フットボールの話をしよう - スターリン主義の理想郷とアヴァンハルトの幽霊




元ネタ:Stalinist utopia and the Ghosts of Avanhard
FC Stroitel (Budivelnyk) Prypyat


アヴァンハルト・スタジアムは1986年5月1日、スターリン主義の理想郷、そして北ウクライナの新たなる希望の中心地として開場式が行われようとしていた。
ソ連上層部はこの新たなフットボールスタジアムを、新しく地図上に生み出された都市・プリピャチ(その名前は街の近くを流れる川から名づけられたものだ)の発展のための重要な側面と捉えており、小規模だが高度に工業化された地域社会の焦点となるフットボールクラブ、FKストロイチェ・プリピャチのホームグラウンドとなるはずだった。


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にも関わらず、スタジアムは大規模に破壊され、決定的なダメージを負ってしまった。
こけら落としのわずか1週間前、1986年4月26日、午前1時23分の出来事だった。
ウラジミール・レーニン原子力発電所の核反応炉4号機がメルトダウンを起こし、前代未聞の核災害が起こってしまった。
放射性下降物の矮化現象は、およそ40年前に広島と長崎に落とされた原子力爆弾2つの威力を持つエネルギーとなった。

そして、アヴァンハルト・スタジアムは見捨てられ、チェルノブイリでフットボールの幽霊の象徴となった。


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1991年のソ連解体により各地域のフットボールが国境を分断され、選手やオーナーも散り散りとなり、資金がクラブから離れてしまった。
その政治的動乱の4年前、1988年に解散・消滅してしまったウクライナ4部リーグのクラブ、ストロイチェ(ロシア語で建築者を意味する)が創設されたのは1970年代初頭のことだった。
母体となった地元の工場労働者集団は、国家政策でチェルノブイリに連れて来られた人たちの集まりだった。
彼らは当初チェルノブイリに原子力発電所を建造する契約を結んでいたが、プロジェクト終了後も長い期間留まり続けた。

その間、ソ連はレオニード・ブレジネフ第一書記主導の元、核施設の急速拡大路線に乗り出した。開発計画のうちの一つがキエフから北へ50マイルに満たない距離にあるチェルノブイリ区に建造するものであった。
さらにブレジネフは発電所建造と同時に「アトムグラッド」──原子力都市計画を打ち出した。

これらの施策はブレジネフの主導の元に行われてはいたが、そもそもヨシフ・スターリンがロシアと周辺諸国に跨るソヴィエト連邦を共産主義者たちの理想郷として広く知らしめる為に発案したものであった。
マルクス・レーニン主義の中心的な様相の一つ(少なくともスターリンにとっての)は、共産主義を文明化の理想形であることを見せしめるということだった。



最初のアトムグラッドは、南ウラルのチェリビンスクに近い位置にあるオジョルスク(又の名を「シティ40」)に作られた。
オジョルスクはソ連国内の原子物理学の中心地だった。
このプランはアメリカが初めての原子爆弾を広島に投下したというニュースで就寝中だったスターリンが飛び起きたその日のうちに、ほぼ一晩で考案された。
ロシア原子エネルギー企業のメンバーでオジョルスクの住民だったウラジミール・クズネツォフは後年この街のことを「全体主義国家の中の全体主義国家」と述懐した。オジョルスク出身でない人間へは、ソ連国民であっても分け隔てなく排他的な空気が漂っていた。


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プリピャチは地図にも載っていない秘密都市であったが、住民達は全体主義のルールからは解放され、FKストロイチェ・プリピャチは(表現として矛盾しているようだが)「有刺鉄線の中の自由の象徴」と考えられていた。

ストロイチェは、元々近隣の村に存在した地元のアマチュアチームを土台として、移住してきた技術者達が資金を供出し合って設立された。都市の住民が5万人を超えた頃だった。
結成時のチームキャプテンは、母体となったアマチュアチームに所属していたヴィクトル・ポノマレフが務めた。
後にオボロン・キエフやフットサルの監督となり、殿堂入りも果たすことになるスタニスタフ・ホンチャレンコが1979年に加入し、2年間プレーした。

1970年代後半になるとストロイチェは地域リーグを支配し、1981年にはソヴィエトトップリーグから数えて3部リーグに当たるKFKチャンピオンシップへ昇格。
1981年から84年の間の3シーズンをそれぞれ5位、8位、6位で終え、アマチュアチームとして名声を高めていったものの、結局プロライセンスを得ることはできなかった。
優勝に最も近づいたのは1984-85シーズンのことで、FCネフチャニクと熾烈な争いを繰り広げたが、結局4ポイント差の2位でシーズン終了の笛を迎えた。

この偉業達成により、ストロイチェは完成したばかりの5,000席を備えるアヴァンハルト・スタジアムへのホーム移転を勝ち取った。
しかし、彼らがスタジアムのピッチを足で踏みしめることはなかった。


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1986年4月26日にチェルノブイリで行われたシステムチェックの最中、原子炉内の蒸気ボイドの欠陥構造が水量減少を引き起こし、核反応炉4号機に指数関数的な電圧上昇が認められた。
結果気圧上昇により原子炉容器に破裂発生。燃料制御棒が破砕、炉心が過熱状態となり激しい蒸気爆発で反応炉の黒鉛減速材が酸素に曝され、原子炉から発火が起きた。

この炉心溶融によって二度の大きな爆発が発生し、およそ4000億ジュールものエネルギーを持つ核的エクスカーションで施設の大部分が破壊され、その時施設内で働いていた31人全員が死亡した。

放射性物質が上層大気へ舞い上がり、炉心周辺では30,000レントゲン毎時の放射線量を計測し、大規模な環境破壊を誘発した。(参考までに、人間の致死量が100レントゲン毎時と言われている)

この大惨事は世界で起きた史上最悪の核災害となり、国際原子力事象評価尺度でレベル7に分類されている。

ゴルバチョフ大統領が1996年当時語ったところによると、核汚染阻止のためにソ連は180億ルーブルを費やし、50万人が労働に従事したという。


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4月26日、アヴァンハルトでは若いストロイチェのファンへのお披露目のために、開場式よりも一足早くトーナメント戦となるキエフ・カップ準決勝の試合の予定が入っていた。
爆発の影響で試合前イベントは中止となったものの試合自体は予定通り開催されようとしていたが、キックオフ前、放射線防護服に身を包んだ兵士たちがヘリコプターからスタジアムへ降り立ち、試合の延期を発表した。
皮肉なことに、ストロイチェと対戦する予定だったチームが自動的に決勝進出を認められ、キエフ・カップのタイトルを勝ち取ることとなった。

メルトダウンから36時間後、プリピャチ地区の住民と生き延びたチェルノブイリの労働者達は避難を開始。彼らが家に戻ることは二度となく、ストロイチェ・プリピャチも解散した。
ポノマレフやアレクサンドル・ヴィシュネフスキを含む何人かの選手たちは50万人を巻き込んだ除染活動のメンバーとなったが、それ以外の大多数の選手はドニエプル川から東へ30マイルほど行ったところにあるスラブチッチへと移住し、FKストロイチェ・スラブチッチを結成した。

プリピャチの都市閉鎖が原因で避難民達は新しい場所に移住したにも関わらず、かつての自分たちのチームの新しい姿を目撃することが出来なかった。
ヴィシュネフスキとポノマレフは新たなチームに加入した。1987年に3部リーグを3位で終えた実力あるチームだったが、1988年には8位となり、経済的問題と健康面での困難が立ちはだかった結果、チームはシーズン終了後に解散した。

ストロイチェと同じような規模のソヴィエト下部リーグに所属していた中小クラブは、今まさに旧ソ連時代のチームが経験しているような経済的失敗を先んじて長い間味わってきたが、チェルノブイリを味わったクラブはストロイチェを除いて存在しない。


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プリピャチという都市の形成は、前述のオジェルスクと同じように、元々存在する都市を近代化して工業都市とするのではなく、荒れ地に新たな都市を作ろうとしたソ連国家主導の実験であった。
チェルノブイリ計画は1970年代においては数あるアトムグラッドでも最も野心的なものだったが、同じようにマグニトゴルスク(マグネティックマウンテン=磁石鉱山の意)も印象的だった。

マグニトゴルスクは1930年代のスターリン政権下で初めて作られた共産都市だった。
元々存在していた小さな村を鉄鋼供給のための拠点としてデザインし、多くの肉体労働者を移住させた。
ソヴィエトの成功の見本のような鉄鉱床であり、工場の生産力は西欧列強諸国のライバルたちに比肩するものだった。
周辺都市は、未だにロシアでも2番目の規模を誇っている。

ドイツ人建築家のエルンスト・マイを始め、数多くのスペシャリストがこの街の設計に携わるために外国から訪れている。
都市計画によれば、街路は直線的に設計され、工場街に隣接してスーパーブロックが設けられ緑地帯も設置される予定だったという。
居住区画と労働区画を一直線にすることで、移動時間を最小化することが目的だったようだ。
労働者が生活も仕事も同空間で行える新しい都市は工業化の成功を高らかに謳ったが、同時にスターリン主義文化の矛盾も体現してしまった。第2次世界大戦中は赤軍の重要拠点となったが、最終的には強制収容所として扱われ、閉鎖都市となった。

プリピャチはマグニトゴルスクと似たような境遇で設計された街だったが、住民にはストロイチェとチェルノブイリへの誇りがあった。
彼らの誇りは遺産となり、建築者達はアヴァンハルトを建造した。

発電所爆発は地元のフットボールクラブの崩壊も引き起こした。
今ではアヴァンハルト・スタジアムは北ウクライナにおけるスターリン主義の理想郷として見做されているが、それに加えプリピャチに於けるフットボールの幽霊を想起させる禁欲的なリマインダーとしても作用している。
スタジアムを永遠に使うことのなかった持ち主よりも、スタジアムそのものが生き永らえているという、その事実によって。

チェルノブイリのドラマは、そこに住んだ人間たちにとっての悲劇だっただけでなく、スポーツ文化に於ける大きな出来事でもあったのだ。


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もし4号機の爆発がなければ、ストロイチェはキエフ・カップのタイトルを獲得してプロライセンスを取得していたかもしれない。
だが、彼らは自身が引き起こしたものではない不可避の過ちによって、ソ連フットボール史の水面下へと消え去ることとなってしまった。
プリピャチに於けるフットボールは、偉大な都市や発電所、そこに住む人々と共に姿を消した。


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街の大部分がホラー映画のセットと酷似しているが、荒廃したスタジアムのスタンドや芝が生い茂るピッチは、退廃した広大な土地にポツンと一人佇む美しさを湛えている。
フットボールの見方は様々だが、伝統的なフットボールの見方を持つものの目には、アヴァンハルトは核災害に対する大きな警鐘であるように映るだろう。

プリピャチはその他の偉大なアトムグラッドと同じように、元々は何もなかった。
スターリン主義者のための理想郷という空想によって住民が揺り動かされ、地域のフットボールが発展してきた。
しかし今ではフットボールは、既に終わってしまった理想郷の空想よりも長生きをしている。


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チェルノブイリは今では学生の旅行者が訪れるべき中心地となり、数多くの怖いもの知らずや探検者たちも世界中からこの見捨てられたスーパーブロックへ足を運んでいる。
象徴的な観覧車をじっと眺め、アヴァンハルトへも来るかもしれない。
地元のツアーガイドは「2012年のユーロ決勝はここで行われたのさ」と嘯く。
こういったダークユーモアは、チェルノブイリではあまり聴かれない。

ウラジミール・クリチコは「私達が何者かという問いへの最も易しい答えは『私たちはチェルノブイリのこどもたち』というものです。私たちは父親を亡くしました。チェルノブイリは私の人生の一つです。不幸なことに、多くの命の一部ともなってしまいましたが」と言う。

二人のクリチコ(ウラジミールとビタリ)やアンドレイ・シェフチェンコオルガ・コルブトらウクライナのスター選手たちは、チェルノブイリのこどもたちというだけでなく、ストロイチェのこどもでもある。


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フットボールの崩壊よりも現実的に、チェルノブイリでは直接的な爆発で31名が亡くなり、閉鎖エリアでは多くの人々が放射性物質の被害に遭っています。
悲劇から30年、もっとも重要なことは全ての犠牲者へ敬意を表することです。
これまで犠牲になり、そしてこれからも困難と向き合う方たちへ祈りを捧げます。

(校了)

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