。もしかしたらコットブス はより大きな成功を望んでいたのかもしれなかったが、状態はアマチュア的で、フットボールで勝ち抜こうという選手たちが数少なかった」
エネルギーはゲイヤーの最初のシーズン、レギオナルリーガ7位に終わったが、彼は既に辞めることを考えていた。
「コットブスの最初の年は幸せではなかったね。何故ならクラブは最終的な目的を持たず、前進する現実的な道が見えなかったからだ」
事実、ゲイヤーはかつてのクラブへ移籍する決心をしていた。
「ディナモが私に復帰を打診しており、私は心から戻りたかった」
彼のミッションは、降格し、経済的な理由でライセンスを剥奪された元名門クラブの再建だった。ディナモは4部への降格処分を受けていた。
しかし、古巣復帰への強い誘惑にも関わらず、この移籍は実現せずゲイヤーは不本意ながらエネルギーに留まった。
◇◇◇
そのことは、ゲイヤーがコットブスで成功への道のりを歩み始める第一歩だった。彼の攻撃性と冷酷さはインパクトを持ち始めていた。モチベーションや方向性を失った選手に対するシンプルな解決策は、こうだ。
「その選手を新たな選手と入れ替える」
次第にチームのクオリティは改善され始めた。結果も目に見えて良くなった。
そして、エネルギー・コットブスはゲイヤー就任後2年目で3位に終わることが出来たのだった。
より大きな成功は翌年にやってきた。
1996/97年シーズンに、3つのブンデスリーガのクラブに勝利してエネルギーはドイツカップ決勝戦までたどり着いた。
また、レギオナルリーガで優勝を収め初めてプロリーグに昇格したのだった。
西独のプロクラブ達の中で生き残るために、ゲイヤーとコットブスはブンデスリーガの経済力に対抗する手段を発見した。それは偽賽で、他の東独のクラブに不利益を与えるものだった。
彼らは外国人選手たちと契約した。
12カ国の選手たち―ハンガリーやクロアチア、アルバニア、ブラジルなど―を集め、最終的にはブンデスリーガへ昇格することとなる。
「単純にドイツ人選手と契約できなかったからだ。彼らは高額過ぎた」
それはリスクの高い戦略だった。欠点もあった。
コットブスは1998/99年に難しいシーズンを送った。寄せ集めの選手たちが、お互いのことを理解していなかったのだ。
このように大きな外国人選手の集団では、ゲイヤーがこのクラブで長期にわたって培ってきた「選手を入れ替える」スタイルは長続きせず、必然的に全員に適応できるものではなかった。
不幸なことに、すべての選手が歓迎されたわけでもなかった。
ベナン人選手のムーダシルー・アマドゥは人種的差別を受け、コットブス出身の女性と結婚したことが不評を買った。彼は2000年にクラブとの契約を打ち切り、カールスルーエSCへ移籍した。
◇◇◇
翌シーズン、コットブスは再び昇格した。
ブンデスリーガは彼を欲していなかったが、彼はそこにいたのだ。
エネルギー・コットブスの有名な成功譚とは裏腹に、彼らは他のクラブと比べて人気がなかった。
シーズン開始時、ゲイヤーがかつてシュタージと関わった過去がBild am Sonntag誌において「独占情報」として再び公のもとに晒された。
クラブは多国籍選手とほんの少しのドイツ人をチームに連れてきて顰蹙を買っている最中だった。
ドイツ代表はヨーロッパ選手権で敗退し、ドイツ人選手の才能に疑問符が投げかけられ、他国の選手がもたらすインパクトに戦々恐々とする時代だった。
彼らは降格の最有力候補だった。しかし、ゲイヤーは他のプランを持っていた。
彼の準備の周到さと計算高さは、ドイツフットボール界において最も詳細に渡るものだった。ディナモ・ドレスデンのかつてのダイレクターであったベルント・キースリンクはこう語る。「あれはワールドクラスだった」と。
彼のシステムはブンデスリーガの中で素晴らしい効果を発揮した。
彼のKicker式グレードシステムと弱点評価は彼の”何でもあり”のコーチングの中でも重要な位置を占めていた。選手たちは、彼らの弱点に基づいてトレーニングを行なっていた。
「選手たちに、彼らがどのように成長していたのか、時々選手をチームから入れ替えたり外したりする事、さらには新しい選手を探しているという事実を説明することが重要だ。」
とゲイヤーは彼のエネルギーでの方法論について語る。
ゲイヤー――この厳格で強いサクソン訛りを持った中年監督――がどのようにして多国籍軍と効果的にコミュニケーションを取り、彼らを刺激して成功に導いたのかを明らかにするのは簡単なことではないだろう。
選手たちは実際にはコットブス・ジーロウ地区に軒を連ねて生活しており、彼らと彼らの家族たちは余暇を共に過ごしていた。
ゲイヤーが強固なチームスピリットを育むために施した大胆な措置が機能したのだ。そしてゲイヤーは厳格な教師のような空気を纏い、選手たちを教室へ送り込んだ。
コットブスがブンデスリーガに所属した数年間、殆どの外国人選手たちがドイツ語を流暢に喋っていた。
下馬評を裏切って、コットブスは初めてブンデスリーガで過ごしたシーズン残留を勝ち取った。
ヨーロッパで活躍するクラブを、ホームスタジアムのシュタディオン・デル・フロインドシャフトに招待して撃破してみせた。バイエルン・ミュンヘンがコットブスへ初めて訪れた際、彼らを1-0で下したのだ。
彼らはその次のシーズン、再びこれまでの理論に逆らった。
時にはドイツ人の全くいないチームをピッチの上に送り出しさえした。
短い間ではあったがベナン人のアマドゥは中央の守備において印象的な活躍を見せた。ブラジルから獲得したアタッカーのフランクリン・ビッテンクー ル(彼の息子のレオナルドは2010年から2012年まで同じくコットブスでプレーし、現在はボルシア・ドルトムントに移籍した)はファンに愛された技術 の高い選手で、ボスニア人のブルーノ・アクラポヴィッチは守備的ミッドフィールダーとして要の存在になった。
◇◇◇
夢は1年後に終わりを告げた。エネルギーはリーグ最下位でシーズンを終え、降格した。次のシーズンは厳しい戦いとなり、結果4位に終わり昇格を果たせなかった。
ファンの一部はゲイヤーに疑念を向け、もう少しという位置にいたにもかかわらず昇格を逃してしまったことに怒りをぶつけた。(昇格プレーオフ進出をかけて戦っていたが、ユルゲン・クロップ率いるFSVマインツに得失点差で負けた)
その僅差は経済的にも彼らに重くのしかかり、その他様々な要因も重なってエドゥアルド・ゲイヤーは2004年11月にコットブスの監督を解任された。
その頃までには、彼はクラブを完全に作り変え、彼が就任した10年前には誰も想像しなかったような名声を、地域リーグでくすぶっていた誰にも期待されないクラブにもたらした。
振り返ってみると、一人の監督と無名の外国人選手たちだった集団が、時代に抗い、GDR時代でさえ成功も歴史も無かったクラブを西側のプロクラブ たちの集団の中へ分け入り、ブンデスリーガの一員へと押し上げ、なおかつ3年間も留まったという事は、ここまで説明してきたにせよ未だににわかに信じがた い事実である。
コットブスは今でもドイツのプロフットボールクラブ界で競争力を持ち続け、ペトリック・サンデル監督のもと再建しブンデスリーガへと再び戻ることとなった。彼らは2008/09シーズンに降格するまで、3年間ブンデスリーガに在籍した。
◇◇◇
エネルギーは今のところ最後にブンデスリーガに所属した東側のクラブであり、彼らが如何にして2つのディヴィジョンを駆け上がりトップリーグに在籍するようになったかという物語は、現在資金不足で成功を掴めていない東側のクラブへの刺激となるはずだ。
「金はフットボールにおいて全てではない。だが、大きな部分を占めている」
とはゲイヤーの言だ。
しかし、彼はこうも言う。
「魂と知恵、そして大きな愛情を持ってフットボールに取り組むのなら、莫大な金を稼いでいる百万長者たちの集団が想像もし得ない何かが起こるだろう」
そのことを、誰よりもエドゥアルド・ゲイヤーは知っている。
FCエネルギー・コットブスで奇跡を起こした、この男ならば。
(校了)
ブンデスリーガの競争力が上昇すると共に、今まで以上にクラブは成功のために莫大な資金が必要となった。旧東独のクラブにとって、このリーグで勝つのは大変困難な状況である。
東のクラブのいない4度目のシーズンが始まろうとしている。1995年にSGディナモ・ドレスデンがトップリーグを去ってからの17年間、たったの2クラブしかブンデスリーガでプレーしていない。
一つはFCハンザ・ロストックで、彼らはGDR(旧東ドイツリーグ)最後の優勝チームであり、2000年台半ばまでは断続的にブンデスリーガに所属していた。
もう一つはFCエネルギー・コットブス。彼らは2000年にとてもありえない状況の中、ブンデスリーガへ昇格した。最近では、小さな奇跡とともに2008/09シーズンまで在籍していた。
GDRでのフットボールにおける政治的複雑さや連邦共和国再編などの状況下で、様々な要因が彼らの似つかわしくない成功を形作ったが、ある男の存在以上に、FCエネルギー・コットブスの運命を転換するのに重大なものはなかったであろう。
そう、その男こそ、エドゥアルド・ゲイヤーである。
◇◇◇
”エデ”はシレジア北部、ビーリッツの地に生を受けた。当時ビーリッツはドイツ帝国の一部であったが、時代は変わろうとしていた。
彼の幼少期、ゲイヤー一家は他の数千のドイツ人とともにビーリッツを離れなければならない状況にあった。第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの敗北を受けてのものだった。
結果、彼はドレスデンで育った。ドレスデンは戦争の結果被害を被った街であったが、彼の永遠の帰属意識を醸成した街でもあった。
彼はユース時代からドレスデンでフットボールを始めた。参加したチームは街で最も大きなクラブで、それがSCディナモ・ドレスデンだった。
1968年に入団した後は20年以上そのクラブで選手、コーチ、そして監督を経験した。
ゲイヤーはディナモで、選手としては2度のGDR優勝を経験し、監督としてもクラブを栄光に引き戻した。彼が指揮をとり、ディナモは1989年に11年ぶりのリーグ優勝を飾ったのだ。
ゲイヤーは選手としても監督としてもディナモで大きな成功を掴んだ。
◇◇◇
積極性と強い決意の元、”エデ”は、より大きな成功を東ドイツで掴むこととなった。
ディナモでの成功を受け、ゲイヤーは1989年に東ドイツ代表チームの監督として招聘された。
これまで幾つかのチャンスはあったものの、東ドイツ代表は主要な国際大会へは1度きりしか出場したことがなかった。それが1974年ワールドカップだった。
しかし、ゲイヤーのチームは90年イタリア大会へ出場目前に迫るまで勝ち進むことができた。あとは、最終戦でオーストリアに勝利するだけ、という状況だった。
その試合の日は1989年11月15日。
ベルリンの壁が突如崩壊した、6日後のことだった。
選手たちの心は、否応なくどこか別の場所をさまよった。
東ドイツ代表は、3-0で敗退した。
遠征中、選手たちの何人かは西ドイツのクラブと交渉を行なっていた。
それは、別の意味で「東独フットボール最後の日」を表す象徴的な出来事だった。
チームの選手たちとは裏腹に、ゲイヤーはその出来事で自らが試合に集中できなかったとは考えていない。
「個人的には、いつも言ってきた通り…あと4週間~6週間早ければ…」
彼は続ける。
「我々はワールドカップへ勝ち進んでいただろう」
しかしゲイヤーは、ただ勝利を見据える監督だ。
情熱的で時に挑戦的な、間違いなくユニークなスタイルを持っていた。
タッチライン上で爆発し、選手たちを度々叱りつけた。サイドラインからも、ベンチで面と向かって言うこともあった。時には退場になった試合で、観客席スタンドからも怒声が飛び交った。
「彼は非常に厳格な監督でした」と元ディナモ所属のウルフ・キルステンは語る。
確かに厳格ではあったが、サイドライン際で選手たちに関する細かな指示を与えるという几帳面さを持ち合わせていた。
それは、彼が以前一緒に仕事をし、ロールモデルにもしているヴァルター・フリッシュ監督(”将軍”の二つ名で知られている)のものだった。思慮深い戦術家だった。
後にコットブスでゲイヤーは、選手たちを評価しグレードを付けるようになる。
そのグレードは、Kicker誌や地元の新聞記者たちが付けるものよりも厳しい採点だった。
◇◇◇
実際にゲイヤーのように東側に残ったのは少数だった。
その事で、彼は壁の崩壊後職探しをする際に苦しんだ。
1990年にディナモ・ドレスデンを去り、名実ともに東独最高の監督であったゲイヤーは、西側で実力を試したいと考えた。
しかし、西側は彼を望まなかった。
彼の攻撃的なスタイルは彼にある一定の評価を与え、彼の方法論は多くの人間から古臭く感じられていた。
だがそこで彼のフットボール愛が潰えることはなかった。
ゲイヤーは、西側が東の人間を監督として迎え入れるには傲慢すぎたと感じた。
ただし、その事だけが彼からブンデスリーガの監督職を遠ざけた原因ではなかった。
1971年、彼は東独秘密警察(シュタージ)から密通者となるように接触を受けた。それは同僚の情報をまとめてレポートを作成するスパイの仕事だった。
彼はフットボール人生の終焉を恐れ、最悪なことに、ドレスデンや他の場所で政府の依頼を承諾したのだった。
彼は苦労して職探しをしたが、幾つか下部リーグの仕事を引き受けた後、1994年の7月に当時レギオナルリーガ北部のFCエネルギー・コットブスに就任した。
当時このクラブのことを知らなかったが、これが彼のキャリアで最大の仕事となった。
◇◇◇
エネルギーは東側においても、とても成功したクラブとは言えなかった。
1965年に東独がスポーツとフットボールの組織を再編した際、通常の様々なスポーツ活動を行うクラブとは別に、フットボールのエリートクラブが結成された。
GDRのフットボールの評価を高めるために、これらの新規クラブは他のクラブに与えられなかった特権(才能ある選手を買い漁る権利など)を持っていた。
そのような特権クラブは10団体あり(SCディナモ・ドレスデンも加えられた)、幾つかの例外を除き、GDRのオベルリーガを25年間に渡って支配し続けた。
エネルギー・コットブス(当時はBSGエネルギーの名称)はその特権クラブには含まれていなかった。
BSGエネルギーは、多くの年月をGDRオベルリーガの最下層で過ごしたのだった。
1990年の後、東側のクラブが西側リーグに組み込まれた時、エネルギーは前年度のGDRの順位が低かったために東側クラブだけが所属した3部の地域リーグに再編された。
彼らは経済的に脆弱でシステム上の下位であったが、この再編は彼らよりも、むしろ高位クラブを苦しめる結果となった。
下位のクラブは、彼らよりも上位のクラブには与えられなかった社会的、政治的、そしてフットボール的側面での確かな親和性を保持しており、それを持たなかった上位クラブは瞬時に混乱に直面した。
また、彼らはディナモ・ドレスデンのような上位側のクラブのように選手を引き抜かれることはなかった。何故なら、彼らは優秀なドイツ人タレントを保持していなかったからだ。
つまり何が言いたいのかというと、1994年当時コットブスの監督就任は決してエドゥアルド・ゲイヤーにとって夢の様なものではなかった、ということだ。そして、彼らが成し遂げたおとぎ話のような成功譚を予知できた者もいなかった。
もしかしたら、ゲイヤーのコットブスで繰り広げた長い旅路は実現さえしなかったかもしれなかったのだ。
◇◇◇
その夏、ゲイヤーは別の意味での旅行をした――高速道路A4線でエアフルトまで。 ロット・ヴァイス・エアフルトの監督になるための話し合いを行う予定だった。しかし、それは結局実現しなかった。
「とても暑い日でね、高速道路は完全に閉め切られていた」と彼は2000年に行われたインタビューの中で語る。
「私は高速道路の真ん中で、おそらく3時間から4時間ほど動けなくなっていたんだ。そして彼らに電話をした。『とても行けそうにないよ』とね」
彼とエアフルト側は最終的な話し合いで、合意には至らなかった。
彼はコットブスとも交渉を行なっており、エアフルトの代わりにその職に就くことを決めた。
当初、コットブスでの監督生活は大変なものだった。
設備は酷く、選手たちの態度は彼の望むものとはかけ離れていた。
「このクラブでフットボールに本当に興味のある者は一人もいなかったよ。なんというかもっと…そう、おちゃらけていて…。もしかしたらコットブス はより大きな成功を望んでいたのかもしれなかったが、状態はアマチュア的で、フットボールで勝ち抜こうという選手たちが数少なかった」
エネルギーはゲイヤーの最初のシーズン、レギオナルリーガ7位に終わったが、彼は既に辞めることを考えていた。
「コットブスの最初の年は幸せではなかったね。何故ならクラブは最終的な目的を持たず、前進する現実的な道が見えなかったからだ」
事実、ゲイヤーはかつてのクラブへ移籍する決心をしていた。
「ディナモが私に復帰を打診しており、私は心から戻りたかった」
彼のミッションは、降格し、経済的な理由でライセンスを剥奪された元名門クラブの再建だった。ディナモは4部への降格処分を受けていた。
しかし、古巣復帰への強い誘惑にも関わらず、この移籍は実現せずゲイヤーは不本意ながらエネルギーに留まった。
◇◇◇
そのことは、ゲイヤーがコットブスで成功への道のりを歩み始める第一歩だった。彼の攻撃性と冷酷さはインパクトを持ち始めていた。モチベーションや方向性を失った選手に対するシンプルな解決策は、こうだ。
「その選手を新たな選手と入れ替える」
次第にチームのクオリティは改善され始めた。結果も目に見えて良くなった。
そして、エネルギー・コットブスはゲイヤー就任後2年目で3位に終わることが出来たのだった。
より大きな成功は翌年にやってきた。
1996/97年シーズンに、3つのブンデスリーガのクラブに勝利してエネルギーはドイツカップ決勝戦までたどり着いた。
また、レギオナルリーガで優勝を収め初めてプロリーグに昇格したのだった。
西独のプロクラブ達の中で生き残るために、ゲイヤーとコットブスはブンデスリーガの経済力に対抗する手段を発見した。それは偽賽で、他の東独のクラブに不利益を与えるものだった。
彼らは外国人選手たちと契約した。
12カ国の選手たち―ハンガリーやクロアチア、アルバニア、ブラジルなど―を集め、最終的にはブンデスリーガへ昇格することとなる。
「単純にドイツ人選手と契約できなかったからだ。彼らは高額過ぎた」
それはリスクの高い戦略だった。欠点もあった。
コットブスは1998/99年に難しいシーズンを送った。寄せ集めの選手たちが、お互いのことを理解していなかったのだ。
このように大きな外国人選手の集団では、ゲイヤーがこのクラブで長期にわたって培ってきた「選手を入れ替える」スタイルは長続きせず、必然的に全員に適応できるものではなかった。
不幸なことに、すべての選手が歓迎されたわけでもなかった。
ベナン人選手のムーダシルー・アマドゥは人種的差別を受け、コットブス出身の女性と結婚したことが不評を買った。彼は2000年にクラブとの契約を打ち切り、カールスルーエSCへ移籍した。
◇◇◇
翌シーズン、コットブスは再び昇格した。
ブンデスリーガは彼を欲していなかったが、彼はそこにいたのだ。
エネルギー・コットブスの有名な成功譚とは裏腹に、彼らは他のクラブと比べて人気がなかった。
シーズン開始時、ゲイヤーがかつてシュタージと関わった過去がBild am Sonntag誌において「独占情報」として再び公のもとに晒された。
クラブは多国籍選手とほんの少しのドイツ人をチームに連れてきて顰蹙を買っている最中だった。
ドイツ代表はヨーロッパ選手権で敗退し、ドイツ人選手の才能に疑問符が投げかけられ、他国の選手がもたらすインパクトに戦々恐々とする時代だった。
彼らは降格の最有力候補だった。しかし、ゲイヤーは他のプランを持っていた。
彼の準備の周到さと計算高さは、ドイツフットボール界において最も詳細に渡るものだった。ディナモ・ドレスデンのかつてのダイレクターであったベルント・キースリンクはこう語る。「あれはワールドクラスだった」と。
彼のシステムはブンデスリーガの中で素晴らしい効果を発揮した。
彼のKicker式グレードシステムと弱点評価は彼の”何でもあり”のコーチングの中でも重要な位置を占めていた。選手たちは、彼らの弱点に基づいてトレーニングを行なっていた。
「選手たちに、彼らがどのように成長していたのか、時々選手をチームから入れ替えたり外したりする事、さらには新しい選手を探しているという事実を説明することが重要だ。」
とゲイヤーは彼のエネルギーでの方法論について語る。
ゲイヤー――この厳格で強いサクソン訛りを持った中年監督――がどのようにして多国籍軍と効果的にコミュニケーションを取り、彼らを刺激して成功に導いたのかを明らかにするのは簡単なことではないだろう。
選手たちは実際にはコットブス・ジーロウ地区に軒を連ねて生活しており、彼らと彼らの家族たちは余暇を共に過ごしていた。
ゲイヤーが強固なチームスピリットを育むために施した大胆な措置が機能したのだ。そしてゲイヤーは厳格な教師のような空気を纏い、選手たちを教室へ送り込んだ。
コットブスがブンデスリーガに所属した数年間、殆どの外国人選手たちがドイツ語を流暢に喋っていた。
下馬評を裏切って、コットブスは初めてブンデスリーガで過ごしたシーズン残留を勝ち取った。
ヨーロッパで活躍するクラブを、ホームスタジアムのシュタディオン・デル・フロインドシャフトに招待して撃破してみせた。バイエルン・ミュンヘンがコットブスへ初めて訪れた際、彼らを1-0で下したのだ。
彼らはその次のシーズン、再びこれまでの理論に逆らった。
時にはドイツ人の全くいないチームをピッチの上に送り出しさえした。
短い間ではあったがベナン人のアマドゥは中央の守備において印象的な活躍を見せた。ブラジルから獲得したアタッカーのフランクリン・ビッテンクー ル(彼の息子のレオナルドは2010年から2012年まで同じくコットブスでプレーし、現在はボルシア・ドルトムントに移籍した)はファンに愛された技術 の高い選手で、ボスニア人のブルーノ・アクラポヴィッチは守備的ミッドフィールダーとして要の存在になった。
◇◇◇
夢は1年後に終わりを告げた。エネルギーはリーグ最下位でシーズンを終え、降格した。次のシーズンは厳しい戦いとなり、結果4位に終わり昇格を果たせなかった。
ファンの一部はゲイヤーに疑念を向け、もう少しという位置にいたにもかかわらず昇格を逃してしまったことに怒りをぶつけた。(昇格プレーオフ進出をかけて戦っていたが、ユルゲン・クロップ率いるFSVマインツに得失点差で負けた)
その僅差は経済的にも彼らに重くのしかかり、その他様々な要因も重なってエドゥアルド・ゲイヤーは2004年11月にコットブスの監督を解任された。
その頃までには、彼はクラブを完全に作り変え、彼が就任した10年前には誰も想像しなかったような名声を、地域リーグでくすぶっていた誰にも期待されないクラブにもたらした。
振り返ってみると、一人の監督と無名の外国人選手たちだった集団が、時代に抗い、GDR時代でさえ成功も歴史も無かったクラブを西側のプロクラブ たちの集団の中へ分け入り、ブンデスリーガの一員へと押し上げ、なおかつ3年間も留まったという事は、ここまで説明してきたにせよ未だににわかに信じがた い事実である。
コットブスは今でもドイツのプロフットボールクラブ界で競争力を持ち続け、ペトリック・サンデル監督のもと再建しブンデスリーガへと再び戻ることとなった。彼らは2008/09シーズンに降格するまで、3年間ブンデスリーガに在籍した。
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エネルギーは今のところ最後にブンデスリーガに所属した東側のクラブであり、彼らが如何にして2つのディヴィジョンを駆け上がりトップリーグに在籍するようになったかという物語は、現在資金不足で成功を掴めていない東側のクラブへの刺激となるはずだ。
「金はフットボールにおいて全てではない。だが、大きな部分を占めている」
とはゲイヤーの言だ。
しかし、彼はこうも言う。
「魂と知恵、そして大きな愛情を持ってフットボールに取り組むのなら、莫大な金を稼いでいる百万長者たちの集団が想像もし得ない何かが起こるだろう」
そのことを、誰よりもエドゥアルド・ゲイヤーは知っている。
FCエネルギー・コットブスで奇跡を起こした、この男ならば。
(校了)
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