フットボールの話をしよう - SCハコア・ウィーン 忘れ去られた開拓者たち


元ネタ: HAKOAH WIEN: FOOTBALL'S FORGOTTEN PIONEERS

ハコア・ウィーンの活動停止は、恐るべきナチスが欧州を席巻する中生まれたエピソードの一つだ。
だが、その悲劇の表面下において、第二次大戦中に偉大な開拓者たちがフットボール文化に与えたインパクトは計り知れない。

クラブは1909年、作家だったフリッツ・ルーナー・ベダと彼の友人で歯科医のイグナズ・ヘルマン・ケルナーという二人の卓越したユダヤ人実業家によって設立された。
二人にクラブ創設を決意させたのはシオニストマックス・ノルダウによるスピーチ、すなわち「ユダヤ人はスポーツと運動競技を利用し、ユダヤ人に対するネガティブな見方を変えるようにすべきだ」という意見に感化されてのことだった。
ノルダウの哲学は「マスキュラー・ユダイズム」として提唱され、20世紀初頭のユダヤ人社会に小さな革命を引き起こした。
この哲学に敬意を表し、フリッツとイグナズはクラブに「ハコア」―ヘブライ語で「強さ」「力」━ウィーンと名付けた。

ハコアは単にフットボールクラブ単体として始まったのではなく、ユダヤ人がレスリングや水泳などいくつかのスポーツを楽しめる場所として成立した。
20世紀初頭のウィーンは東ヨーロッパへ大規模に移民が流入したこともあり、文化の大きな中心地として時代を謳歌していた。当時、ウィーン市内には人口の約10%がユダヤ人だった。

ウィーン市におけるスポーツに関する利益は、人口の流入による増加、そしておびただしい数のフットボールクラブやスポーツチームの結成により成長の一途を辿った。
熱狂的なスポーツの渦の中に立ちながら、ハコアはウィーンにおけるユダヤ文化の不可欠な存在となっていった。
かのフランツ・カフカでさえハコア・ウィーンのファンだと噂された。

フットボールの上でも、ハコア・ウィーンは飛翔を続けた。
わずか11年で4部リーグからトップリーグへ昇格すると、4年後の1924/25シーズンには歴史的なタイトルを争うまでになった。

彼らの最初のタイトルは、非常にドラマティックだった。
ゴールキーパーのアレクサンダー・ファビアンが相手選手に踏みつけられ、腕を骨折してしまった。
当時のルールでは選手交代が認められていなかった為、なんとファビアンは自らの腕を吊り包帯にかけ、ストライカーとしてプレーしたのだ。
7分後、歓喜の瞬間が生まれた。ストライカーのファビアンは、相手ゴールのネットを揺らした。
それは、ハコアをオーストリア王者にする決勝ゴールだった。

ハコアの成功、そしてクラブが持っていた独特の空気は、その時代最高のユダヤ人選手たちを集めるに足る土壌となった。
マックス・ゴールドやマックス・グリュンヴァルト、ヨセフ・アイゼンホッフェルがこのクラブのためにプレーし、1925/26シーズンには連続して2度目のトロフィーを掲げた。

国内での成功の後、ハコアは世界で初めてワールドツアーを行ったフットボールクラブとなった。
彼らは、リーグ内での自らの地位を確保する為の資金が必要だった。

また、ワールドツアーは資金繰りだけが唯一の目的だったわけではなく、クラブの「マスキュラー・ユダイズム」へのコミットメントを示す為の機会でもあった。
彼らのスポーツ的勇敢さを世界に示し、当時フットボール界で幅を利かせていた強豪たちに自分たちの力を試す為の機会。

ハコアは、ツアー中にいくつか特筆すべき成功を収めた。
第一に、イングランドのクラブをホームで破った、史上初めてのクラブとなった。ウェストハムを5-1で下したその試合は、後世まで語り継がれている。
オーストリアのメディアは、ウェストハム側がリザーブチームであったことを意図的に隠したが、それにしても偉大なる瞬間であった。

1924年5月には、 当時無敵を誇ったスラヴィア・プラハをホームで破った。
スラヴィア・プラハは10年間、ホームで無敗を続けていた。
(訳注:1905年にスコットランド人のジョン・マッデンを監督に迎えたスラヴィア・プラハはチェコ国内を席巻。マッデンが退団する1930年まで、国内戦169試合中134勝、国際試合429戦中304勝と無類の強さを誇った)
また、ハコアはオーストリアで初めて人工照明の下で試合を行ったクラブとなった。パリでの親善試合のことだった。

ワールドツアーはフットボールクラブとしては前代未聞だったかもしれないが、ハコアにとっては違った。
「ハコア」に所属する水泳チームが、世界的な興行を成功させ、幾つものメダルを獲得していたのだ。

広く流布していた反ユダヤ主義のせいで、ハコアは通常ならざる方法で選手を守った。
当時強豪として知られたハコアのレスリングチームのワールドツアーも同時に行い、時に恐るべきボディガードとして働かせたのだ。

彼らはヨーロッパを横断し、南米、アフリカ、そしてもちろん米国でのツアーも行った。
米国ツアーが、彼らの成功の頂点でもあり、そして破滅の始まりでもあった。

◇◇◇

10試合の興行で22万4千という驚異的な数の人々が、ハコアを見るためにスタジアムに詰め掛けた。
特にニューヨークのポロ・グラウンドで行われた一戦には、世界記録となる4万6千人が押し寄せた。
この記録は50年の間、ペレがニューヨーク・コスモスへ移籍するまで破られることはなかった。

アメリカの観客は新しい経験に魅了された。
聞いたことのないユダヤ人選手だけで構成されたヨーロッパのチームには、何処か骨董めいた魅力があった。
また、プレーの面でもハコアはアメリカ人を興奮させた。
素早い試合展開、美しいパス回しといったヨーロピアンスタイルは、今まで彼らが未経験のもので、多くの支持を受けた。

ニューヨーク・タイムズ紙でさえ、ハコアがアメリカにもたらした新しさについて下記のように報じた。

「ハコアの選手たちが見せた頭を使ってボールを交互に跳ね回らせる流儀は、サッカーが、単にハゲた親父やダービー・ハットをかぶったイケ好かない紳士のためのスポーツというだけではない事を明瞭にした」

ハコアは引き続き、彼らの印象的なパフォーマンスを示しながらアメリカ国内を旅した。10試合通算では6勝2分2敗の成績に終わった。
しかし、時代は終わろうとしていた。
ウィーンの選手たちは、アメリカを愛し始めていた。

反ユダヤ主義から逃れる為、ファーストチームの選手9名がアメリカのリーグへ移籍。
そこにはディフェンダーのベーラ・グットマン訳注:後に監督としてチャンピオンズカップ2連覇を達成サンドール・ネメスといった有名選手も含まれていた。
このため、ハコア・ウィーンの訪米はアメリカサッカーにとって人気回復の為の重要な事件ともなった。
アメリカに残った選手たちはヒーローとして扱われ、彼らの神秘的なヨーロッパ式フットボールはアメリカサッカー界に新たなファンをもたらした。

アメリカ脱出事件後、 ハコア・ウィーンは二度と1920年代中盤のような成功を勝ち取ることはなかった。
オーストリアに戻り、彼らは1部と2部の間を彷徨った。同じ市内にあった最大のライバル、ラピド・ウィーンやオーストリア・ウィーンに挑むだけの力は、もはや残されていなかった。

◇◇◇

アンシュルスの後、ナチスはすぐにハコアを弾圧した。
ファーストチームは完全に閉鎖されるまで活動停止を余儀なくされ、グラウンドやその他クラブ資産は1938年、第三帝国に接収された。

ハコアに所属した7人の選手は、第二次世界大戦を生き延びることが出来なかった。
ハコアの伝説的な主将として名高いマックス・ シュワイヤーはフランスへ亡命し、オリンピック・マルセイユへ加入。そこでかつてのチームメイトだったフリードリヒ・ドネンフェルトと再会した。
ナチスの占領後、ドネンフェルトはユダヤ人狩りから逃れ、レジスタンスに参加した。
シュワイヤーは結局、スイスへの亡命中に逮捕され、処刑された。

オスカー・グラスグリュン、アーンスト・ホロヴィッツ、ヨセフ・コリッシュ、アーウィン、オスカール・ポラック、アリ・シェーンフェルトもまた、ナチスの手で殺害された。
クラブの共同創設者の一人だったフリッツ・ルーナー・ベダは1942年にアウシュビッツで死んだ。
十分に労働していないと収容所の警備員に暴行を受け、その怪我を元に患った病気のためであった。

戦後、ウィーンにおけるユダヤ人人口はほとんど消滅し、クラブは完全に打ち砕かれた。
それでもハコアは4年間の苦闘を重ねたが、結局1949年に自らそのドアを閉めた。それが、クラブの最後であった。

◇◇◇

2000年代になると、アメリカによるオーストリア政府への働きかけにより、ウィーン市内のユダヤ人団体がハコアの旧グラウンド貸借権を得ることに成功した。
 ナチスによるウィーン占領が70年となる節目の日の前日、クラブはマッカビ・ウィーンと名を変えて再始動した。
伝統的なクラブカラーである青と白、そしてダビデの星を掲げながらも、彼らはまだ先駆者の高みへ登ることは出来ず、下部リーグでプレーしている。

◇◇◇

1920年代初頭に行われたドイツツアーの後、さる大新聞では次のように報じられた。

「ハコアは、ユダヤ人が身体的に劣等であるとの御伽噺の息の根を止めた」

ハコアの創設者たちは、結果的に設立当初の「スポーツと運動競技を利用し、ユダヤ人に対するネガティブな見方を変える」という目的を達成することが出来た。

それだけでなく、彼らはフットボール界における国際的なマーケットのあり方をも、永遠に変化させた。

1927年、ハコアがワールドツアーを終えた1年後、 アーストリア、チェコ・スロヴァキア、ウルグアイ、パレスチナ、カナダ、そしてアイルランド各国のクラブが世界ツアーを行った。全て、ハコア・ウィーンの成功に感化されての事だった。

(校了)

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