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フットボールとシレジア地方に関する不定期連載、第2回目。
【第1回】フットボールの話をしよう - ヴィスワ・クラクフと1.FCカトヴィツェ ~ポーランドを分けた戦い~
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元ネタ:Lukas Podolski and the Complex Identity Politics of Upper Silesia
EUにおける最大の大都市地域は上から数えてロンドン、パリ、マドリード、ルール地方、ベルリン、バルセロナ、アテネ、ローマ、ハンブルグ、ミラノとなっている。意外にも次点の11位が270万人を抱える、カトヴィツェとその近郊の工業地帯であることは知られていない。
この地域は、現在「メトロポリア・シレジア」(GZM)への新たなる転身を目論んでいる。
石炭と鋼鉄によって現在も栄えているまさにこの場所で、後にドイツフットボールの看板となるルーカス・ポドルスキが誕生したのだった。1985年のことである。
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ポドルスキが2歳の頃、彼は両親と共にドイツへ移住した。ポーランドの経済不況は当時、絶頂に達していた。
ポーランド人民共和国政権は元々西側諸国から度重なる借金を続けていたが、1980年代に入ると
各国がポーランドへの信用貸付を拒否。高インフレ、貧困、国内に蔓延するデモの気運など最悪の社会状況だった。
ポドルスキは家族がグリヴィツェに縁があり、ドイツ市民権取得に成功した。
ポーランド語でグリヴィツェと呼ばれる都市はドイツ語ではグライヴィッツといい、1945年までドイツの統治下にあった。国境付近にあるグリヴィツェは、二次大戦の折にはドイツのポーランド侵攻の引き金を引いた事件の起きた街でもあった。
上部シレジアの歴史ある都市、オポーレ出身のミロスラフ・クローゼと同様、ポドルスキもまた生を受けた国であり言語を自在に操れる、ポーランド代表を選択しなかった。
クローゼは自らのアイデンティティについて言及する際、ドイツ人やポーランド人と表現するよりヨーロッパ人という言葉を多く使う。ポドルスキは、心の中に2つの心臓の鼓動が聞こえると話す。
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歴史的に工場労働者の文化が根付く上部シレジアは、多くのドイツ人やポーランド人、ユダヤ系住民にとっての生まれ故郷となっているが、この地域の特性はシレジア語とシレジア文化によって規定されている。
シレジア語が自言語であるかポーランド語の方言の一つであるかは大きく議論の別れるところではあるが、いずれにせよ純粋なポーランド語話者には解しづらい言語であり、ドイツ語訛りが強く現れている。
他の大多数のポーランド人とは異なり、シレジア人達はポーランド語を強烈なアクセントで喋る。ポドルスキのポーランド語は、スティーブン・ジェラードやクレイグ・ベラミーの英語と同様にクセのあるものだ。
共産政権が崩壊した1989年以降、シレジア地方復興の気運が高まってきた。それにつれ、自らをポーランド人としてではなくシレジア人と考える住民も増えてくるようになった。
シレジア地方の住民たちは、自分たちが今まで受けてきた見返りよりも国に対して多くの貢献を行ってきたと考えており、にも関わらずワルシャワ政府から無視され続けてきたことに不満を覚えていた。この状況はスペイン国内でのカタルーニャ地方やバスク地方、英国でスコットランドに萌芽する極めてローカルなナショナリズムと状況が酷似しているのだが、近年になって政治、そしてフットボールの世界にも影響を及ぼしている。
過去50有余年もの間ポーランド代表のホームゲームが行われてきたシレジア競技場を持ち、国内で最も優れた交通網が敷かれているにも関わらず、シレジアではユーロ2012が開催されることは無かった。
グダニスクやポズナン、ヴロツワフといった都市の知名度を観光者が訪れる目的地として向上させ、ユーロ開催を機にシレジア地方以外の都市の交通網整備を行いたいというポーランド側の目論見は理解できないものではない。
しかしそれを念頭に置いた上で、上部シレジアの住民たちにとってより失望する結果となったのは、カトヴィツェが精力的に招致活動を行っていたにも関わらず、2016年の欧州文化首都に選ばれなかったことであった。選ばれたのは、ヴロツワフだった。
近年、野党である法と正義の党首ヤロスワフ・カチンスキにより、国勢調査でシレジアのナショナリティを表明する者は自らをポーランドから切り離し、親独感情をカモフラージュしているのだという批判がなされた。この発言は大きく裏目に出ることになり、2002年には173,000人に留まっていたシレジア人の自己宣告者が、2011年の国勢調査では800,000人以上と大きく増加した。
さらに、ルフ・ホジューフのサポーターは「To My Naród Śląska(我らシレジア国)」やドイツ語で上部シレジアを指す意味する「Oberschlesien」と書かれた横断幕を掲げ、自らのアイデンティティを誇示し続けている。
彼らは地元ライバルチームのグールニク・ザブジェとともにポーランドフットボール史上最も成功した強豪クラブの一つである。
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ルーカス・ポドルスキが自らのポーランド人としての出自を強調することで失うものは何もなく、得るものは多い。彼はポーランド国内外で絶大な人気を博し、広告やCMに頻繁に出演。自身の公式ホームページもドイツ語、ポーランド語、英語版が用意されている。
しかし彼がポーランド代表ではなくドイツ代表を選択したことを裏切りと看做すポーランド人も多い。特に彼がユーロ2008でポーランド相手に決めた2ゴールは、その敵対感情に拍車を掛けている。ポドルスキはその2ゴールを決めた後のゴールセレブレーションを行わなかったのだが。
歴史を繙くと、シレジア人のストライカーだった偉大なるエルンスト・ヴィリモフスキをその先達として挙げることができる。1938年のワールドカップでポーランド代表としてブラジル相手に4得点を決め、英雄となったヴィリモフスキだったが、第二次世界大戦でドイツに亡命した。多くのシレジア人と同様、彼も終戦後帰国することを許されなかった。
保守派のポーランド人によってシレジア人は未だに疑いの目で見られている。彼らの中には、シレジアの自治権を求める運動をドイツ側の陰謀と考える者もいる。
しかし、シレジア独立運動(RAŚ)が1.FCカトヴィツェを復活させたことを考えれば当然かも知れない。1.FCはポーランドリーグ創設時の13クラブの内の1つであり、多くのポーランド人からはもっぱらドイツ側として認識されていたのである。
(※この辺の流れは、【第1回】フットボールの話をしよう - ヴィスワ・クラクフと1.FCカトヴィツェ ~ポーランドを分けた戦い~をご参照ください)
1920年代にはポーランドのナショナリズムの象徴であったルフ・ホジューフが、今ではシレジア独立運動の旗頭として立ち回っていることも、この複雑な状況に火を注いでいる。
最も有名なシレジア人でありグールニク・ザブジェの大ファンであるポドルスキはポーランドのアイデンティティを強調し、しかし代表はドイツを選択した。皮肉にも、この複雑に入り組んだ帰属意識の隘路を象徴してしまっている。
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ポーランドが共産化された1952年から1989年までの47年間、シレジア地域のクラブは24度のリーグ優勝を飾り、文字通りポーランド国内を支配していた。
1988-89年シーズンには上位3チームをルフ・ホジューフ、GKSカトヴィツェ、グールニク・ザブジェとシレジア勢が独占していたが、彼らはそれ以来タイトルから遠ざかってしまっている。
かつては栄華を誇ったシレジア地方のフットボール衰退の歴史に逆流するかのように登場したルーカス・ポドルスキは、ドイツ代表を選択した。
シレジアを取り巻く複雑な状況を踏まえれば、彼の決断は驚くに値しないのかもしれない。
(校了)
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