フットボールの話をしよう - ナゴルノ・カラバフのフットボール難民


時にフットボールは、忘れ去られた記憶を掘り返す装置としても機能します。
歴史の亡霊が、私達を忘れないでと土地にしがみついてその名を見る者の心をかき乱します。まるで忘れな草のように。

今年2016年で戦争勃発から25年を迎える、ある地域のフットボールに関するお話。

元ネタ:Offside – Football in Exile in Nagorno-Karabakh


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ナゴルノ・カラバフ地区の地政学的な衝突は今では多くの人が忘れ去ってしまったものだ。
1991年から1994年の間に行われた戦争ですら、西側諸国の関心を得ることは殆どなかった。
今日でも、アゼルバイジャンとアルメニアの両国合わせて120万人もの難民が、凍結された時の落とし子として残されてしまっている。


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近年UEFAヨーロッパリーグで強豪クラブと対戦することもあるFKカラバフ・アグダムがどんなクラブが問われた時、殆どのフットボールファンが自分たちの愛して止まないクラブの対戦相手について何も知らないということに気付かされるだろう。
とりわけ、彼らがゴーストタウンからやって来た難民たちのクラブだったということは。

2010年にはドルトムントとプレーオフを戦い、2014年にはグループステージに勝ち進んでインテルと、さらに2015年にはチャンピオンズリーグ予備戦でセルティックとも対戦している。
彼らは仮初めの本拠地で、ヨーロッパの強豪クラブとしての地歩を着実に築き始めている。

FKカラバフ・アグダムはアゼルバイジャンのフットボールクラブで、現在は首都のバクーでプレーしているが、彼らのホームタウンであるアグダムへの帰還を切望している。
アルメニアとのナゴルノ・カラバフ戦争の間でさえ、本拠地だったアグダムの下町にあったイマラト・スタジアムにはホームゲームの際は満員になったが、1993年にカラバフ・アルメニア軍がアグダムを占拠してからは見棄てられた建造物となった。

クラブは生き残り、アゼルバイジャン国内に散らばった50万人以上の難民たちにとっての希望と誇りの象徴となった。難民たちの多くは、未だ国境線からさほど離れていない暫定居留地で暮らしている。アゼルバイジャン政府とアルメニア政府は20年以上に渡って最終的な平和解決策を話し合っているが、武装を解くには至っておらず、国境線沿いでは一般市民も含めて年間30人以上が狙撃手の銃弾で命を落としている。


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アゼルバイジャン人とアルメニア人は現在では強烈な敵対感情を持っているが、それはナゴルノ・カラバフに起因するものである。しかしながらコーカサスの山間地域は両国民が平和的に同居する場所ともなっている。
共産主義政権が発足した1922年以降、その地域はアゼルバイジャンSSRの一部となったが、国境線はアルメニア系住民の多く居住する場所に引かれた。その後、この地域は歴史的にはアグダムを首都とするアゼルバイジャン人側の平地カラバフクルディスタン郡、そしてアルメリア人が自治権を持つナゴルノ・カラバフへと分割された。

ナゴルノ・カラバフではアルメリア人がFKカラバフ・ステパナケルトを1928年に設立し、1951年にアゼルバイジャン人がFKカラバフ・アグダムを創設。およそ25kmの間の岩だらけの道を挟んだ地元チーム同士は、その歴史的な背景から鑑みても激しいライバル関係が醸成されるように思われた。
しかしながら、当初は両チームの間に熾烈な戦いは存在しなかった。80年代半ばまでは、両チームが親善試合を行う際に必ずホームチームが食事を振る舞う文化があったほどだ。この両チームの関係は、非常に自然なものだった。


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1988年にナゴルノ・カラバフ戦争が勃発すると、FKカラバフ・ステナパケルトはフットボールを中断し、地域を守るために武器を手にするようになった。アグダムでは、危険な状況ながらFKカラバフ・アグダムがフットボールをプレーし続けていた。
1991年2月にホジャリ大虐殺が起きた際には、怒りに震えたFKカラバフ・アグダムの選手たちが軍部の指揮官に自分たちを最前線に送るよう懇願したが、指揮官はこう答えたという。

「絶対に行かせない。君たちの仕事はフットボールをプレーし続けることだ。試合のお陰で、人々は最悪な状況の中、週に一度の生きる活力を得ることができるのだ。フットボーラーは戦ってはいけない」

1992-93シーズンが開始された。アゼルバイジャンの国内リーグは創設されて2シーズン目を迎えたが、FKカラバフ・アグダムは優勝候補の一つだった。
後にアゼルバイジャン代表の主将にまで上り詰めるアスラン・ケリモフがトップデビューを果たしたシーズンでもあった。この10代の若者は、青いラーダがクラブより支給されることの見返りに、戦地でのプレーを承諾したのだった。

FKカラバフ・アグダムはこのシーズン、最初の1戦を除く全てのホームゲームに勝利したが、山間からスタジアム付近へのミサイル爆撃の影響で何試合かの中断を余儀なくされた。6月にはカップ戦に勝利し、クラブとして初めての栄冠を手にした。
そして1993年8月1日、彼らは初のアゼルバイジャンリーグタイトルを獲得した。

しかし、その頃にはクラブはバクーへの退去を強いられており、アグダムから届いた悲しいニュースがその歴史的な偉業の輝きを濁らせてしまった。アグダムが2週間前にアルメリア軍に占拠されたと選手たちに知らされたのは、試合の2日前だった。
ほとんどの選手たちは試合後、家族や友人を探すためにアグダムへと急ぎ戻った。


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12年後、アゼルバイジャン側の難民キャンプは撤去され、残された数少ない家族が貨物列車の中での生活を行っている。運の良かった者は政府から新しい居住地としてプレハブ小屋を貸与されている。
この陳腐な施策には難民たちの薄暗い精神を和らげる効果はほとんど期待できず、新たな住居のみが数千人もの難民に対する最も的確な解決策であろう。

難民収容施設には、未だ職を持たず、未来への光明が閉ざされた多くの住民が退屈な日々を過ごしている。人々はフットボールへの希望、90分間の喜びを渇望し、その間には現実逃避的な考えが蔓延している。

2009年まで、FKカラバフ・アグダムはバクーから国境近くの難民収容施設までのバスを毎週運行し、そこに住むサポーターたちを試合に招いていた。
2009年5月、FKカラバフ・アグダムはアグダム地区に戻り、政府によって建造された新たなホームグラウンドでリーグ戦を3試合行った。数週間後には再びその場所で試合を行い、国内カップの優勝杯を掲げた。そして、翌シーズンのヨーロッパカップ予備戦への出場権を手にした。


彼らは2009-10シーズンのヨーロッパリーグ予備戦1回戦でノルウェーのローゼンボリと対戦。30,000人のサポーターの前でセンセーショナルな1-0での勝利を飾った。キャプテンの腕章を巻いていたのは、アスラン・ケリモフだった。
13シーズンをクラブで過ごしたケリモフは、FKカラバフ・アグダムといクラブの縮図となっていた。彼は1994年に代表初キャップを飾ると、その後75試合に出場し、代表キャプテンの栄誉にも浴した。1993年に同じチームでプレーした選手たちは既にコーチや裏方となっていたが、きついタバコとアゼルバイジャン産のお茶、そして数多くの思い出とともに、ケリモフはカラバフの競走馬と同じ強靭さを手に入れていた。

2009年から2012年の間、FKカラバフ・アグダムはヨーロッパリーグで印象的な活躍をした。2010-11シーズンには、ヴィスワ・クラクフを破った後ボルシア・ドルトムントと対戦した。威圧的な雰囲気のヴェストファーレンで、ケリモフはベンチからチームが4-0で敗北するのを見つめていた。
コーカサスから数千マイルも離れてはいたが、ヴェストファーレンのズュート・トリビューネスタンドに翻る3万本ものアルメリア国旗は彼らを燃え上がらせた。


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その一方で、FKカラバフ・ステナパケルトの運命は別の道を辿った。
戦争の結果誕生したナゴルノ・カラバフ共和国では、UEFAやFIFAがプロフットボールの試合開催を禁止した。したがって、フットボールは学校で行われる競技となってしまった。
毎年のように、未承認のナゴルノ・カラバフ共和国フットボール協会がアルメリアリーグへの参戦を要望したが、FIFAに拒絶されてしまった。

FIFAやUEFAが政治的緊張から距離を置くのは日常的なことではあるが、UEFAが2008年ユーロ予選でアルメリアとアゼルバイジャンを同じ組に入れた後、両国は安全面での対策や中立地での開催について激しく議論し合った。
事前の合意なくUEFAは突如試合開催を中止し、両国には2試合分の勝ち点なしという裁定が下された。

2012年のユーロ予選では、UEFAは予め敵対する国同士を同じグループへ編入することを避ける決断をしたが、FIFAは2014年ワールドカップ予選で、ロシアとジョージアを同じ組にするという失態を犯した(両国は2008年の交戦以降関係が悪化していた)。


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再びカラバフ・ダービーが行われる見込みは遠い未来のように思える。それは希望的観測かもしれない。

しかし、フットボールの持つ団結の力は、分断の力よりも強いはずだ。
フットボールがある限り、希望はある。そう信じたい。

(校了)

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