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不定期の連作として、シレジア地方とフットボールの関わりについて少しずつ触れていきたいと思っています。
今回は、その記念すべき1回目。
◇◇◇
1927年、欧州のトップチームは初開催のミトローパカップを戦っていた。
この大会は現在のチャンピオンズリーグの原型ともなるもので、当時既にプロリーグが発足していたブダペスト、プラハ、ウィーンのクラブが大陸の支配権を争ったのだった。
怒号を上げるウィーンの観衆の前で、最初の大会の覇を唱えたのはスパルタ・プラハだった。
決勝戦の相手はSKラピド・ウィーンだった。
観客席からは石が舞い、ビンが投げ入れられた。
この大会は第二次世界大戦の影響や、1950年代以降のヨーロッパフットボール発展の影で忘れ去られてしまっているが、往時は大陸間の大会として絶大な人気と影響力を持っていたのだ。
◇◇◇
その一方で、すぐ近くのポーランドでは1918年11月11日に休戦協定が結ばれてから国家が再生し、14のクラブが国内で試合をはじめていた。
1926年には統一リーグ設立の機運が高まってきたが、各クラブの後ろ盾にもかかわらずポーランドサッカー協会(PZPN)はリーグ設立案を却下。
1920年代に国内で大きな力を持っていたKSクラコヴィアの会長エドワード・チェトナロヴィツキ博士が同時にPZPNの会長でもあり、その勢力を失うことを恐れた為だった。
結果的に、1927年2月にワルシャワで行われたPZPNの会合の中で、クラコヴィアを除く各クラブがポーランド軍の後ろ盾を得たため、リーグ設立が承認され、1927年3月1日に創設された。
PZPNが統一リーグを作りたがらなかったのは、曖昧な国境線でポーランド領内がどこまでを指すかが目まぐるしく変わる戦況のせいでもあった。
1919年に始まったポーランド・ソヴィエト戦争が行われ、ポーランド軍は近隣諸国・地域との国境線争いを繰り広げた。
1923年に連合国によって実効支配下としてのポーランド領が定められたものの、ピウスツキによる1926年のクーデターなど政情は不安定な時代であった。
そんな中、1920年にPZPN内でもクラクフがいち早く自分たち主催でのトーナメントを開催する。
最初に優勝したのはクラコヴィア、準優勝はヴィスワ・クラクフであった。
翌年、本格的にポーランド内でのトーナメントが開始。そこで初めて優勝したのも、クラコヴィアだった。
クラコヴィアの会長、チェトナロヴィツキ博士は自分たちのチームをスペインへ遠征させ、レアルマドリーやバルセロナとの対外試合を開催。彼の名は、国内をとどまらず大陸間に知れ渡っていった。
◇◇◇
リーグ設立に署名したクラブのリストを眺めていると、特筆すべき名前が目に飛び込んでくる。
そこにはリヴィウの3クラブが名を連ねているのだ。
将来的には、リヴィウはウクライナの支配下に置かれることとなる。
リヴィウは当時、ポーランドにおけるフットボールの一大勢力地であり、国内で初めてスポーツが盛んになった街でもあった。
反対に、後にフットボールが隆盛するシレジア地方からは1.FCカトヴィツェの1クラブのみが名を連ねた。
すぐ後にヴィスワ・クラクフと1.FCカトヴィツェはリーグでも覇権を争うライバル同士となる。
2クラブ間のライバル関係、そしてサポーター同士の敵対心は激しいものだった。
第3回シレジア蜂起の際、両地域は敵味方に分かれて戦いあった。
ヴィスワの主将を務めたセンターフォワードのヘンリク・レイマンは怪物的な選手で、第一次大戦の際にはオーストリア軍として戦場を駆け、ポーランド・ソヴィエト戦争やシレジア蜂起の際にはポーランド側として参戦した。
1.FCはシレジア地方においては、ドイツの少数派を代表しているようにみなされていた。
フットボールの試合は時として、1942年のデス・マッチや、「サッカー戦争」を引き起こした1969年のホンジュラス対エル・サルヴァドル戦を例に出すまでもなく、時代を象徴する強いメッセージとして受け止められることもある。
ヴィスワと1.FCの対戦は、その2試合に比べれば不幸な結果を齎さなかったかもしれない。
しかし当時は、民族の誇りと国家承認をかけた熾烈な争いだと考えられていた。
◇◇◇
1927年9月25日、多くのポーランド人がポーランド史上もっとも重要なフットボールの試合観戦の為にカトヴィツェ西部へと押し寄せた。
もしもヴィスワが勝利すれば優勝が決定する試合だ。
レイマンは「ヴィスワの歴史上最大の試合だった」と述懐する。
選手のラインナップを見ると、新聞紙面が写真で報じたほどポーランドとドイツのライバル関係が明確に浮かび上がってこないかもしれない。
今日のシレジア地方でのフットボールチームと同様、1.FCにはにドイツ人とポーランド人の名前の両方が書き連ねられていた。
試合後、大げさに試合評を掲載した新聞紙を読んでも、どちらが本当に「ドイツの側」なのか判別するのは困難であろう。
しかしながら、明らかなことは、ヴィスワは一地方だけでなく全ポーランド中の応援を集めていたということだ。
スタジアム内の雰囲気はゾッとするものだっただろう。
新聞紙面には「聖戦」「鉄の団結」など独特の言葉が踊っていた。
さらに、前半の内容は恐ろしいものだったことは間違いない。
トップチーム同士の対戦で大量得点差が付くのが稀であるように、前半は0-0で試合を終えたが、1.FCの選手が2名負傷退場させられていた。
主審も明らかに身びいきで、1.FCのストライカー、エルンスト・ヨシュケが素晴らしいゴールを決めたがオフサイドで取り消されてしまった。
10分の休憩後、11人のヴィスワ相手に1.FCは為す術もなかった。
レイマンがミチェスワフ・バルツェルにあげたクロスから1点目が決まり、その後自身でもゴールを上げて2-0となった。
試合終盤では2-0のリードにも関わらず主審はヴィスワにPKを与えたが、1.FCの主将でゴールキーパーを務めたエミル・ゲーリッツ(彼はドイツ人であり、1924年上部シレジア地方出身者として初めてポーランド代表に選ばれた選手でもあった)が抗議のためにチームメート全員をピッチ外へ引き上げさせた。
ヴィスワのキャプテンであったレイマンは、無人のゴールへ向かってボールを蹴り込むだけだった。
ピッチにはすぐに観衆がなだれ込み、主審が警察の保護下へ逃げ込んだ。
試合は73分で終了となった。
ポーランドの新聞各紙は口々に1.FCのリーグ追放を叫び始めた。
PZPNはこの状況を緩和するため、後に1.FCの選手2名(カロル・コソックとオット・ハイデンライヒ)をポーランド代表へ招集したが、ハイデンライヒは自らがポーランド人ではないとして申し出を拒否した。
ヴィスワはポーランドリーグ初の優勝チームとなった。
1.FCは2位となり、結果的にはそれが彼らの歴史上最高の順位となった。
両クラブは、その後数奇な運命をたどることとなるのだが、それはまた別の話で。
(校了)
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