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いつも東側の話だけなので、今日は西側の中の東側の話をしたいと思います。
元ネタ:
LIVORNO AND COMMUNISM
参考:
Old fashioned left winger
The Ultras Of Livorno
◇◇◇
リヴォルノのスタディオ・アルマンド・ピッキを訪れる者は、そこでしか味わえない独特の体験をすることができる。
19,000席のスタジアムが満席になることは殆ど無い。ゴール裏のエリアだけが常に騒々しい人々で埋め尽くされ、歌を歌い、横断幕やフラッグが揺れている。それは一見、どこにでもある風景に思えるかもしれない。
しかし、細部に目を凝らさなければリヴォルノのサポーターたちの特異性を見出すことは出来ない。
彼らは歌を歌う。それは単に自軍で得点を量産するストライカーを称える歌ではない。チェ・ゲバラの革命精神を称える歌だ。
彼らは横断幕を掲げる。それは単に相手チームを攻撃するものではない。自分たちの労働環境改善を訴えるものだ。
彼らは旗を振る。それはトスカーナ地方やイタリアの国旗ではない。彼らはキューバや旧ソ連の旗を振る。
リヴォルノのファンは、誇り高き社会主義者だ。彼らにとって、ホームゲームは自らの信条を公の下に晒す機会となっている。
◇◇◇
現在のイタリア国家が形成されたのは1861年のことだが、それ以前よりリヴォルノという都市は古い歴史を持っている。
11世紀にピサを守る湾口の要塞都市として発展したリヴォルノは、その後ジェノヴァ共和国やフィレンツェ公国に支配され、最終的には自治権を持つ都市国家となった。統一前のイタリアの有り様は、それぞれの都市が異なる王朝によって支配される都市国家のパッチワークによって織り成されていたのだった。
フィレンツェの支配下にあった時代、現在の左巻きな政治性の萌芽が始まった。
14世紀から400年間に渡りメディチ家が支配したフィレンツェ共和国時代、リヴォルノには貿易港が建造され、ユダヤ人やトルコ人、ペルシャ人、ムーア人、ギリシャ人、アルメニア人など様々な背景を持つ貿易商人達が街へ移住してきた。
彼らの異なる文化や宗教が融合し、そこでは国際的な風土が醸成された。リヴォルノ市民たちは多様なバックグラウンドを持ちながら仲間意識と団結を共有し始めた。その多くが湾口労働者や漁師といった、長時間過酷な労働状況下に置かれた人々だった。
労働者達は不当な扱いを受けていると感じれば雇い主に抗議することを厭わず、イタリア統一時にリヴォルノが自由港としての地位を剥奪されそうになった折には公に声を上げ、激しく闘った。
そんな背景の中、1921年にイタリア共産党がリヴォルノで結党された。
アントニオ・グラムシやアマデオ・ボルディーガら結党メンバーは元々イタリア社会党に所属していたが政治的な意見の違いにより離党し、新たなグループを作る必要を感じていた。
新政党への支持を即時的に呼び込み、基盤を構築するために彼らの出生地であるリヴォルノを選択したのは意図してのことだったという。
結党から数年後、共産党はムッソリーニのファシズム政権によってその活動を禁じられたが、イタリア国内でのパルチザンの鍵となる存在になった。その根源は、リヴォルノという街に支えられていたことは間違いない。
今日でも、リヴォルノからは小選挙区・大選挙区ともに極左の候補者が選出される。社会主義的な土壌は分かちがたく都市と結びついている。
◇◇◇
イタリア国内でフットボールファン集団が社会問題化したことは、地方分権主義的な政治と第二次大戦後の歴史に起因している。
1948年から1992年の間、上院下院ともに議席を独占したキリスト教民主主義(DC)が与党の座に就き続けた。彼らは反共を軸に、右派から中道までさまさまな思想・信条の他政党と連立政権を組んでいた。
長く政権を持つ政党の常として、DCもまた様々な利害関係から派閥が複雑化し、組織の根底から腐敗し始めた。特に大教会を支持基盤とした彼らが打ち出す政策のことごとくが民意を反映しなくなり、市民は苛立ちを覚え始めていた。
政治的な関心の強いリヴォルノの人々は、自分たちの不満をぶつけ、イテオロギーを表明出来る場所、その受け皿を探し始めた。
フットボールがその主たる役割を演じ始めるのに、さほど時間はかからなかった。
ウルトラスは政治的な立ち位置を強め始めていった。
それは、リヴォルノという街が持つ独自の歴史に立脚したものだった。
このことは、リヴォルノの試合の雰囲気とも密接に関わっている。それはもはや、単なるフットボールの試合に留まらない。前述した歌や横断幕、旗の誇示に加え、アマラント(イタリア語で暗い赤、チームのシンボルカラーとなっている)のサポーター達はスタジアムで様々な行動を起こす。
パレスチナやアイルランドのナショナリズムへの強いシンパシーを表明し、スターリンとフィデル・カストロの誕生日にはバースデーソングを歌う。
左寄りで知られるマルセイユやベジクタシュ、ザンクト・パウリ、セルティック、AEKアテネ各クラブのサポーターとの友情関係を築き、極右寄りのラツィオやヴェローナとは熾烈なライバル関係を争っており、その敵対感情が緩和、消失することは期待できそうもない。
また、社会的関心も高く、2009年にイタリア中部で起きたラクイラ地震や2010年のハイチ地震の際にはウルトラス主導でスタジアムでの募金活動を行っている。
◇◇◇
ファンは若い頃から心のクラブでプレーすることを夢見るものだが、クリスティアーノ・ルカレッリもその例外ではなかった。
1975年にリヴォルノで生を受けた彼は、2003年についに生まれた頃からの夢を叶える。年間35万ポンドの給与減と下部リーグへのステップダウンを認め、トリノからリヴォルノへの移籍が成立したのだった。
「何人かの選手たちは何百万リラもの大金でヨットやフェラーリを買うだろう」
移籍時のインタビューで彼は短くそう答え、すぐ後に言葉を付け足した。
「俺は自分のためにリヴォルノのシャツを買っただけだ」
ルカレッリはリヴォルノの民衆にとっての英雄だった。
それは彼が見せた華々しいピッチ上の成果─2度の在籍期間中、通算174試合出場102得点─のためだけではなかった。
ルカレッリは民衆の政治的、社会的な意見や希望を代弁した。
イタリアU21代表として出場したモルドヴァとの試合の最中、得点を決めた彼はチェ・ゲバラのTシャツを衆目に晒してみせた。そのことはもちろん、彼をチームから追放させるに十分な出来事だった。
「赤旗の歌」を携帯電話の着信音に設定しているルカレッリがリヴォルノで身につけた99番の背番号にも大きな意味がある。リヴォルノのウルトラスで極左集団でもあるBALが創設されたのが1999年のことだった。
拳を握って突き上げるゴールパフォーマンスは、彼の政治信条を批判するものへの抵抗だという。
さらに、彼はフィレンツェで職を失った400人の工場労働者へゴールを捧げたことさえある。
ルカレッリは、こうコメントする。
「物理的に彼らの助けになることはできない」
「だけど、想いは同じだって示すことが重要な時もあるだろう」
ロヴォルノで生まれ育つとはどういうことなのか。彼はその完璧な化身である。
だからこそ、ファンは彼を愛する。
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ファンの行動がトラブルを起こしたことも過去にはあった。
イラクで亡くなったイタリア人兵士への追悼の際、他クラブのサポーターから大きなブーイングを受けた。リヴォルノのファンはただ単に、イタリアが戦争に関わるべきではないという意見を表明しただけだったのだが。
いずれにせよ、リヴォルノが彼らの政治的意見の表明を止めることは考えられないだろう。
彼らがピッチ上で見せたフットボールは、常に素晴らしいものではなかったかもしれない。一時期セリエAに定着しつつあった流れも、今では下火になってしまっている。
しかし、このクラブを応援するものは、有名なチリの歌を口ずさむではないか。
「団結した民衆は決して敗れることはない」──と。
(校了)
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