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時は1971年。
ドン・レヴィーは、新しい選手を連れてこなければならないと熟知していた。
彼のリーズ・ユナイテッドにはけが人が続出し、ディヴィジョン・ワンのタイトルレースに大きく遅れを取ろうとしていた。彼らは1969年にタイトルを獲得したものの、そのシーズンはダービー・カウンティに食らいつくので精いっぱいだった。
レヴィーは移籍市場に目を光らせ、かつての「マイティ・ホワイツ」復権に必要な人材を探していた。
これは、そんな時代の話だ。
元ネタ:ASA HARTFORD AND THE DAY DON REVIE CRIED
◇◇◇
当時21歳だったエイサ・ハートフォードは中盤のダイナモとして印象的な活躍を見せており、1960年代後半のウェストブロム躍進の立役者となっていた。
1968年のFAカップに優勝したバギーズは、続けて1970年のリーグカップ決勝にも進出し、新時代を築こうとしていた。
ハートフォードの活躍は、いつしかレヴィーの目に留まった。レヴィーは、ハートフォードについての情報をかき集めていたのだ。
レヴィーはリーズの監督として、ハートフォード獲得のために2度の問い合わせをした。
しかし、バギーズは即座にそれを拒否。彼らは、自分たちにとって貴重な財産であるハートフォードを、タイトルを争うライバルチームに売却することを拒んだ。
しかしながら、最終的には取引がまとまり、ウェストブロムは移籍許可を出した。
11月1日、レヴィーとリーズ・ユナイテッドのチェアマンであったパーシー・ウッドワードがバーミンガムへ向かった。ハートフォードの取引をまとめるためだ。
その後、レヴィーとハートフォードはグレイハウンド・モーター・ホテルにて会談を持ち、条件合意した。
その時の会話は10分足らずで終了したという。ハートフォードにとって、この取引を断る理由は何もなかった。夢の移籍だった。
取引はすぐにまとめられ、レヴィーはハートフォードの加入と、週末にエランド・ロードで行われるレスター戦に出場するだろうということを発表した。
万事が、あるべきところへと順調に滑り出していった。
さらに、ハートフォードにとっての吉報が続いた。
スコットランド代表のトミー・ドハティ監督より、初の代表招集の連絡を受けたのだ。
けがをしたアーチー・ジェミルの代わりだった。
◇◇◇
ヨークシャーは熱狂の渦と化した。ジャーナリストやコメンテーターはハートフォードの輝かしい未来について語り合っていた。
ヨークシャー・ポストのバリー・フォスター記者は次のように寄稿した。
「エイサ・ハートフォードが昨晩エランド・ロードに到着。分別のある若者としてすぐに印象的な振る舞いを見せた。自分をしっかり持っている人物だ」
新しい選手を見るために熱狂したファンが押し寄せ、突如、週末のレスター戦は大規模なイベントと化した。
エランド・ロードの信者たちはリーグ優勝を争うための起爆剤を求め、少なくともこの時には、ハートフォードこそがその選手だと考えていた。
フォクシーズ戦の数時間前、クラブを震撼させる情報が届いた。
ハートフォードの移籍は、メディカルテストにより公式にキャンセルされた、というものだった。
クラブを取り巻く熱狂と興奮は、即座に困惑と衝撃で急降下した。
リーズのセクレタリであったブライアン・アーチャーよりもたらされた最初の情報は、非常に短くうんざりするほど不明瞭だったし、その情報はリーズファンの心臓にダガーを鋭く突き立てるものとなった。
何が起こっているのかを把握するのが困難なほどであった。
選手からも、監督からも公式声明は無かった。
続けて、メディカルに失敗した明確な理由が調査の的となった。
その理由は、ハートフォードの心臓に穴が開いているということであった。
それは彼が生まれつき持っている軽度の欠陥であったが、今までのフットボール人生に直接影響を与えることはなかった。
穴は小さく、専門家によればピンホールほどの大きさであった。
しかしリーズ・ユナイテッドのメディカルスタッフは、移籍をキャンセルするに十分な理由であると判断した。
このように突然、ハートフォードの夢の扉は閉じられてしまった。
◇◇◇
ハートフォードはウェストブロムのメディカルチェックは通過しており、結果的にプレーするのに何の支障もなかった。
ウェストブロムの監督、ドン・ハウィは移籍のキャンセルに対しショックを受けたと語った。
彼はエイサを、彼が指導した中でも最良のフィジカルを持った選手の一人だと公言していた。
ハウィが指導する選手たちは、日常的にハードなトレーニングを課され、そのカリキュラムの中にはクロスカントリーも含まれていた。
ハートフォードは、そんな選手たちの中でもリーダー的存在だった。
リーズにとって、移籍のキャンセルは極めて重大な決断であった。
移籍金の17万7千ポンドは1971年当時、クラブ最高額であったし、リーグタイトルを獲得するための急先鋒として活躍を見込んでいた。
しかし、トップレベルで優勝争いを続ける中で心身に課される負荷に、心臓に欠陥を抱えたエイサが耐え切れないとリーズの専門家たちが判断したのは無理からぬことであろう。
もっとも重要なことは、選手の健康である、と。
ハートフォードはリーズ・ユナイテッドへの移籍がキャンセルされた旨を告知された。
24時間で、人生が180度変わった日であった。
彼はリーズ・シティ駅にてレヴィーと短い面会をしたのち、一人でバーミンガムへの帰路へ発った。
フットボール界でも、最も冷酷な指揮官として知られるレヴィーは、車からハートフォードの旅立ちを見送りながら号泣したことをのちに明かした。
「私はリーズシティ駅の2台の車の間に立ちすくみ、子供の様に泣いたよ。人生で最悪の瞬間だった。未来ある輝ける若い選手に『君のキャリアは健康面で危機に晒されている』と告げなくてはならなかったのだから」
◇◇◇
彼はウェストブロムへもどったのち、即座にポール・デヴィッドソン医師を訪ねた。ミッドランズでは高名な心臓の専門医だった。
医師はハートフォードに、彼の心臓はフットボール選手としてのキャリアに影響を与えるものではないと断言した。
リーズ・ユナイテッドのメディカルスタッフが、彼の心臓には欠陥がありクラブでプレーするには不十分で、すぐにでも手術が必要だ、と判断したのとは全く対照的な診察だった。
結局手術は行われず、メディカルテストも休養期間も必要とせず、その週のうちにハートフォードはウェストブロムのトレーニンググラウンドへ戻っていった。
その診察の結果がどこからか広がり、リーズによるハートフォードの移籍が再燃するとのうわさが流れたが、レヴィーもウッドウォードも即座にそれを否定。永遠に暗礁に乗り上げた形となった。
このシーズン、リーズはブライアン・クラフ率いるダービー・カウンティの後塵を拝する形でリーグ2位の結果に終わった。
ファンは、「ハートフォードの移籍が成功していれば」と夢想したに違いない。
◇◇◇
その後、ハートフォードが心臓の問題もなく、際立った選手人生を送ったことを考えると、レヴィーとリーズの専門家たちがその当時下した決断は誤りだったとみることもできる。
しかしながら、その決断に至った思考プロセスは現代に近づくにつれ、正しいものであったことが明らかになって来た。
彼らは選手の健康を第一に考え、それが正しいことだと信じ、移籍を却下した。
現代では、熟練したメディカルスタッフの意見をフットボールクラブが取り入れるのが当たり前となっている。
その後のハートフォードの努力の結果、彼は戦士のようなプレーアティチュードと強靭なメンタルを手に入れ、1971年のリーズ・ユナイテッドが誤っていたことを証明した。
だが、彼らは愚か者ではなかった。単にプロの医師が、選手の健康を第一に考えた結果起きた出来事だった。
◇◇◇
ハートフォードはウェストブロムに戻り、11月13日のノッティンガム・フォレスト戦に出場。
4-1で敗れたものの、ジャーナリストたちはシティグラウンドに大挙して集い、ハートフォードのパフォーマンスが暗雲立ち込めるバギーズにとって数少ない希望の光だったと評した。
ジョフリー・グリーン記者はタイムズ紙にこう書いている。
「群衆の鋭い視線の中、萎縮し目立たなかったのは理解できる。前半を終え、彼は強靭さを増し、中盤でせわしなく動くようになった。多くのクリエイティブなタッチを披露し、周囲の敵を混乱に陥れた」
グリーンの評価は心を打つものだった。ハートフォードは変わりなく印象的で、レヴィーとリーズが最初に注目した輝きは色あせていなかった。
あの出来事は、おそらくハートフォードを打ちのめしたであろう。
才能あるミッドフィールダーがエランド・ロードでよりよいキャリアを築き、リーズがタイトルを獲得する礎となる未来もあり得ただろう。
しかし、彼はそんなことで立ち止まる人間ではなかった。彼はただ、フットボールをプレーすることを欲し、確かにそれを実行した。
ハートフォードは1974年までウェストブロムに在籍。
その後トニー・ブック率いるマンチェスター・シティへと移籍した後は中核選手として5年間を過ごし、1976年のリーグカップでの成功を牽引した。
シティでの一貫性と成功でキャリアを持ち直し、ハートフォードは再び夢の移籍を実現する機会を得た。
ブライアン・クラフ監督のもと、欧州を支配したノッティンガム・フォレストが彼に目を付けたのだ。
クラフは、アーチー・ジェミルが抜けた穴を埋める最適な人材としてハートフォードに目をつけ、50万ポンドもの巨額な資金を費やし獲得に動いた。
訳註:
この時、アーチー・ジェミルとクラフの仲たがいは公のものとなっていた。原因はクラフがジェミルを1979年のヨーロピアンカップ(現在のCL)の決勝戦でプレーさせなかったこと。ジェミルはこの時、「絶望したよ。プレーすべきだと信じていたからね。幸せとは程遠かったし、90分間ずっと苦痛だった」と語っている。
クラフにとって、ジェミルはダービー・カウンティ時代からずっと重宝してきた選手だったが、この件で信頼関係は壊れ、1979年にジェミルはバーミンガムへ移籍した。
どんな名監督にも、誤りを犯した瞬間というのは確かに存在するものだ。
メディカルには何の問題も起こらなかった。
ハートフォードは契約書にサインし、偉大なるフォレストでの新たな1ページが始まろうとしていた。
結果的に、この輝かしい移籍は失敗に終わった。
ハートフォードのフォレストでのキャリアは63日で終わりを告げた。
3度プレーし、主だった印象を残せず即座にエヴァートンに売却された。
クラフは、ハートフォードがシンプルに彼のチームに調和できなかったと判断し、放出を決定した。
後にフォレストはハートフォード獲得を失敗だったと認め、同時に即座に40万ポンドでエヴァートンへ放出したことを正しい経営判断であったと主張した。
フォレスト、そして忘れ去られたグディソンパークでの日々から、ハートフォードのキャリアは急速に降下し始める。
彼はその後メイン・ロードへの帰還を果たし、短期間フロリダのフォート・ローダーデール在籍やノリッジシティ、ボルトン・ワンダラーズ、シュルーズベリー・タウンなどでのプレーの後、引退しストックポート・カウンティやボストン・ユナイテッドで監督の職に就いた。
1978年と1982年のワールドカップにスコットランド代表として出場し、ブラジルとの試合で代表50キャップを記録した。
しかし、彼のキャリアは、1971年のあの日に決定づけられてしまったように見える。
ハートフォードは他のスコットランド人、例えばグレアム・スーネスやロー・マカリ、ブルース・リオフ、そしてアーチー・ジェミルのように才能ある選手ではあったものの、今後もずっと「心臓に穴の開いた選手」でありつづけるだろう。
◇◇◇
エイサ・ハートフォードに起きた出来事から、40年以上が経った。
しかし、あの出来事は、生理学的状態が試合にいかに影響するかを思い出させるリマインダーとして、厳然と記憶に残り続けている。
現在では医学の進歩が目覚ましく、関係者にとっては1971年など旧石器時代のように風化している。
多くの選手が、特別な専門家のアドバイスを受けながら自らの状態を管理しているし、主要なヨーロッパのクラブは例外なく専門医チームを招き、トップ選手の特殊な要求に見合うようスポーツサイエンスを練習に組み込んでいる。
もし心臓にピンホールサイズの穴が開いた選手がいたとしても、日曜日の紙面を飾ることはないだろう。
エイサ・ハートフォードはあの出来事の数年後、インタビューで次のように語っている。
「自分の心臓の状態について詳細なレポートが公開され、その情報に対してみんながパニックに陥る反応を見て、自分の生命が危機に脅かされているような恐怖を感じた」と。
むろん、メディカルテストの結果は事実ではなかった。だが、それは現在とは違う文化の、違う時代の出来事だった。
不運なことに、彼は時代の犠牲者となってしまった。
(校了)
コメント
こんにちは、takaです。私は61歳です。
返信削除ハートフォードさんの心臓の話は、約43年前から知っていました。
日本のサッカーマガジンに載っていました。
はっきりと、どこのティームとの契約のときかは覚えてはいないのですが、彼がサッカーを辞めないで
そして長生きしてほしいと思いました。
彼は偉大なフットボールプレイヤーでした。何回もイングランド・リーグや
ワールドカップで彼のアメージング・プレーをTVで見ました。
スキルがありましたし、エネルギッシュなプレーで凄かったです。
しかもあの二枚目でした。世界中の女の子を魅了してたんでしょうね。
日本に来られた時もありましたよね。キリンカップの時だったと思います。
あのときもマンチェスター・シティは強かったですね。日本のティームは
とても歯が立たなかったと思います。ハートフォードさん上手かったです。
胸板もすごく厚かったですね。かっこ良かったです。
これからも良い人生を送ってほしいです。
コメントになっていないと思いますけれど、失礼します。
こんにちは、takaです。私は61歳です。
返信削除ハートフォードさんの心臓の話は、約43年前から知っていました。
日本のサッカーマガジンに載っていました。
はっきりと、どこのティームとの契約のときかは覚えてはいないのですが、彼がサッカーを辞めないで
そして長生きしてほしいと思いました。
彼は偉大なフットボールプレイヤーでした。何回もイングランド・リーグや
ワールドカップで彼のアメージング・プレーをTVで見ました。
スキルがありましたし、エネルギッシュなプレーで凄かったです。
しかもあの二枚目でした。世界中の女の子を魅了してたんでしょうね。
日本に来られた時もありましたよね。キリンカップの時だったと思います。
あのときもマンチェスター・シティは強かったですね。日本のティームは
とても歯が立たなかったと思います。ハートフォードさん上手かったです。
胸板もすごく厚かったですね。かっこ良かったです。
これからも良い人生を送ってほしいです。
コメントになっていないと思いますけれど、失礼します。