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THEY ARE THEY, WE ARE WE: THE FORGOTTEN GENIUS OF VUJADIN BOSKOV
"Rigore e' quando arbitro da"
80年代、イタリアのフットボールに多かれ少なかれ興味のあった人なら、一度はこの言葉を耳にしたことがあるのではないだろうか?
「ペナルティは、主審が笛を吹いた時にのみ起こる」
では次の言葉はどうだろうか?
"se vinciamo siamo vincitori se perdiamo siamo perditori"
「勝てば勝者、負ければ敗者だ」
もしくは、これは?
"loro sono loro, noi siamo noi"
「相手は相手、自分たちは自分たちだ」
今回は、そんな言葉を生み出した男の話。
◇◇◇
それらはヴヤディン・ボシュコヴの口から発せられたものだ。
彼は試合後のコメントを待つジャーナリストたちを喜ばせた。
それはイタリア国民の意識に対する警句であり、ボシュコヴはイタリア人に広く知られることとなった。
セリエAの典型的なシーズンを過ごし、痕跡を残さずして去っていった監督たちの中で、ボシュコヴが未だに記憶の片隅に残されているのは、それがたとえ表面的なものだとしても多少は特筆すべきことだ。
同時に、彼がイタリアフットボールの栄誉を盛りたてた最良の監督として成し遂げてきた偉業が、彼の他の仕事ほど明るく照らされていないのは若干悲しいことでもある。
ある意味ではしかしながら、これは彼のほとんどの成功と同じように小さなクラブで起こったという相似形を為しており、それ故にイタリアでの成功が過去の実績の中でとりわけ強く響いているわけではない、とも言える。
◇◇◇
ボシュコヴの選手としてのキャリアは、大部分が時代遅れのヴォイヴォディナで中盤として過ごしたものだった。
ハイドュク・スプリトに加えてベオグラードの2チーム、レッドスターとパルティザンの存在があり、そこで何かを勝ち取ることは不可能であったが、ユーゴスラヴィア代表としては57試合でプレーした。
ビッグクラブへの移籍は望まなかったが、彼が30歳の年にイタリア・サンプドリアへ移籍し、その後スイスのヤングボーイズへと移った。
◇◇◇
ボシュコヴはヤングボーイズで監督としてのキャリアを開始した後、ヴォイヴォディナで7シーズン在籍することとなる。
そこで、彼は1966年に歴史的な最初のタイトル、リーグ優勝を勝ち取ることとなった。
翌シーズン、ヴォイヴォディナは第2ラウンドでアトレティコ・マドリーを破りヨーロピアンカップ準々決勝へ進出した。
相手は、結果的にそのシーズン優勝したセルティックだった(訳注:かの有名なジョック・ステイン率いる)が、エースのシルヴェストル・タカッチを冬の移籍市場でスタッド・レンヌへ売却したことが響いて敗北した。
その後15年間、彼はユーゴスラヴィア代表監督やADOデンハーグ、フェイエノールト、レアル・サラゴサ、レアル・マドリー、ヒホン、アスコリ・カルチョの監督を歴任した。
レアルマドリー時代にリーグタイトルを獲得し、チームをヨーロピアンカップ決勝へ導いた(リバプールに敗北)ように彼の手腕は確かに評価されており、その実力を当時最も実力の合ったセリエAが放っておくはずも無かった。
アスコリ・カルチョは小さなプロビンチャで、ボシュコヴが監督に就任した時には降格圏争いをしており、シーズン末には降格した。
クラブの中での悪いことは、ほとんど全てが彼が就任するまでに起きていたが、それでもなお、彼が翌シーズンにイタリアのフットボールに示した水準は驚くべきものであった。
彼はセリエB優勝という結果を持って、アスコリによる監督交代が結果的に賢いものであったことを証明したのだ。
◇◇◇
80年代の終わり、セリエAに比肩するリーグは欧州に存在しなかった。最高の選手を揃えた資金力のあるチームが揃っていた。
アリーゴ・サッキのACミランはハイプレッシング、高い強度のプレーでゲームの有り様を革命的に変化させ、ヨーロッパを支配した。
しかしながら、彼らも国内ではSCナポリとマラドーナという強敵からのチャレンジを乗り越えなければならなかった。
ユヴェントスはプラティニ時代を終えた当時も未だ勢力を保っており、インテルが勝利のために投資を開始しようとした、そんな時代だった。
そんな環境の中、サンプドリアがあった。
第二次大戦後まもなく、サンピエルダレーナとアンドレア・ドリアが合併して結成されたクラブで、1シーズンをセリエBで過ごした後セリエAの中堅クラブとしての地位を確立した。
30年間の間でセリエBでプレーしたのはわずか1シーズンであった。
1977年にサンプドリアが再びセリエBに戻ると、復活は簡単なことではなかった。
5年間の苦闘の後、彼らはセリエA復帰を勝ち取った。
ラツィオサポーターのローマ人で1955年にジェノアに移り住んだ大金持ちのビジネスマン、パオロ・マントヴァーニにクラブが買収される3年前のことだった。
マントヴァーニは情熱的な男ではあったが(カリアリとのアウェイゲームの間に心臓発作で倒れたことがあった)同時に非常に賢い人間でもあった。
手始めにグレアム・スーネスやリアム・ブレイディ、トレヴァー・フランシスのような選手を大金を使って連れてこようと尽力したが、最終的には別の方法論を取ることにした。
マントヴァーニは徐々に、将来を約束された若手の才能ある選手を集め始めた。
集められたのは、他のクラブが見限った人材でもあった。
ロベルト・マンチーニという18歳の若手選手をボローニャから、更に20歳のジャンルカ・ヴィアリをクレモネーゼから獲得した。
他にも、後に実力を証明したゴールキーパーのジャンルカ・パリュウカや、ローマのピエトロ・ヴィエルコウッドをも手中に収めた。
中盤には質と強さを兼ね備えたブラジル人のトニーニョ・セレーゾをローマより連れてくることに成功したのだった。
彼らがサンプドリアへ加入したのは1986年、マントヴァーニが厳格な規律家のエウジェニオ・ベルセリーニから監督を変える決断をした年だった。
彼の選択は、ヴヤディン・ボシュコヴであった。
◇◇◇
二人の相性はこの上なく最良であった。
彼らはともに腰の柔らかい紳士のような印象を与えるが、その態度の裏には勝利への鋼鉄の信念が秘められていた。
そして、実際彼らは勝利した。
ボシュコヴの最初のシーズン、サンプドリアはコパ・イタリアに勝利し欧州カップ・ウィナーズ・カップの出場権を手に入れ、翌シーズンは決勝まで進出した(バルセロナに敗北)。
2季連続でコパ・イタリアを制したサンプドリアは、その翌年にまたもカップ・ウィナーズ・カップ決勝の舞台に立ったが、アンデルレヒトに2-0で敗れた。
突如、小さなクラブがヨーロッパに痕跡を残したのだった。
野心はとどまるところを知らない。
サンプドリアはスレチコ・カタネッツをシュトゥットガルトより獲得した。彼はサンプドリアで大成功を収めることとなる。
他にもアッティリオ・ロンバルドをクレモネーゼから、ジュゼッペ・ドッセーナをセリエBのウディネーゼより獲得した。
ドッセーナは1982年のワールドカップ優勝経験者であった。
1990年、イタリアは恐らく史上最も贅をこらしたワールドカップの主催国となった。
莫大な予算を掛けて巨大なスタジアムを建造したが、結果的には無用の長物と成り果ててしまった。
しかしながらそのことは、当時のセリエAが経済的に優勢であったことを示す証左であるだろう。
ワールドカップで活躍した選手の大半がイタリア国内でプレーをし、その他の選手も結局セリエAへ連れて来られた。
はっきりと、そして分別よく、英国風スタイルで建てられたジェノアのスタディオ・マラッシ(現在名:スタディオ・ルイジ・フェッラーリス)には小さな変化が訪れていた。
その変化は、地元クラブの一つであるサンプドリア(ジェノアとサンプドリアはスタジアムを共用している)によるチーム修正を鏡写しにしていた物だったと言える。
他の多くのクラブがワールドカップ後の夏の疲れで怯んでいる間、サンプドリアの勝利への飢えはかつてないものとなっていた。
ヴィアッリの負傷欠場があったが、彼らはシーズン序盤に好スタートを切る。
リーグの中心だったミランを1-0で下すと、サン・パオロではナポリを4-1で蹴散らした。
そんな中、ダービーを向かえた。
(後編へ続く)
それらはヴヤディン・ボシュコヴの口から発せられたものだ。
彼は試合後のコメントを待つジャーナリストたちを喜ばせた。
それはイタリア国民の意識に対する警句であり、ボシュコヴはイタリア人に広く知られることとなった。
セリエAの典型的なシーズンを過ごし、痕跡を残さずして去っていった監督たちの中で、ボシュコヴが未だに記憶の片隅に残されているのは、それがたとえ表面的なものだとしても多少は特筆すべきことだ。
同時に、彼がイタリアフットボールの栄誉を盛りたてた最良の監督として成し遂げてきた偉業が、彼の他の仕事ほど明るく照らされていないのは若干悲しいことでもある。
ある意味ではしかしながら、これは彼のほとんどの成功と同じように小さなクラブで起こったという相似形を為しており、それ故にイタリアでの成功が過去の実績の中でとりわけ強く響いているわけではない、とも言える。
◇◇◇
ボシュコヴの選手としてのキャリアは、大部分が時代遅れのヴォイヴォディナで中盤として過ごしたものだった。
ハイドュク・スプリトに加えてベオグラードの2チーム、レッドスターとパルティザンの存在があり、そこで何かを勝ち取ることは不可能であったが、ユーゴスラヴィア代表としては57試合でプレーした。
ビッグクラブへの移籍は望まなかったが、彼が30歳の年にイタリア・サンプドリアへ移籍し、その後スイスのヤングボーイズへと移った。
◇◇◇
ボシュコヴはヤングボーイズで監督としてのキャリアを開始した後、ヴォイヴォディナで7シーズン在籍することとなる。
そこで、彼は1966年に歴史的な最初のタイトル、リーグ優勝を勝ち取ることとなった。
翌シーズン、ヴォイヴォディナは第2ラウンドでアトレティコ・マドリーを破りヨーロピアンカップ準々決勝へ進出した。
相手は、結果的にそのシーズン優勝したセルティックだった(訳注:かの有名なジョック・ステイン率いる)が、エースのシルヴェストル・タカッチを冬の移籍市場でスタッド・レンヌへ売却したことが響いて敗北した。
その後15年間、彼はユーゴスラヴィア代表監督やADOデンハーグ、フェイエノールト、レアル・サラゴサ、レアル・マドリー、ヒホン、アスコリ・カルチョの監督を歴任した。
レアルマドリー時代にリーグタイトルを獲得し、チームをヨーロピアンカップ決勝へ導いた(リバプールに敗北)ように彼の手腕は確かに評価されており、その実力を当時最も実力の合ったセリエAが放っておくはずも無かった。
アスコリ・カルチョは小さなプロビンチャで、ボシュコヴが監督に就任した時には降格圏争いをしており、シーズン末には降格した。
クラブの中での悪いことは、ほとんど全てが彼が就任するまでに起きていたが、それでもなお、彼が翌シーズンにイタリアのフットボールに示した水準は驚くべきものであった。
彼はセリエB優勝という結果を持って、アスコリによる監督交代が結果的に賢いものであったことを証明したのだ。
◇◇◇
80年代の終わり、セリエAに比肩するリーグは欧州に存在しなかった。最高の選手を揃えた資金力のあるチームが揃っていた。
アリーゴ・サッキのACミランはハイプレッシング、高い強度のプレーでゲームの有り様を革命的に変化させ、ヨーロッパを支配した。
しかしながら、彼らも国内ではSCナポリとマラドーナという強敵からのチャレンジを乗り越えなければならなかった。
ユヴェントスはプラティニ時代を終えた当時も未だ勢力を保っており、インテルが勝利のために投資を開始しようとした、そんな時代だった。
そんな環境の中、サンプドリアがあった。
第二次大戦後まもなく、サンピエルダレーナとアンドレア・ドリアが合併して結成されたクラブで、1シーズンをセリエBで過ごした後セリエAの中堅クラブとしての地位を確立した。
30年間の間でセリエBでプレーしたのはわずか1シーズンであった。
1977年にサンプドリアが再びセリエBに戻ると、復活は簡単なことではなかった。
5年間の苦闘の後、彼らはセリエA復帰を勝ち取った。
ラツィオサポーターのローマ人で1955年にジェノアに移り住んだ大金持ちのビジネスマン、パオロ・マントヴァーニにクラブが買収される3年前のことだった。
マントヴァーニは情熱的な男ではあったが(カリアリとのアウェイゲームの間に心臓発作で倒れたことがあった)同時に非常に賢い人間でもあった。
手始めにグレアム・スーネスやリアム・ブレイディ、トレヴァー・フランシスのような選手を大金を使って連れてこようと尽力したが、最終的には別の方法論を取ることにした。
マントヴァーニは徐々に、将来を約束された若手の才能ある選手を集め始めた。
集められたのは、他のクラブが見限った人材でもあった。
ロベルト・マンチーニという18歳の若手選手をボローニャから、更に20歳のジャンルカ・ヴィアリをクレモネーゼから獲得した。
他にも、後に実力を証明したゴールキーパーのジャンルカ・パリュウカや、ローマのピエトロ・ヴィエルコウッドをも手中に収めた。
中盤には質と強さを兼ね備えたブラジル人のトニーニョ・セレーゾをローマより連れてくることに成功したのだった。
彼らがサンプドリアへ加入したのは1986年、マントヴァーニが厳格な規律家のエウジェニオ・ベルセリーニから監督を変える決断をした年だった。
彼の選択は、ヴヤディン・ボシュコヴであった。
◇◇◇
二人の相性はこの上なく最良であった。
彼らはともに腰の柔らかい紳士のような印象を与えるが、その態度の裏には勝利への鋼鉄の信念が秘められていた。
そして、実際彼らは勝利した。
ボシュコヴの最初のシーズン、サンプドリアはコパ・イタリアに勝利し欧州カップ・ウィナーズ・カップの出場権を手に入れ、翌シーズンは決勝まで進出した(バルセロナに敗北)。
2季連続でコパ・イタリアを制したサンプドリアは、その翌年にまたもカップ・ウィナーズ・カップ決勝の舞台に立ったが、アンデルレヒトに2-0で敗れた。
突如、小さなクラブがヨーロッパに痕跡を残したのだった。
野心はとどまるところを知らない。
サンプドリアはスレチコ・カタネッツをシュトゥットガルトより獲得した。彼はサンプドリアで大成功を収めることとなる。
他にもアッティリオ・ロンバルドをクレモネーゼから、ジュゼッペ・ドッセーナをセリエBのウディネーゼより獲得した。
ドッセーナは1982年のワールドカップ優勝経験者であった。
1990年、イタリアは恐らく史上最も贅をこらしたワールドカップの主催国となった。
莫大な予算を掛けて巨大なスタジアムを建造したが、結果的には無用の長物と成り果ててしまった。
しかしながらそのことは、当時のセリエAが経済的に優勢であったことを示す証左であるだろう。
ワールドカップで活躍した選手の大半がイタリア国内でプレーをし、その他の選手も結局セリエAへ連れて来られた。
はっきりと、そして分別よく、英国風スタイルで建てられたジェノアのスタディオ・マラッシ(現在名:スタディオ・ルイジ・フェッラーリス)には小さな変化が訪れていた。
その変化は、地元クラブの一つであるサンプドリア(ジェノアとサンプドリアはスタジアムを共用している)によるチーム修正を鏡写しにしていた物だったと言える。
他の多くのクラブがワールドカップ後の夏の疲れで怯んでいる間、サンプドリアの勝利への飢えはかつてないものとなっていた。
ヴィアッリの負傷欠場があったが、彼らはシーズン序盤に好スタートを切る。
リーグの中心だったミランを1-0で下すと、サン・パオロではナポリを4-1で蹴散らした。
そんな中、ダービーを向かえた。
(後編へ続く)
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