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まるでロバート・レドフォード映画のワンシーンのようだった。5人の陰謀者たちが、コルドバにあるホテルの煙草の煙舞うロビーに集結した。秘密の会談。彼らの目的は、ワールドカップで結果を残せないでいたオランダ代表を救うことだった。方法は、時の監督、エルンスト・ハッペルへのクーデター。
歴史というものは、勝者によって記される。
もしもあの運命深いブエノスアイレスの夜、ロブ・レンセンブリンクの終了間際のシュートがゴールに入っていたなら、歴史はまた別の誰かによって不当に書き換えられていたであろう。
今日では、ハッペルはオランダをフットボール界の聖杯へと導いた人物として知られている。
違う。そうじゃない。
公式記録では彼の名前は監督として記されているが、それは真実とは程遠いものだ。
敗戦の夜、エル・モニュメンタルで最も落胆したのは、オランダ代表の再生に偉大な責任を果たした男、事実上の監督であった男の魂であった。
彼の名前は時間に忘れ去られた。
―これは、限りなく王に近づいた男の物語だ。
◇◇◇
1978年、6月25日。目を覚ましたヤン・ズワルトクライスは過去数週間にあった出来事を心の中から一掃していた。
すべてが計画通りだったならオランダ代表に史上初の世界タイトルをもたらす建築士としてズワルトクライスは永遠に名前を刻まれたであろうが、オランダ代表をアルゼンチンへ導いていながら、ワールドカップの数カ月前に監督を解任されていた。彼は防衛省所属の軍人でもあったのだ。
名目上、彼は「スーパーバイザー」(アシスタントコーチ)となった。オランダ代表の練習場にいた人間のみが本当の役割を知っていた。
ハッペルは卓越したコーチの一人ではあったが、彼をオランダ代表の監督に就任させた決断は現在でも重大な間違いであったと見做されている。
KNVB(オランダフットボール協会)が下した決断は、当時としては理にかなっていた。
ハッペルの名声は国内で不朽のものとなっていた。オランダのクラブとしては初めて、フェイエノールトを1970年のヨーロピアンカップで優勝に導いたのだ。
言葉数少なく、繊細で思慮深い心理分析に長け、手堅く生まれながらの勝利者であった。
「Kein keloel, Fußbal spielen」(くだらないことは忘れ、ただプレーしなさい)は彼の監督としてのマントラだった。
ズワルトクライスとハッペルは、戦術的観点では全く正反対の二人だったが、ことマン・マネジメントにかけては両者とも生得的に最高の才能を備えていた。
ハッペルの戦術モデルが守備に重点を置いていたが、過度のものではなかった。
彼の戦術的アプローチは決してアタッキング・フットボールを犠牲にしていたわけではなかった。
どんな状況でも対戦相手は普段のリズムでプレーすることを許されなかった。高いプレッシングラインと、名高いオフサイドトラップが持ち味のチームだった。
オランダ国内の熱烈なポゼッションフットボールの信奉者が、試合のたびに影響を与えていた。
ハッペル任命は、ズワルトクライスとは対照的だった。
ズワルトクライスの名はオランダフットボール界内部の中枢部以外では無名だったが、彼の信じがたい昇進には確かな理由があった。
当時、オランダ代表は小さな派閥に分かれ内紛が常態化し始めており、その影響はモラル面、そしてピッチ上にも影響をあたえるまでになっていた。
ズワルトクライスの名はオランダフットボール界内部の中枢部以外では無名だったが、彼の信じがたい昇進には確かな理由があった。
当時、オランダ代表は小さな派閥に分かれ内紛が常態化し始めており、その影響はモラル面、そしてピッチ上にも影響をあたえるまでになっていた。
そんな状態の代表チームを再び立て直すため、KNVBが注目したのはズワルトクライスの軍隊出身のバックグラウンドだった。
そして、彼らはオランダ軍フットボールチームのコーチを雇った。当然の帰結だった。
◇◇◇
ズワルトクライスの前任だったジョージ・クノーベルは最優先で信頼できる人物ではなく、代表チーム内に蔓延した過ちを感化したとして、しばしば糾弾される。
クノーベルは1973-74シーズン開始前にシュテファン・コヴァチの後を継ぐ形でアヤックス監督に就任した経歴を持つが、大きな成功をおさめることはできずに解任された。「酒と女でアヤックスは破滅するだろう」とは彼の辞め際の捨て台詞であった。
そのシーズン、アヤックスはフェイエノールトから5ポイントの後塵を廃することになった。
クノーベルとヨハン・クライフは親密な間柄だったが、クライフはあくまで代表を牽引していただけに過ぎず、クノーベルの助けにはならなかった。
ヤン・ファン・ベベレンとヴィリー・ファン・デル・カイレンの事件は、その事実を何より証明している。
1970年台初頭、疑いようもなく二人はオランダ最高のゴールキーパーとストライカーであった。
しかし彼らとPSVのコネクションが、クライフや、当時代表チームを支配していたアヤックスの同士、クノーベルとの仲違いを生んだ。
ファン・ベベレンは以前、彼が徴兵を受けた際ズワルトクライスのチームでプレーしたことがあり、それはファン・デル・カイレンも同様だった。
ズワルトクライスの指導を受けた選手の中には、他にもレンセンブリンクやヤン・ムルダー、バリー・フルショフが含まれていた。
ファン・ベベレンのトラブルは、彼がクライフのある誘いを断ったことに端を発する。
それは、クライフの義父であったコー・コスターが、ファン・ベベレンの財務管理を引き受けるというものであった。
代表チームでプレーする他の多くの選手は、この申し出を承諾していた。
この拒絶が対立―それは弱い者いじめと呼べるかもしれない―の口火を切り、それは形としては子どもじみた悪ふざけの形を取った。
代表チームの中では少数派であったファン・デ・ケルクホフ兄弟やアイントホーフェンの選手たちは、ファン・ベベレンを会話の輪に入れずに村八分にするという誤った仕打ちに失望し、真剣に代表招集を辞退することを考えたほどだった。
負傷がファン・ベベレンの1974年のワールドカップ出場に影響したことは確かだが、クライフとの関係が無ければ彼が代表チームを去ることはありえない出来事だった。
彼の代替はヤン・ヨンクブルートが務めたが、ファン・ベベレンのクオリティには遠く及ばなかった。
この大いに瑣末な事情から起こった確執は、一度は約束された彼の代表選手としての時間を縮めることとなった。
ファン・ベベレンは1976年の欧州選手権において代表復帰したが、PSVの同僚でもあったファン・デル・カイレンの冗談が彼の運命を決定づけてしまった。
あるトレーニング・セッションでクライフとヨハン・ニースケンスが練習場に現れた時、カイレンが「スペインの王様が来たぞ!」と嫌味を呟いた。
二人共、数日の休暇明けだった(クライフが妻のダニーとともにミランの靴屋を訪れたのは有名なエピソードだ)が、そのコメントが新聞のヘッドラインを飾るやバルサのスキッパーは烈火のごとく怒り狂い、伝説の14番を背負う男の偏執狂を引き起こした。
クライフは代表監督であったクノーベルにこう迫る。「彼らか、それとも俺か?」と。
勝者は一人だった。
1978年ワールドカップ当時、ファン・ベベレンはその能力のピークを迎えており、アルゼンチン行きの飛行機に乗っているべきだった。評論家としてではなく、代表選手として。
彼をオランダ代表から遠ざける、亡霊に取り憑かれていたとしてもだ。
二人の反目は数年後に沈静化することとなったが、ファン・ベベレンの代表としてのキャリアを奪った多くの出来事は未だに大きな恥であったと考えられている。
彼は、オランダが産んだ最良のゴールキーパーだったのだ。
◇◇◇
ズワルトクライスが一旦監督に就任すると(2試合のみの予定で、後に延長された)、次第に規律を回復させていった。
就任当初は選手たちを特殊部隊の構成員のように厳しく扱っていたが、期待通りの成果をあげられなかった。
そこで、彼はそのアプローチを次第にトーンダウンさせ、自己表現するための戦術的自由を与えて選手たちの信頼と敬意を得ることに成功した。
結果、オランダ代表は戦後2度めのワールドカップ出場を順調に決めることが出来た。
しかし、その裏ではズワルトクライスを解任する流れがすでに準備されていた。
彼の解任は、部分的には彼のもう一つの雇い主である防衛省との意見衝突が原因だったが、状況は4年前にフランティセク・ファドルホンクの時を連想させるものだった。
ファドルホンクも1974年、オランダ代表をワールドカップへ導いた実績を持っていたが、リヌス・ミケルスを優先的に監督にするために解任された。
選手の多くたちはミケルスを知っていたばかりか、大半がおそれすら抱いていたため、この体制変更はスムーズに事が運んだ。ファドルホンクは、ミケルスと比べ「優しすぎた」と見做された。
しかしながらこの監督交代劇はミケルスにとって決して簡単な状況だったわけではない。彼が監督に就任したのは、ワールドカップ直前であったのだ。厳しい挑戦に見えた。
しかし、それもミケルスのような深い知性を備えた監督にとってはすぐに適応できる類の問題だった。
彼の信頼できる副官たるクライフとともに、すぐに明確なアプローチ―すなわち「トータルフットボール」を浸透させた。
ミケルスの最大の心配事は彼のもう一つのクラブのことであった(それはちょうどズワルトクライスが2つの雇い主の間で苦しんだのに似ている)が、彼のもう一つのクラブはバルセロナであり、軍隊ではなかった。
問題は、1974年夏、ワールドカップ期間をまたいでバルセロナも公式戦の日程が組まれていたことだった。
現在ではありえないこのユニークな状況は、スペインがワールドカップ本大会に不出場であったことにより生まれた。
本来は5月に行われるはずだった1973-74シーズンのコパ・デル・ジェネラリスモ(現在のコパ・デル・レイ)は、スペインフットボール協会の深遠なる知恵によって夏季期間にまで延長されたのだった。
準々決勝は、ワールドカップ開幕戦となるブラジル-ユーゴスラヴィア戦の5日前に設定された。
決勝戦のバルセロナ-レアル・マドリー戦にいたっては6月29日、オランダが西ドイツと第2ラウンドで対戦する日の前日という状況となる。
ミケルスは苦境に立たされたが、極めて例外的でありつつ彼に出来る唯一の解決法を採用した。
つまり、彼は自分の不在期間、両チームを信頼できるコーチングスタッフに任せスペイン~ドイツ間を往復することとなった。
オランダ代表にとっては、新たに直面する混乱だったが、4年後に起きた事態ほどではなかった。
◇◇◇
ファドルホンクがミケルス政権の礎を築いたのだとすれば、ハッペルとズワルトクライスの関係は真反対のものだった。彼らの関係を一言で表現すると、「性格の不一致」であった。
彼らは練習場にネガティブな雰囲気を作りだした。二人の関係はまるでリンドン・ジョンソン(元米大統領)とロバート・F・ケネディ(ジョン・F・ケネディの実弟)(※訳注:ジョン大統領時の副大統領であったジョンソンは、ジョンの実弟で広く知名度を持っていたロバートを恐れていたと言われている。ジョンソン政権樹立後、ロバートは司法長官となった)のそれであり、共存を余儀なくされながらもお互いに顔も見たくないほど嫌い合っていた。
彼らの心理的敵対関係の種を撒いたであろう最初の兆候は、ハッペルがこれまでの既存の慣習を尽く排除したことだった。例えばオランダ代表としての初戦前日、彼の持っていたゲームプランと戦術が世界に明かされたが、彼はプレスインタビューの中で慎重にこう繰り返した。「選手の間に蔓延するクライフ・コンプレックスを排除したい」と。
なぜ彼が、「クライフ・コンプレックス」なるものが存在していると信じたのか、そしてそれを排除する必要性を感じたのかは定かではない。
しかし、ズワルトクライスがハッペルの発言を、自らとクライフの間にある友情をハッペルが快く思っておらず、ハッペルは当時は代表に不在だった元キャプテンのクライフの影に怯えているのだ、という薄いベールに隠されたメッセージだと見なした。
そして何より、ズワルトクライスはハッペルの発言が、自らの代表再生の仕事を破壊しうるものだと感じていた。
1974年組の選手は代表に未だ残っていたが、ミケルス時代とは違って、選手たちが監督へアプローチする機会が制限されていた。
ズワルトクライスは最初からハッペルへの畏敬の念を隠さず、「天才」と表現さえしたが、それと同時に彼の過ちをも列挙した。その一つが、選手たちとの接触の希薄さだった。
「私は常に選手たちと話すようにした」と彼は語る。
「私の近くにいるとき、ハッペルは怒っているように見えた。彼は私が自分に近づかず、自分に話かけてほしくないと考えていた。信じられないことだ」
◇◇◇
ワールドカップのトーナメントが始まると、オランダ代表は第1ラウンドを幸運にも切り抜けることが出来た。
初戦、3-0のイラン戦の勝利は成功への兆候となるはずだったが、その後ペルーとの2戦目をスコアレスドローで終えると、スコットランド戦は3-2で敗戦。得失点差でなんとか次のステージへと駒を進める。
ズワルトクライスは憤慨し、KNVBへ自らの意見を伝えた。
彼は「もう終わりにしたい。私は自らの責任を取ります」と宣言した。「もしあなた方が勝ちたいのであれば、私と同じ行動を取り、この困難な状況から逃げてはなりません」と。
ハッペル政権への政変は水面下で行われた。
KNVB会長のウィム・ミューレマンを含む多くの人間が、ハッペル任命を後悔し始めていた。
事実、政変の首謀者はミューレマンその人であった。
ズワルトクライスによると、ミューレマンはこれ以上オランダ代表のメンタリティが崩壊していくことに耐えられなかったという。
タバコの煙舞う中、ズワルトクライスとKNVBチェアマンのヤック・ホゲヴォニン、チーム・リーダーのハーマン・シューフォー、そしてアシスタント・コーチのアリエ・デ・フロート同席のもと、ミューレマンは権力委譲の同意書にサインした。
それはハッペルにとっては強烈な一撃であった。奇しくも、オランダ代表は彼の母国であるオーストリア戦を控えていた。
翌日のトレーニングで、ハッペルとズワルトクライスは並んで立っていたが、ハッペルは彼独特の方法でズワルトクライスを祝福した。
「ハッペルは嵐を目撃した」とズワルトクライスは語る。
「今になって考えると、理由はわかる。私は彼より選手に対して自由に接した」
メンドーサでのキャンプにて革命は組織された。ズワルトクライスは、オランダ代表キャプテンを務めたルート・クロルと同様、平穏を保っていた。彼は若手選手だったピエト・ウィルトシュットやアーニー・ブランツのチームへの統合に重大な責任を追った。
結果とパフォーマンスは次々と印象的に現れた。
5-1でオーストリアに勝利すると、前回大会の覇者である西ドイツ相手に2-2の引き分けを演じ、さらに2-1でイタリアを粉砕した。
ハッペルは完全に排除されたわけではなく、名目上のリーダー―事実上の傀儡政権―として残った。
KNVBが世界中のプレスが集まるワールドカップの場で、代表チームの々的なスキャンダルを衆目に晒したくなかったためだ。
ハッペルはカメラには収まり続けたが、戦術はすでに彼の手を離れていた。
皮肉なことに、この施策によって「オランダ代表をワールドカップ決勝に導いた監督」として彼のイメージだけがひとり歩きすることとなった。
そのことについてズワルトクライスに憤りはない。彼は2008年に出版した自著「オレンジのキャプテン」でこう語る。
「本当のストーリーが語られなくてはならない。人々はオランダについて語るとき、1974年や1988年の話はするが、78年はスキップする」
◇◇◇
内部的には、彼はハッペル介在前のオランダ代表の職に復帰することでその仕事を報われることが出来た。
混迷を極めた1980年欧州選手権の予選において、オランダ代表は悲惨なパフォーマンスを見せたが、そのハイライトは「ライプツィヒの奇跡」としてよく知られる1979年の西ドイツ戦、0-2から3-2の大逆転劇だった。
1年前と同様、彼の名を物語る出来事であった。
ズワルトクライスは、滅亡し死に至るかに見えたオランダ代表の運命を救い、彼らを約束の地へ導いた人物だった。
ズワルトクライスは2013年3月8日、87歳でこの世を去った。
その直後、オランダ代表がホームにエストニアを迎えた際、追悼の黙祷が捧げられた。
それは、オランダ代表を指揮する意味をその身を持って具現化した男への記念碑であった。
その男は間違いなく、オランダ代表史上最もチームに霊感を与えた監督の一人であった。
彼の名前と、アルゼンチンで果たしたその役割は忘れられがちであるが、彼のもとでプレーしたことのある選手たちは真実を知っている。
ウィルトシュットはこう語る。
「全ての選手を代表して語るが、我々には(1978年のワールドカップで)一人のコーチがいた。彼の名はヤン・ズワルトクライスだ」
(校了)
そして、彼らはオランダ軍フットボールチームのコーチを雇った。当然の帰結だった。
◇◇◇
ズワルトクライスの前任だったジョージ・クノーベルは最優先で信頼できる人物ではなく、代表チーム内に蔓延した過ちを感化したとして、しばしば糾弾される。
クノーベルは1973-74シーズン開始前にシュテファン・コヴァチの後を継ぐ形でアヤックス監督に就任した経歴を持つが、大きな成功をおさめることはできずに解任された。「酒と女でアヤックスは破滅するだろう」とは彼の辞め際の捨て台詞であった。
そのシーズン、アヤックスはフェイエノールトから5ポイントの後塵を廃することになった。
クノーベルとヨハン・クライフは親密な間柄だったが、クライフはあくまで代表を牽引していただけに過ぎず、クノーベルの助けにはならなかった。
ヤン・ファン・ベベレンとヴィリー・ファン・デル・カイレンの事件は、その事実を何より証明している。
1970年台初頭、疑いようもなく二人はオランダ最高のゴールキーパーとストライカーであった。
しかし彼らとPSVのコネクションが、クライフや、当時代表チームを支配していたアヤックスの同士、クノーベルとの仲違いを生んだ。
ファン・ベベレンは以前、彼が徴兵を受けた際ズワルトクライスのチームでプレーしたことがあり、それはファン・デル・カイレンも同様だった。
ズワルトクライスの指導を受けた選手の中には、他にもレンセンブリンクやヤン・ムルダー、バリー・フルショフが含まれていた。
ファン・ベベレンのトラブルは、彼がクライフのある誘いを断ったことに端を発する。
それは、クライフの義父であったコー・コスターが、ファン・ベベレンの財務管理を引き受けるというものであった。
代表チームでプレーする他の多くの選手は、この申し出を承諾していた。
この拒絶が対立―それは弱い者いじめと呼べるかもしれない―の口火を切り、それは形としては子どもじみた悪ふざけの形を取った。
代表チームの中では少数派であったファン・デ・ケルクホフ兄弟やアイントホーフェンの選手たちは、ファン・ベベレンを会話の輪に入れずに村八分にするという誤った仕打ちに失望し、真剣に代表招集を辞退することを考えたほどだった。
負傷がファン・ベベレンの1974年のワールドカップ出場に影響したことは確かだが、クライフとの関係が無ければ彼が代表チームを去ることはありえない出来事だった。
彼の代替はヤン・ヨンクブルートが務めたが、ファン・ベベレンのクオリティには遠く及ばなかった。
この大いに瑣末な事情から起こった確執は、一度は約束された彼の代表選手としての時間を縮めることとなった。
ファン・ベベレンは1976年の欧州選手権において代表復帰したが、PSVの同僚でもあったファン・デル・カイレンの冗談が彼の運命を決定づけてしまった。
あるトレーニング・セッションでクライフとヨハン・ニースケンスが練習場に現れた時、カイレンが「スペインの王様が来たぞ!」と嫌味を呟いた。
二人共、数日の休暇明けだった(クライフが妻のダニーとともにミランの靴屋を訪れたのは有名なエピソードだ)が、そのコメントが新聞のヘッドラインを飾るやバルサのスキッパーは烈火のごとく怒り狂い、伝説の14番を背負う男の偏執狂を引き起こした。
クライフは代表監督であったクノーベルにこう迫る。「彼らか、それとも俺か?」と。
勝者は一人だった。
1978年ワールドカップ当時、ファン・ベベレンはその能力のピークを迎えており、アルゼンチン行きの飛行機に乗っているべきだった。評論家としてではなく、代表選手として。
彼をオランダ代表から遠ざける、亡霊に取り憑かれていたとしてもだ。
二人の反目は数年後に沈静化することとなったが、ファン・ベベレンの代表としてのキャリアを奪った多くの出来事は未だに大きな恥であったと考えられている。
彼は、オランダが産んだ最良のゴールキーパーだったのだ。
◇◇◇
ズワルトクライスが一旦監督に就任すると(2試合のみの予定で、後に延長された)、次第に規律を回復させていった。
就任当初は選手たちを特殊部隊の構成員のように厳しく扱っていたが、期待通りの成果をあげられなかった。
そこで、彼はそのアプローチを次第にトーンダウンさせ、自己表現するための戦術的自由を与えて選手たちの信頼と敬意を得ることに成功した。
結果、オランダ代表は戦後2度めのワールドカップ出場を順調に決めることが出来た。
しかし、その裏ではズワルトクライスを解任する流れがすでに準備されていた。
彼の解任は、部分的には彼のもう一つの雇い主である防衛省との意見衝突が原因だったが、状況は4年前にフランティセク・ファドルホンクの時を連想させるものだった。
ファドルホンクも1974年、オランダ代表をワールドカップへ導いた実績を持っていたが、リヌス・ミケルスを優先的に監督にするために解任された。
選手の多くたちはミケルスを知っていたばかりか、大半がおそれすら抱いていたため、この体制変更はスムーズに事が運んだ。ファドルホンクは、ミケルスと比べ「優しすぎた」と見做された。
しかしながらこの監督交代劇はミケルスにとって決して簡単な状況だったわけではない。彼が監督に就任したのは、ワールドカップ直前であったのだ。厳しい挑戦に見えた。
しかし、それもミケルスのような深い知性を備えた監督にとってはすぐに適応できる類の問題だった。
彼の信頼できる副官たるクライフとともに、すぐに明確なアプローチ―すなわち「トータルフットボール」を浸透させた。
ミケルスの最大の心配事は彼のもう一つのクラブのことであった(それはちょうどズワルトクライスが2つの雇い主の間で苦しんだのに似ている)が、彼のもう一つのクラブはバルセロナであり、軍隊ではなかった。
問題は、1974年夏、ワールドカップ期間をまたいでバルセロナも公式戦の日程が組まれていたことだった。
現在ではありえないこのユニークな状況は、スペインがワールドカップ本大会に不出場であったことにより生まれた。
本来は5月に行われるはずだった1973-74シーズンのコパ・デル・ジェネラリスモ(現在のコパ・デル・レイ)は、スペインフットボール協会の深遠なる知恵によって夏季期間にまで延長されたのだった。
準々決勝は、ワールドカップ開幕戦となるブラジル-ユーゴスラヴィア戦の5日前に設定された。
決勝戦のバルセロナ-レアル・マドリー戦にいたっては6月29日、オランダが西ドイツと第2ラウンドで対戦する日の前日という状況となる。
ミケルスは苦境に立たされたが、極めて例外的でありつつ彼に出来る唯一の解決法を採用した。
つまり、彼は自分の不在期間、両チームを信頼できるコーチングスタッフに任せスペイン~ドイツ間を往復することとなった。
オランダ代表にとっては、新たに直面する混乱だったが、4年後に起きた事態ほどではなかった。
◇◇◇
ファドルホンクがミケルス政権の礎を築いたのだとすれば、ハッペルとズワルトクライスの関係は真反対のものだった。彼らの関係を一言で表現すると、「性格の不一致」であった。
彼らは練習場にネガティブな雰囲気を作りだした。二人の関係はまるでリンドン・ジョンソン(元米大統領)とロバート・F・ケネディ(ジョン・F・ケネディの実弟)(※訳注:ジョン大統領時の副大統領であったジョンソンは、ジョンの実弟で広く知名度を持っていたロバートを恐れていたと言われている。ジョンソン政権樹立後、ロバートは司法長官となった)のそれであり、共存を余儀なくされながらもお互いに顔も見たくないほど嫌い合っていた。
彼らの心理的敵対関係の種を撒いたであろう最初の兆候は、ハッペルがこれまでの既存の慣習を尽く排除したことだった。例えばオランダ代表としての初戦前日、彼の持っていたゲームプランと戦術が世界に明かされたが、彼はプレスインタビューの中で慎重にこう繰り返した。「選手の間に蔓延するクライフ・コンプレックスを排除したい」と。
なぜ彼が、「クライフ・コンプレックス」なるものが存在していると信じたのか、そしてそれを排除する必要性を感じたのかは定かではない。
しかし、ズワルトクライスがハッペルの発言を、自らとクライフの間にある友情をハッペルが快く思っておらず、ハッペルは当時は代表に不在だった元キャプテンのクライフの影に怯えているのだ、という薄いベールに隠されたメッセージだと見なした。
そして何より、ズワルトクライスはハッペルの発言が、自らの代表再生の仕事を破壊しうるものだと感じていた。
1974年組の選手は代表に未だ残っていたが、ミケルス時代とは違って、選手たちが監督へアプローチする機会が制限されていた。
ズワルトクライスは最初からハッペルへの畏敬の念を隠さず、「天才」と表現さえしたが、それと同時に彼の過ちをも列挙した。その一つが、選手たちとの接触の希薄さだった。
「私は常に選手たちと話すようにした」と彼は語る。
「私の近くにいるとき、ハッペルは怒っているように見えた。彼は私が自分に近づかず、自分に話かけてほしくないと考えていた。信じられないことだ」
◇◇◇
ワールドカップのトーナメントが始まると、オランダ代表は第1ラウンドを幸運にも切り抜けることが出来た。
初戦、3-0のイラン戦の勝利は成功への兆候となるはずだったが、その後ペルーとの2戦目をスコアレスドローで終えると、スコットランド戦は3-2で敗戦。得失点差でなんとか次のステージへと駒を進める。
ズワルトクライスは憤慨し、KNVBへ自らの意見を伝えた。
彼は「もう終わりにしたい。私は自らの責任を取ります」と宣言した。「もしあなた方が勝ちたいのであれば、私と同じ行動を取り、この困難な状況から逃げてはなりません」と。
ハッペル政権への政変は水面下で行われた。
KNVB会長のウィム・ミューレマンを含む多くの人間が、ハッペル任命を後悔し始めていた。
事実、政変の首謀者はミューレマンその人であった。
ズワルトクライスによると、ミューレマンはこれ以上オランダ代表のメンタリティが崩壊していくことに耐えられなかったという。
タバコの煙舞う中、ズワルトクライスとKNVBチェアマンのヤック・ホゲヴォニン、チーム・リーダーのハーマン・シューフォー、そしてアシスタント・コーチのアリエ・デ・フロート同席のもと、ミューレマンは権力委譲の同意書にサインした。
それはハッペルにとっては強烈な一撃であった。奇しくも、オランダ代表は彼の母国であるオーストリア戦を控えていた。
翌日のトレーニングで、ハッペルとズワルトクライスは並んで立っていたが、ハッペルは彼独特の方法でズワルトクライスを祝福した。
「ハッペルは嵐を目撃した」とズワルトクライスは語る。
「今になって考えると、理由はわかる。私は彼より選手に対して自由に接した」
メンドーサでのキャンプにて革命は組織された。ズワルトクライスは、オランダ代表キャプテンを務めたルート・クロルと同様、平穏を保っていた。彼は若手選手だったピエト・ウィルトシュットやアーニー・ブランツのチームへの統合に重大な責任を追った。
結果とパフォーマンスは次々と印象的に現れた。
5-1でオーストリアに勝利すると、前回大会の覇者である西ドイツ相手に2-2の引き分けを演じ、さらに2-1でイタリアを粉砕した。
ハッペルは完全に排除されたわけではなく、名目上のリーダー―事実上の傀儡政権―として残った。
KNVBが世界中のプレスが集まるワールドカップの場で、代表チームの々的なスキャンダルを衆目に晒したくなかったためだ。
ハッペルはカメラには収まり続けたが、戦術はすでに彼の手を離れていた。
皮肉なことに、この施策によって「オランダ代表をワールドカップ決勝に導いた監督」として彼のイメージだけがひとり歩きすることとなった。
そのことについてズワルトクライスに憤りはない。彼は2008年に出版した自著「オレンジのキャプテン」でこう語る。
「本当のストーリーが語られなくてはならない。人々はオランダについて語るとき、1974年や1988年の話はするが、78年はスキップする」
◇◇◇
内部的には、彼はハッペル介在前のオランダ代表の職に復帰することでその仕事を報われることが出来た。
混迷を極めた1980年欧州選手権の予選において、オランダ代表は悲惨なパフォーマンスを見せたが、そのハイライトは「ライプツィヒの奇跡」としてよく知られる1979年の西ドイツ戦、0-2から3-2の大逆転劇だった。
1年前と同様、彼の名を物語る出来事であった。
ズワルトクライスは、滅亡し死に至るかに見えたオランダ代表の運命を救い、彼らを約束の地へ導いた人物だった。
ズワルトクライスは2013年3月8日、87歳でこの世を去った。
その直後、オランダ代表がホームにエストニアを迎えた際、追悼の黙祷が捧げられた。
それは、オランダ代表を指揮する意味をその身を持って具現化した男への記念碑であった。
その男は間違いなく、オランダ代表史上最もチームに霊感を与えた監督の一人であった。
彼の名前と、アルゼンチンで果たしたその役割は忘れられがちであるが、彼のもとでプレーしたことのある選手たちは真実を知っている。
ウィルトシュットはこう語る。
「全ての選手を代表して語るが、我々には(1978年のワールドカップで)一人のコーチがいた。彼の名はヤン・ズワルトクライスだ」
(校了)
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