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ポーランドは第三帝国に初めて侵略された国家だった。
1939年9月1日の早朝、枢軸国の盟友だったスロヴァキア軍(ベルノラク)の支援を受けたドイツ軍がファル・ヴァイス(白作戦)の計画通りポーランド国境付近へ侵攻開始した。
ポーランドは連合国側から支援放棄の憂き目に遭う(英国・フランスに至っては支援の手すら差し伸べなかった)も、自国戦力だけで1ヶ月間以上に渡りドイツの攻撃を耐え抜いた。
しかし、1939年9月17日にはソ連軍がモロトフ=リッベントロップ協定を口実にポーランドへの進軍を開始する。もはや、希望の無い闘いとなってしまった。
占領下となりドイツやソ連の恐怖に晒されても、人々は諦めなかった。
ポーランドのレジスタンス運動は激しく、アルミア・クラヨーヴァはユーゴスラビアのパルチザンに次いで2番めの規模を誇っていた。
そして1945年5月8日、ポーランドは再び「独立」国家となった。
同年2月に開かれたヤルタ会談によって国家の新たな形が決定され、最終的にはソ連の衛星国として生まれ変わることになった。そしてその共産党政権は1989年まで続いていく。
◇◇◇
今回はフットボールとシレジア地方に関する不定期連載の3回目として、国家が消滅し、ポーランド総督府下となった時代の話をしたいと思います。
【第1回】フットボールの話をしよう - ヴィスワ・クラクフと1.FCカトヴィツェ ~ポーランドを分けた戦い~
【第2回】フットボールの話をしよう - ポーランド、ドイツ、上部シレジア 帰属意識の隘路の中で
◇◇◇
1.正史
1939年から1945年の間の6年間は、フットボールを楽しむのに最適な時代ではなかっただろう。
戦争の最も悲劇的で残酷な結果として大量虐殺が起こり、人々の心からスポーツを求める心が奪われていってしまった。
しかし、何事にも例外というのは存在するものだ。
第三帝国を中心に、イタリアやクロアチア、ルーマニア、フィンランド、ハンガリーといった枢軸国間では恒常的なフットボールの大会が開かれていた。
1941年まではドイツとソ連の間でも定期的に試合が行われていたが、モロトフ=リッベントロップ協定破棄によりその関係も断絶された。
記録の多くが戦争の混乱で失われてしまったが、第三帝国代表と枢軸国、中立国代表の戦績として残されている試合結果もある。
- 対ベーメン・メーレン保護領 / 1939年にヴロツワフにて試合(結果不明)。
- 対ルーマニア戦 / 1940年にフランクフルト(9-3で勝利)。1941年ブカレスト(4-1)。1942年ビトム(7-0で勝利)。
- 対フィンランド戦 / 1940年ライプツィヒ(13-0で勝利)。1941年ヘルシンキ(6-0で勝利)。
- 対クロアチア戦 / 1941年ウィーン(5-1で勝利)。1942年シュツットガルト(5-1で勝利)。
- 対デンマーク戦 / 1941年ドレスデン(1-1で勝利)。
- 対スイス戦 / 1942年に試合、場所不明(5-3で勝利)。
◆◆
ナチスによって大きな運動大会が禁止された唯一の国がポーランドだったが、その罰則はすべての人・地域に適応されたものではなかった。
例えばシレジア地方だ。この地域はナチスにとって重要な地域であると認識されていた。
ナチス時代のフットボールリーグ、ガウリーガの試合が行われ、さらにシレジア地方のフットボールクラブは国内カップ戦であるチャマール・ポカール(ドイツスポーツ大臣だったハンス・フォン・チャマール・ウント・オステンに由来する)にも参加した。
ガウリーガで戦ったチームの中には、元ポーランド代表選手だったエルヴィン・ニックやエヴァルト・ジトコ、エルンスト・ヴィリモフスキらを擁する1FCカトヴィツェ(1939年まではポーランドの中でもドイツ人のマイノリティ集団だったが、1927年にポーランドリーグで準優勝を飾った)や、レオナルド・ピアテクやヴェルナー・ヤニクの所属したゲルマニア・ケーニヒスヒュッテ(現在のAKSホジューフ)、ビスマルクヒュッテル・バルシュピール・クラブ(現在のルフ・ホジューフ。戦前から戦後にかけて、ポーランドでもっとも成功したフットボールクラブの一つ)、そしてリピニのTuSリピニ(占領前はナプソド・リピニという名前だった。1942-43シーズンのチャマール・ポカールで準決勝まで勝ち進んだが、6-0でTSV1860ミュンヘンに敗北した)などがあった。
リーグ戦だけでなく、準国際試合が行われた記録も残っている。
1940年の8月4日、ワルシャワで行われたポーランド総督府代表とシレジア代表の試合ではシレジア側が5-1で勝利を収めた。この試合では、多くの元ポーランド代表選手が出場しており、ヴィルヘルム・ゴラとカロル・パズレクが総督府側で、エルウィン・ニックやレオナルド・ピアテク、リシャルド・ピエクはシレジア側でプレーした。
◆◆
プレーする国の選択という問題に関しては、現在当たり前と考えられているようにシンプルなものではなかった。
ポーランド人の選手がフットボールのキャリアを続けるためにドイツのチームを選択することは、非常に難しく複雑な出来事だった。
ポーランド亡命政権の首相だったヴワディスワフ・シコルスキや司教のスタニスラフ・アダムスキ、そして元ポーランド代表監督だったヨゼフ・カルザらは、ポーランド人に自国の利益を守るためにドイツへの忠誠心を見せるよう呼びかけたが、ドイツ側へ加わることは敵への裏切りと協力だと見做されていた。
例えばバスケットボール選手だったヤン・サヴィツキや、ポロニア・ワルシャワでプレーしたカロル・パズレク、ヴィスワ・クラクフのエミル・フォルガ(後にゲシュタポのエージェントとなる)らのようにドイツ国内のチームを選択した選手たちが数多くいた中、非常に有名になったのがフレデリク・シェルフケだった。ワルタ・ポズナンに所属し、1938年のワールドカップにおいて、ポーランドにとってブラジル相手に最初のゴールを決めた選手である。
彼の選択は、より複雑なものだった。
シェルフケ自身は自らをドイツ人であると考えていたため、ポズナン占領後すぐにフォルクスリスト(ドイツへの忠誠を示す名簿)にサインした。しかし、彼はポーランドやポーランド国民を裏切るようなことはしなかった。彼は自ら得た新たな地位を、かつての仲間を守るために最大限利用したのだった。
結果的に、シェルフケは元ポーランド代表ゴールキーパーだったマリアン・フォントヴィッツやスタニスワフ・クラニャ、ボレスワフ・ゲンデラ、そしてミヒャウ・フリーゲルを強制収容所送りから救った。
ヴィルヘルム・ゴラの選択も非常に複雑だった。
彼はクラコヴィア・クラクフの選手で1936年のオリンピックと1938年のワールドカップに参加したが、フォルクスリストにサインした後もポーランド側に残り、DTSGクラカウの選手となった。
ドイツ国防軍に招集された後、イタリア戦線で連合国の捕虜となり、同地でヴワディスワフ・アンデルス指揮下のポーランド第二軍団に加わった。
戦後、ドイツで余生を過ごし、1975年にその生涯に幕を閉じた。
多くのポーランド人選手たちがドイツのチームを選択したのは、自身の将来と家族の安全を案じてのことだった。
エルウィン・ニックはアウシュヴィッツ行きの難を避けるためにFCカトヴィツェに加入した。
エルンスト・ヴィリモフスキは1939年までは最高のポーランド人選手で、1938年のワールドカップでブラジル相手に4ゴールを決め、ルフ・ホジューフで88試合にプレーし112ゴールの記録を残した選手だったが、ドイツで警官となり、ドイツのクラブへ加入した。母親をアウシュヴィッツ行きから守るためだったと言われている。
ヴィリモフスキはドイツのクラブでプレーした(FCカトヴィツェ、PSVケムニッツ、TSV1860ミュンヘン)だけではなく、ドイツ代表としてもピッチに立った。
8試合で13ゴールという偉大な記録を残し、とりわけデビュー戦となったドイツ対ルーマニアの試合では開始3分での得点を含む2ゴールを上げた。
ハーケンクロイツのジャージを身に着けた最も有名なポーランド人選手としての悪名が蔓延してしまっているが、実は彼の他にも2名の選手がドイツ代表としてプレーしている(リヒャルト・クブスとエルンスト・プレネル)。
ヴィリモフスキの物語は特筆すべきものだ。
彼のドイツ代表としてのフットボールキャリアは、戦時下において明らかな裏切りと見做されてしまった。1945年に新たに誕生したポーランドの共和党政権は、ナチス・ドイツに協力したあらゆるポーランド人の市民権を剥奪することを決定した。ヴィリモフスキは公に親ナチ者として糾弾され、その結果、生まれ故郷での居場所を失った。
彼は二度とポーランドの地を踏むことはなく、1997年にドイツで81歳の波乱の生涯に幕を閉じた。
往時のポーランドの空気を表現するものとして、ある日の新聞の見出しが残っている。
"Do czego to prowadzi. Nie chcemy niemców w sporcie słąskim" (「シレジアからドイツ人を叩き出せ」 トリブナ・ロボツニチャ紙 1945年11月18日号に掲載)
「ドイツ」の文字は、明らかな敵意をもって小さなフォントで記されていた。
シレジアフットボール協会は1945年3月25日、ドイツ占領下でドイツ側に加担したあらゆる組織、選手、活動家がシレジア地方でフットボールをプレーすることを禁止した。
それでも、ヴィリモフスキはまだ生き存えただけ幸運だったと言えるだろう。
ポーランドを裏切るという苦渋の決断をした数人の同胞たちは、彼よりも過酷な運命に巻き込まれた。
レオナルド・マリクはポゴン・カトヴィツェでプレーし、1939年まではポーランド代表だったが、ポーランド人による親ナチ狩りでムィスウォヴィツェの強制収容所に送り込まれ、1945年に命を落とした。
彼のドイツ代表としてのフットボールキャリアは、戦時下において明らかな裏切りと見做されてしまった。1945年に新たに誕生したポーランドの共和党政権は、ナチス・ドイツに協力したあらゆるポーランド人の市民権を剥奪することを決定した。ヴィリモフスキは公に親ナチ者として糾弾され、その結果、生まれ故郷での居場所を失った。
彼は二度とポーランドの地を踏むことはなく、1997年にドイツで81歳の波乱の生涯に幕を閉じた。
往時のポーランドの空気を表現するものとして、ある日の新聞の見出しが残っている。
"Do czego to prowadzi. Nie chcemy niemców w sporcie słąskim" (「シレジアからドイツ人を叩き出せ」 トリブナ・ロボツニチャ紙 1945年11月18日号に掲載)
「ドイツ」の文字は、明らかな敵意をもって小さなフォントで記されていた。
シレジアフットボール協会は1945年3月25日、ドイツ占領下でドイツ側に加担したあらゆる組織、選手、活動家がシレジア地方でフットボールをプレーすることを禁止した。
それでも、ヴィリモフスキはまだ生き存えただけ幸運だったと言えるだろう。
ポーランドを裏切るという苦渋の決断をした数人の同胞たちは、彼よりも過酷な運命に巻き込まれた。
レオナルド・マリクはポゴン・カトヴィツェでプレーし、1939年まではポーランド代表だったが、ポーランド人による親ナチ狩りでムィスウォヴィツェの強制収容所に送り込まれ、1945年に命を落とした。
リシャルド・ピエクはTuSリピニに所属した選手で、チャマール・ポカールの準決勝にも出場した名選手であったが、マリクと同じようにシフィエントフウォヴィツェの強制収容所へ送り込まれた。
カロル・パズレクはドイツ国防軍に徴兵され、ポーランドのレジスタンスとの戦闘中に命を落とした。
◇◇◇
2.外史
ドイツ軍チームとポーランド人チームの間では、不定期にフットボールの試合が行われた記録が残されている。1943年の春にリブニクで催された試合では、ポーランド側がSSチームを破った。また、1944年にリヴィウで行われた試合では、ポーランド人と国防軍チームが戦っている(4-2でポーランド側の勝利)。しかし、それらの試合は双方の関係に何か重大な変化を齎すようなものではなかった。
◆◆
強制収容所で行われた試合は少し意味合いが違った。
今日に残された強制収容所に送られた人々の手記を読むと、それらの試合が、たとえ不定期だったにせよ、いかに彼らの精神に重要だったかを理解することが出来る。ナチス支配下で死の工場と化してしまったポーランドに住む人々の人間性と尊厳を保つものだったのだ。
いくつかのオフラグ(オフラグに送られたのは西側やポーランドの役人、軍人などで、1929年に締結されたジュネーブ条約の俘虜の待遇に関する条約を守るために作られた。例外はあったものの、彼らは強制労働を強いられることはなかった)において、試合の記録が残っている。
オフラグIIDグロース・ボルンは1942年に設置され、アルンスヴァルデやノイブランデンブルクからポーランド人が連行された。囚人たちの待遇は強制収容所よりも良く、フットボールやテニスを楽しむことを許されていた。そこでは準公式にスポーツクラブが創設された。
同じようにオフラグIICヴォルデンベルクでは赤軍とYMCAの支援のお陰で、フットボールグラウンドや他のスポーツ施設を作ることが出来た。このオフラグでは、6000名の囚人を抱え、15個ものグラウンドがあったと言われている。ここでもポーランド人達はクラブを創設した。
強制収容所でも同じようにフットボールの試合が行われた。
例えばグロース・ローゼンではほとんど定期に開催されたリーグ戦も発足したほどだった。
リーグ戦に参加したクラブには、かつてプロとしてプレーしたポーランド人選手も多く含まれていたが、彼らは主に労働現場ごとにチーム分けされるか(採石場や建設現場など)、ドイツ語のチーム名を与えられた。
1943年までに収容所の囚人の数は増加の一途を辿っており、大会はポーランドを始めドイツやチェコ、ソ連などそれぞれの国の代表選手が競い合う国際的な物となっていった。
その時期にグロース・ローゼンではイタリア人、ポーランド人、ハンガリー系ユダヤ人の試合が行われた記録も残っている。
グロース・ローゼンに送られた人々が一様に語るのは、あの悪魔の地において唯一すべての人間が平等だったと感じられる機会を得られるのは、フットボールをプレーした時だけだったということだ。
試合終了の笛が吹くと、試合中とは状況が豹変する。
グロース・ローゼンで行われた試合が1-0とポーランド人側の勝利で終わり、試合後にSSと囚人が仲良くビールを飲み交わした数時間後、すべての囚人がドイツ人処刑人によって厳しく痛めつけられ、何人かは命を落とした。
ALフュンフタイヒェン(現在のミウォシツェ。イェルチ=ラスコビツェの近くにある)では、SSチームがハンガリー囚人チームに負けた直後、ハンガリー側のゴールキーパーが殺害された。公的な理由としては脱走を企てたということだったが、ドイツ人側の攻撃をいともたやすく受け止めた為であったことは想像に難くない。
フットボールの試合はアウシュヴィッツ強制収容所でも行われた。
アウシュヴィッツには50人を超えるプロのポーランド人フットボーラーが送り込まれていた。
そこでの試合記録はほとんど消失してしまったが、数少ない情報では1943年7月に行われた試合で、ポーランド人チームが「カポ」チームを5-3で破ったというものがある。誇りと希望の試合だった。
アウシュヴィッツでの試合は他にも行われていたようだ。記録に残る最初の試合は1940年の秋にまで遡ることが出来る。1943-44年にかけては、囚人代表チームが7チームから9チームほど結成され、準定期的に試合が開催されていた。
それらの試合は処刑場やその付近の広場などで行われ、ある試合で決められた得点は絞首台や、銃殺刑の壁に向かって放たれたシュートだった。
また、試合は亡くなった囚人が眠る墓地でも行われていた。
◆◆
カロル・パズレクはドイツ国防軍に徴兵され、ポーランドのレジスタンスとの戦闘中に命を落とした。
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2.外史
ドイツ軍チームとポーランド人チームの間では、不定期にフットボールの試合が行われた記録が残されている。1943年の春にリブニクで催された試合では、ポーランド側がSSチームを破った。また、1944年にリヴィウで行われた試合では、ポーランド人と国防軍チームが戦っている(4-2でポーランド側の勝利)。しかし、それらの試合は双方の関係に何か重大な変化を齎すようなものではなかった。
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強制収容所で行われた試合は少し意味合いが違った。
今日に残された強制収容所に送られた人々の手記を読むと、それらの試合が、たとえ不定期だったにせよ、いかに彼らの精神に重要だったかを理解することが出来る。ナチス支配下で死の工場と化してしまったポーランドに住む人々の人間性と尊厳を保つものだったのだ。
いくつかのオフラグ(オフラグに送られたのは西側やポーランドの役人、軍人などで、1929年に締結されたジュネーブ条約の俘虜の待遇に関する条約を守るために作られた。例外はあったものの、彼らは強制労働を強いられることはなかった)において、試合の記録が残っている。
オフラグIIDグロース・ボルンは1942年に設置され、アルンスヴァルデやノイブランデンブルクからポーランド人が連行された。囚人たちの待遇は強制収容所よりも良く、フットボールやテニスを楽しむことを許されていた。そこでは準公式にスポーツクラブが創設された。
同じようにオフラグIICヴォルデンベルクでは赤軍とYMCAの支援のお陰で、フットボールグラウンドや他のスポーツ施設を作ることが出来た。このオフラグでは、6000名の囚人を抱え、15個ものグラウンドがあったと言われている。ここでもポーランド人達はクラブを創設した。
強制収容所でも同じようにフットボールの試合が行われた。
例えばグロース・ローゼンではほとんど定期に開催されたリーグ戦も発足したほどだった。
リーグ戦に参加したクラブには、かつてプロとしてプレーしたポーランド人選手も多く含まれていたが、彼らは主に労働現場ごとにチーム分けされるか(採石場や建設現場など)、ドイツ語のチーム名を与えられた。
1943年までに収容所の囚人の数は増加の一途を辿っており、大会はポーランドを始めドイツやチェコ、ソ連などそれぞれの国の代表選手が競い合う国際的な物となっていった。
その時期にグロース・ローゼンではイタリア人、ポーランド人、ハンガリー系ユダヤ人の試合が行われた記録も残っている。
グロース・ローゼンに送られた人々が一様に語るのは、あの悪魔の地において唯一すべての人間が平等だったと感じられる機会を得られるのは、フットボールをプレーした時だけだったということだ。
試合終了の笛が吹くと、試合中とは状況が豹変する。
グロース・ローゼンで行われた試合が1-0とポーランド人側の勝利で終わり、試合後にSSと囚人が仲良くビールを飲み交わした数時間後、すべての囚人がドイツ人処刑人によって厳しく痛めつけられ、何人かは命を落とした。
ALフュンフタイヒェン(現在のミウォシツェ。イェルチ=ラスコビツェの近くにある)では、SSチームがハンガリー囚人チームに負けた直後、ハンガリー側のゴールキーパーが殺害された。公的な理由としては脱走を企てたということだったが、ドイツ人側の攻撃をいともたやすく受け止めた為であったことは想像に難くない。
フットボールの試合はアウシュヴィッツ強制収容所でも行われた。
アウシュヴィッツには50人を超えるプロのポーランド人フットボーラーが送り込まれていた。
そこでの試合記録はほとんど消失してしまったが、数少ない情報では1943年7月に行われた試合で、ポーランド人チームが「カポ」チームを5-3で破ったというものがある。誇りと希望の試合だった。
アウシュヴィッツでの試合は他にも行われていたようだ。記録に残る最初の試合は1940年の秋にまで遡ることが出来る。1943-44年にかけては、囚人代表チームが7チームから9チームほど結成され、準定期的に試合が開催されていた。
それらの試合は処刑場やその付近の広場などで行われ、ある試合で決められた得点は絞首台や、銃殺刑の壁に向かって放たれたシュートだった。
また、試合は亡くなった囚人が眠る墓地でも行われていた。
◆◆
収容所やオフラグでは、フットボールの試合の他に様々なスポーツ競技も行われた。
オリンピック開催の1940年には、国際囚人オリンピックがニュルンベルク付近のシュタラグXIIIDで開かれた。
非合法ではあったが、1940年8月31日の開会宣言の後、英国人、フランス人、ポーランド人、ユーゴスラヴィア人がサイクリングや砲丸投げ競技が開催された。当然十分な競技用具はなく、サイクリングは自転車の代わりに車椅子が、砲丸投げは石が使われていた。
1944年のオリンピックの折には、IIDグロース・ボルンとIICヴォルデンベルクで記念大会が開催された。
グロース・ボルン大会は7月30日から9月15日まで行われ、ポーランド人が陸上競技やフットボール、バレーボールで競い合った。また、ヴォルデンベルク大会も7月23日から8月13日の間に行われ、370人の囚人たちが100m走、4×100mリレー、3×1000mトラック走、走り幅跳び、フットボール、バレーボール、ボクシング、卓球、チェスなど16競技で争った。
中には100m走で11.5秒の記録が出るなど、非公式ながら当時の世界記録に迫るものもあった。
両オフラグにおいては古き良きオリンピックの伝統通り、肉体競技だけではなく、文学や音楽、アートの大会も催された。
正式なオリンピックに則り、両大会では開会式と閉会式が執り行われ、色鮮やかにしつらえられた布製の五輪旗も掲揚された。
これらの大会がドイツ側の了承の元に行われ、彼らの妨害などは一切なかったということは興味深い事実であろう。しかしながら、アーチェリーや棒高跳びなど、武器として扱い逃走を手助けしてしまうような一部の競技は制限されていた。
オリンピック開催の1940年には、国際囚人オリンピックがニュルンベルク付近のシュタラグXIIIDで開かれた。
非合法ではあったが、1940年8月31日の開会宣言の後、英国人、フランス人、ポーランド人、ユーゴスラヴィア人がサイクリングや砲丸投げ競技が開催された。当然十分な競技用具はなく、サイクリングは自転車の代わりに車椅子が、砲丸投げは石が使われていた。
1944年のオリンピックの折には、IIDグロース・ボルンとIICヴォルデンベルクで記念大会が開催された。
グロース・ボルン大会は7月30日から9月15日まで行われ、ポーランド人が陸上競技やフットボール、バレーボールで競い合った。また、ヴォルデンベルク大会も7月23日から8月13日の間に行われ、370人の囚人たちが100m走、4×100mリレー、3×1000mトラック走、走り幅跳び、フットボール、バレーボール、ボクシング、卓球、チェスなど16競技で争った。
中には100m走で11.5秒の記録が出るなど、非公式ながら当時の世界記録に迫るものもあった。
両オフラグにおいては古き良きオリンピックの伝統通り、肉体競技だけではなく、文学や音楽、アートの大会も催された。
正式なオリンピックに則り、両大会では開会式と閉会式が執り行われ、色鮮やかにしつらえられた布製の五輪旗も掲揚された。
これらの大会がドイツ側の了承の元に行われ、彼らの妨害などは一切なかったということは興味深い事実であろう。しかしながら、アーチェリーや棒高跳びなど、武器として扱い逃走を手助けしてしまうような一部の競技は制限されていた。
第三帝国がポーランド占領の際に定めたあらゆる運動大会の禁止という措置を鑑みるに、五輪大会開催の判断は驚くべきものだったと言える。
◇◇◇
3.偽史
1939年9月1日はポーランドの歴史において最も残酷で悲惨な6年間の歴史の始まりとなった日だが、その歴史はポーランドのスポーツにも深刻な影響を与えた。6年間で、50人以上の五輪出場選手を含む1000人を超えるポーランド人スポーツ選手が命を落としてしまった。
ポーランド人選手の生命を奪ったのはナチスだけではなかった。
ソ連が引き起こしたカティン大虐殺では、現在尚もって詳細不明な途方もない人数のポーランド人が亡くなったが、その中にはベルリン五輪の銀メダリストだったズジスワフ・カヴェツキやポーランド陸上競技連盟会長のヴァツワフ・ズナイドフスキ、そしてを1938年ワールドカップで副コーチを務めたアダム・コグートをはじめとするスポーツ関係者も含まれていた。
◆◆
ポーランドはナチスが占領した地域の中で、唯一あらゆる運動大会が禁止された場所だった。
それまで国内に存在したすべてのスポーツ系組織は1939年9月2日に解体された。
ポーランド総督府の決定によれば、ポーランド人は「あらゆる組織化された運動活動を行うことが許されず」「試合を行うことは犯罪とみなされ罰則が下される」という状況であった。
多数のポーランド人選手たちは、しかしながら、諦めなかった。
フットボール文化は大都市を中心に根付いており、クラクフはその中心地だった。
最初にポーランド総督府内で非合法のフットボールの試合が行われたのは1939年10月22日のことだった。ヴィスワ・クラクフ対クロボドジャの試合だった。
1940年5月5日、不朽のダービーマッチであるヴィスワ・クラクフ対クラコヴィア戦が開催。アンダーグラウンドの試合ではあったが、ヴィスワが3-0で勝利している。
そして1940年8月7日、非公式のクラクフ・チャンピオンシップが発足した。最初はジュヴェニア・スタジアムで試合が行われ、1941年には近隣地域へと広がっていった。
1942年6月14日にクラクフ近郊のブロノヴィツェで行われた試合はヴィスワがガルバルニアを2-0で下したが、スタジアムには1500人を超える観客が集まり試合を楽しんだという。ヴィスワはまた、遠くワルシャワ近郊へも赴き、アウェーゲームの試合を行った。
驚くべきことに、彼らは占領下のポーランドにおいて、様々な障害を乗り越えて試合を行っていただけでなく、裏では近隣諸国よりスポーツ用品を密輸していたのだった。
◆◆
ワルシャワも、地下リーグが行われた都市だった。
最初の大会は、かつてポロニア・ワルシャワに所属していたヨゼフ・シチェフスキの発案で開かれたものだった。第二次大戦勃発から数ヶ月後のことだ。
次の大会は1940年の秋に開催された。16チームがポロニア・スタジアムで競い合った。
ワルシャワではフットボールの大会だけでなく、1939年に解体されたはずのワルシャワFAが1941年末まで存在したことがわかっている。彼らは大会運営だけでなく、近隣都市での試合開催もコーディネートしていた。
しっかりとした大会運営は行われていたが、幾つかの試合では悲劇が起きている。
1943年にワルシャワの隣町・コンスタンチンで行われた試合の最中、ドイツ人兵士がサポーター数名を殺害。同年、ミラヌベクへ遠征したポロニアの選手数人が拘束され、アウシュヴィッツへと送られた。
◆◆
非合法のトーナメントは他の数都市でも行われていた。1940年にキェルツェで開かれた大会には、ユダヤ人のチームも参加したという。
二次大戦という大量虐殺の時代にあって、ユダヤ人にとってフットボールなど生きるためには何ら必要のないものだったように思えるかもしれないが、彼らは1939年にポーランド国内でフットボールをプレーしてきた伝統を、戦時中も引き続き守ろうとした。
よく知られているように、ヴィリニュス・ゲットーでは1000人を超えるスポーツマン達が28の競技をプレーした。まるで自分たちを取り巻く悲劇的な状況を、せめて90分の間だけでも忘れていたいという祈りを込めるように。
◇◇◇
1944年末にソ連軍がポーランド全土を制圧しポーランドが占領から解放されたすぐ後に、ポーランド人がスポーツ活動を再開したのは言及しておかなければならない。もちろん、フットボールも同じ状況だった。
1945年1月25日にはヴィスワ対クラコヴィアのダービーマッチが開催された(2-0でヴィスワ勝利)。また、1945年3月にはポロニア・ワルシャワ対オケンチェ・ワルシャワの試合も行われた。
戦後、新たな文化も生み出された。
ビャウィストクでポーランド軍スポーツクラブがソ連赤軍チームと試合を行った(1945年6月、3-3で引分)。また、クラスニスタフの地元チームも赤軍チームと戦った。
白作戦から始まった暗黒の時代を終え、これからポーランドは赤の時代へ突入し、フットボールを取り巻く環境もまた大きく変化していくことになるのだが、それはまた別の話で。
◇◇◇
フットボールは一般的に、その時々の政治環境に巻き込まれ、プロパガンダの道具として利用されることは歴史が示している通りだ。
例えばナチスはフットボールを自らの力の誇示の為に大いに活用して見せた。彼らが純粋な楽しみのためにプレーすることは稀だったであろう。
しかしその一方で、フットボールは、力なき庶民が自らの未来を切り開くための希望ともなり得る。
例えば──ある者が、自らの信念を曲げ、裏切り者と謗られようとも家族や仲間の命を救ったように。
例えば──ある者が、この世の地獄の業火に焼かれながら、それでも尚ピッチの上で自らの人間としての尊厳と誇りを体現し続けたように。
例えば──ある者が体制に抗い、抵抗するための旗印としてボールを蹴ったように。
そんな人々の想いを知ってか知らずか、ポーランド国歌に次のような一節がある。
「ポーランドは死なず、我らが生ある限り」
(校了)
コメント
ポーランドに関する3記事拝読させていただきました。近々ポーランドを訪れる予定なのですが、歴史を通してみたフットボールという観点が非常に興味深かったです。
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