とあるフットボーラーの肖像 - 忘れられた天才、ヴヤディン・ボシュコヴ (後)



忘れていた宿題。3年ぶりに、後編を。

前編: とあるフットボーラーの肖像 - 忘れられた天才、ヴヤディン・ボシュコヴ (前)


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ジェノアでは、この地域におけるライバル関係で相手よりも優位に立つ事を目的としてフットボールをプレーしなければならない。それ故にジェノア・ダービーはイタリア国内でもっとも熾烈な争いである。
特にこのシーズン、サンプドリアだけでなくジェノアも才能豊かなオズヴァルト・バニョーリ監督に率いられ、トマーシュ・スクラビーカルロス・アギレラといった豊富なタレントを抱えて好調を維持していた。
彼らもまた、このダービーでの勝利を強く求めており、その決意は獰猛なタックルや苛烈極めるプレッシングとなって現れた。

前半45分を完全に支配したジェノアは、アギレラのバックフリックからステファノ・エラーニオによる得点で試合をリードした。
後半になって与えられたペナルティをジャンルカ・ヴィアリが決め、一時は同点となったが、ジェノアの勢いが収まることはなかった。
最終的にはブランコが彼のトレードマークでもあるすさまじいフリーキックを決め、ジェノアが勝利した。

ボシュコヴは試合前、この試合は単に通常の試合のひとつでしかないという見解を示していた。
敗戦後、ジャーナリストから意見を求められた際も、冗談交じりにこのように答えた。

「いいや、この試合は他の試合とは違う。この試合で我々は敗北したが、他の試合では勝っているからな」

しかし、結果的にボシュコヴはこの敗戦の影響を軽視していた。
チームに疑念という名の不協和音が走り、このすぐ後に2連敗を喫した。ホームでインテルに、アウェーでレッチェに敗れたのだ。
ダービーの前にはリーグ首位を走っていたが、前半戦終了時には勝ち点2差でインテルの後塵を拝し、2位へと転落した。


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しかしながら、潮目はすぐにサンプドリアへと戻ってきた。インテルが少し躓くと、サンプドリアはすぐに彼らの後ろ髪を掴んだ。
2ヶ月間にわたり、両チームはまったく同じ勝ち点を積み重ね続けたが、インテルがパルマに引き分けを許すとサンプドリアが優位に立った。そしてその後、彼らは二度と追い抜かれることはなかった。

重要な試合となったのは5月5日にサンシーロで行われたインテル戦だった。
勝ち点1でサンプドリアを上回るためにインテルは勝利が必要だったが、試合が進むにつれ、彼らは最後のチャンスが去ったことを悟った。
サンプドリア側の目的はただひとつ、いかなるゴールも喫さないことだった。
ボシュコヴと選手たちは、喜んでインテル側にポゼッションを明け渡した。インテルは好きなだけボールを持ち、パスを交換することが出来たが、タイトに守られた8人の守備網の間からはいかなるチャンスも生み出すことが出来なかった。

サンプドリアがボシュコヴの支持に完全に従順だったわけではない。
彼らは熟知していた。アッティリオ・ロンバルドの驚異的なスピードにヴィアリやマンチーニの創造性が加われば、敵に脅威を与えることが出来ると。

前半終了時、マンチーニがインテルの主将を務めたジュゼッペ・ベルゴミと口論になり、両者が退場した。この事件がインテルの選手たちをより強く勝利へ駆り立てたが、それでもこの日は彼らの日ではなかった。
サンプドリアのゴールには神懸かったジャンルカ・パリュウカが立ち塞がり、マテウスのペナルティキックを含むあらゆるゴールを防いだ。
ジュゼッペ・ドッセーナによるシーズン最優秀ゴールで先制していたサンプドリアは、ヴィアリが2点目を決めた。どちらもカウンターからの攻撃によって生まれたものだった。

レフェリーが最後の笛を吹くと、サンプドリアの選手たちはまだリーグ戦が残っているにも関わらず、まるでこの試合で優勝が確定したかのように祝い始めた。
最終的には、そうなったのだが。

インテルはサンプドリアから勝ち点5差に引き離され、両チームの間隙をすり抜けてミランが勝ち点4差の2位に躍り出た。
サンプドリアは冷静に対処し、結果をコントロールしなければならなかった。
次節のトリノ戦で引き分けを喫しミランに紙一重で迫られたが、翌週ミランがバーリに敗北すると、サンプドリアはホームでレッチェに3-0の勝利を収めた。

少人数のスカッド、そして比較的高齢の選手層でありながら、ボシュコヴは他の人間には不可能な仕事を成し遂げて見せたのだった。


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不可能の達成は、翌シーズンにも求められた。
セリエAの連覇はいかなる場合でも難しい仕事であったが、チャンピオンズカップはまた別の話だった。
イタリア勢が欧州を席巻していた全盛の時代、サンプドリアのようなヨーロッパでの歴史を持たないチームであっても、チャンピオンズカップの優勝候補のひとつに数えられた。

第1ラウンドでローゼンボリを、第2ラウンドでブダペスト・ホンヴェードを下すと、サンプドリアはグループステージへと駒を進めた。
このシーズンのチャンピオンズカップのフォーマットは、二つのグループの首位2チームが決勝へと進出するというものだった。

グループAに組み入れられたのはサンプドリア、レッドスター・ベオグラード、アンデルレヒト、パナシナイコスの4チームだった。
いずれも強豪クラブだが、特にレッドスターはミオドラグ・ベロデディチヴラディミル・ユーゴヴィッチダルコ・パンチェフデヤン・サビチェビッチ、そしてシニシャ・ミハイロビッチら綺羅星のごとき才能あふれる選手たちを抱えたすさまじいチームだった。
ユーゴスラヴィア人のボシュコヴにとっては過去との邂逅であり、現役時代に彼の前に立ち塞がった大きな壁でもあった。

レッドスターとの初戦をホームで勝利したサンプドリアだったが、次に相見えた5節時点では、レッドスターと勝ち点1差の2位となっていた。
レッドスターのホームゲームとなる試合は、ブルガリアのソフィアに位置するバルガルスカ・アルミア・スタジアムで行われた。ユーゴスラヴィアの不安定な政情により止むを得ずUEFAが下した決断だった。

試合前半は悲惨なものだった。トニーニョ・セレーゾを欠いたサンプドリアは試合のリズムを作ることが出来ず、ミハイロビッチが猛烈なシュートを放ちレッドスターが先制すると逆転は不可能であるかに見えた。
しかしボシュコヴはこの状況にうまく対処した。戦術的には、組織を整備してパンツェフにペナルティボックスの中で自由に仕事をさせないように守備を立て直した。
それ以上にすばらしかったのは、それが彼の監督としての最大の特徴とも言えるのだが、チームを精神的に団結させたことだった。34分に決まったカタネッツのゴールは、ボシュコヴが喝を入れた選手たちの自信をより強くした。

前半のうちに逆転に成功すると、後半にはさらに1点を重ねて勝利した。

次節、レッドスターがベルギーで敗戦を喫すると、サンプドリアはウェンブリースタジアムで行われる決勝への進出を決めた。


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グループBを勝ちあがってきたバルセロナはヨハン・クライフ監督に率いられてはいたが、その時点ではまだ欧州の主要なカップ戦で勝利を収めたことがなく、現在のようにスター選手軍団でもなかった。
しかしながら、ミカエル・ラウドルップアンドニ・スビサレッタロナウド・クーマンフリスト・ストイチコフ、そして若きペップ・グアルディオラが名を連ねていた。

ピッチ上で、両チームは互角に渡り合った。ヴィアリはすばらしい決定機を2度作り出したが、彼に似つかわしくもなく決めることが出来なかった。ストイチコフもシュートをゴールポストに当て、得点を逃していた。お互いに最後の決め手となる瞬間が訪れることはなく、試合は延長戦に突入した。
試合はよりタイトなものとなり、誰もがPK戦での決着となることを予感した。
ボシュコヴは自軍のキーパー、パリュウカに絶大な信頼を寄せており、PK戦になれば勝機はあると考えていた。

しかし、運命は突然動き出す。
延長戦終了の8分前、サンプドリアのジョバンニ・インヴェルニッツィがボールに倒れこみ、手で触れてしまった。バルセロナ側の選手、エウセビオに押されてしまったように見えたが、主審はその決定的なシーンを見ておらず、バルセロナに間接フリーキックを与えた。

キッカーのクーマンが、ボールをペナルティエリアのわずか外に置く。
サンプドリアの選手たちはシュートに備えた。
程なくしてレフェリーがホイッスルを鳴らすと、彼らは全力でボール目掛けて突進した。
鋭く振り抜かれたクーマンの右足から放たれた地を這うようなシュートは、あまりにも直線的に、あまりにも強く低い弾道を描き、ボールは壁の間をすり抜けた。
そして、跳躍したパリュウカの手に収まることはなかった。


この瞬間、サンプドリアとボシュコヴの夢が砕けたのだった。


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ウェンブリーでの敗戦は、サンプドリア崩壊の予兆でもあった。

マンチーニは残留の意志を固めたものの、ヴィアリはより大きな栄光を求めてユヴェントスへ旅立った。パリュウカもインテルに移籍することとなった。
代わりの効かない選手を失い、多くのベテラン選手達を抱え、サンプドリアが選んだのは若手選手への投資だった。一度掴んだ栄光を、改めて創り出そうと考えた。

チームの再構築という大きな仕事への情熱を失っていたボシュコヴもまた、チームを去ることを決めた。彼が次に選んだのは、ローマでの仕事だった。
ローマは大きな野心を抱いていたが、ボシュコヴは複雑に縺れ合ったドレッシングルームの空気を癒すことは出来なかった。結果的に7位に終わったシーズンの後、ナポリで2シーズン指揮を取り、スイスのセルヴェットへ移った。

1997年にはセサル・メノッティによる壊滅的なスタートで危機に瀕していたサンプドリアへ舞い戻った。
ボシュコヴはクラブの再生を心に期していたに違いないが、結果的にそれは叶わなかった。
1993年10月14日に、かつての同志であったオーナーのパオロ・マントヴァーニが急死してから、クラブはかつてのクラブでは無くなってしまった。マントヴァーニの息子が跡を継いだが、野心は失われていた。

1998年、彼は再びサンプドリアを去った。
監督業への情熱はその後も、ペルージャやユーゴスラヴィア代表へ費やされはしたが、終にかつての高みへ登る事は決してなかった。


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ボシュコヴは2014年、長年患っていた病により、82歳でこの世を去った。
終の棲家は彼がキャリアをスタートしたヴォイヴォディナの首都である、セルビア北部のノヴィ・サドだった。
ユーゴスラヴィアをはじめ、スイス、オランダ、スペイン、イタリアなど各国を股に掛け、欧州の頂点まで肉薄した男が、最後には自らのスタート地点へと舞い戻った。


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最後に一言だけ彼の言葉を引用したい。

「私はこれまで勝ち続けてきたが、その中でも最も甘美な勝利はサンプドリアと共に勝ち取ったスクデットだ。なぜなら、セリエAが世界でもっとも難しく、もっとも競争力のあるリーグだからだ。そして何より、半世紀の歴史を持つクラブにとってはじめての祝福だったからでもある。それはまるではじめての子供が生まれたときのようなものだ。より強い喜びを感じるのだ」

(校了)

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