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1966年夏にワールドカップを優勝したイングランド。
その翌シーズン、クラブレベルでの欧州王者を決めるチャンピオンズカップに出場したのは、ビル・シャンクリー率いるイングランドリーグの覇者、リバプールでした。
しかし、彼らの前に立ちはだかった靄、もといチームがありました。
それはリヌス・ミケルスとヨハン・クライフが率いたアムステルダム・アヤックス。
霧の一夜、シャンクリーが見たものは幻だったのか、それとも・・・。
今日はそんな煙に巻いたような話をしたいと思います。
元ネタ: Out of the fog, came Total Football
◇◇◇
アヤックスは1965-66シーズンに7ポイント差でライバルのフェイエノールトを退け、オランダリーグの栄冠を勝ち取った。
チームの中心にいたのはヨハン・クライフ。23試合で25ゴールを決め、優勝の立役者となった。
クライフはリヌス・ミケルスという指導者の熱烈な信奉者となったが、ミケルスの前にチームを率いていたのはイングランド人のヴィック・バッキンガムだった。
彼は若きクライフを登用し、アヤックスにトータル・フットボールと若手組織の開発という現代もなお続く思想を植え付けた張本人だったが、残念ながら1964年に起きたイングランドの一大八百長スキャンダルに巻き込まれ、志半ばにしてアヤックスを去った。
ミケルスが1965年1月に監督職を引き継いだ時にチームに所属していた16人はみな柔軟に複数のポジションをこなせる選手だったという。
ミケルスとアヤックスはフルバックの選手を攻撃に参加させながら中盤を主戦場とするフットボール、つまり前任者の思想を発展させたトータル・フットボールをプレーし始めた。
◇◇◇
しかし、彼らの進歩的なフットボールとは裏腹に、1960年代半ばにオランダフットボールに関心を抱くものは誰もいなかった。
クライフの自伝によると、リバプールの監督だったビル・シャンクリーなどはアヤックスに関する知識をほとんど持ち合わせておらず、スペルが全く同じだというだけで食器用洗剤のエイジャックスを引き合いに出したと証言している。
当時イングランドのクラブは欧州の舞台では大きな成功を収めておらず、1963年にスパーズが、1965年にウエスト・ハムがカップ・ウィナーズ・カップを勝ち取った程度だった。
ヨーロピアン・カップにおいては、未だ初優勝を待ちわびるという段階だった。
にも関わらず、1965-66年シーズンにリーグ優勝したリバプールはアヤックスを与し易い相手だと侮っていた。
彼らは前シーズンにカップ・ウィナーズ・カップの決勝まで勝ち進み(結果は準優勝)、エースストライカーのロジャー・ハントは30ゴールを挙げてワールドカップでも栄冠を勝ち取った。
ビル・シャンクリーはアヤックスを強敵と認めてはいたが、彼らに関する情報が少なすぎた。
◇◇◇
その日のアムステルダムは霧が濃く立ち込めており、試合の決行そのものが疑われた。
アヤックスの選手たちでさえ、まさか試合などないだろうと予想してキックオフの45分前にスタジアムに到着するほどだった。
ビル・シャンクリーは翌週に、マット・バズビー率いる宿敵マンチェスター・ユナイテッドとの試合を控えていることもあり、試合を延期させたいと考えていたようだった。
イタリア人のアントニオ・スバルデッラ主審は、しかしながら、試合を行う決断をした。
選手たちは戸惑いを隠せなかったが、スタジアムで見るものはもっと不運だった。
オリンピックスタジアムに結集した55,000人の観衆達は、ピッチ上で何が行われているのかを見通すことが出来ず、僅かな視界を想像力で補完することを余儀なくされたのだ。
試合は後に「ミスト・ヴェートストライト」、すなわち霧の一戦、と名付けられることになる。
◇◇◇
リバプールの選手たちに比べ、アヤックス側はこの澱んだ視界に上手く適応した。
試合が最初に動いたのは開始3分、ケース・デ・ヴォルフのゴールでアヤックスが先制した。
クライフがスローインを入れると、リバプールのゴールを守っていたトミー・ローレンスがキャッチングを試みたが、霧のために目測を誤って届かないと判断し後退。
ヴォルフとリバプールのDFクリス・ロウラーとの空中での競り合いになったが、最終的にはヴォルフの頭が一瞬早く触れ、ボールはゴールネットに吸い込まれていった。
視界が悪く観衆もすぐにはゴールに気付かなかったが、ヴォルフのゴールセレブレーションが披露されるに至り、アムステルダムのアヤックスファンは狂気の渦に巻き込まれた。
ハントの決定機などあったものの追いつけないリバプールを横目に、前半17分にはクライフが2点目のゴールを決める。
シャーク・スワルトがリバプールの選手3人を置き去りにする持ち上がりを見せ、クラース・ヌニンハが放った強烈なシュートのこぼれ球にクライフが反応した形となった。
リバプールの選手たちは見るからに足が重く、コンディションは最悪だった。
ある試合実況は入れ替わり現れるアヤックスの選手たちの白いシャツを「霧のなかを飛ぶ幽霊」と表現した。
その後も前半だけで4得点を決めたアヤックスに、リバプールは最後の抵抗として後半89分に1点を返すのが精一杯だった。
結果、試合は5-1でアヤックスの勝利となった。
ビル・シャンクリーは試合後、短絡的に霧のせいだと弁明した。
「彼らは霧を上手く使った。アヤックス側のプレーはそれほど印象的ではなく、運が良かっただけだ。自陣に籠り守備に徹していた。次にアンフィールドでやるときは、7-0で我々が勝利するであろう」
翌週末に控えたマンチェスター・ユナイテッド戦を前に、この試合の衝撃的な敗戦を払拭しようという、シャンクリーの意図が込められていたのかもしれない。
数年後にシャーク・スワルトはこう回想する。
「おとぎ話のようだった。誰も信じないことが実際に起きたんだ」
クライフは自伝の中で「技術的に、我々は英国王者を吹き飛ばしたんだ」と語った。
◇◇◇
もしもアンフィールドのファンの中にシャンクリーの7-0の試合予想を信じる者がいたとしたら、すぐにその考えは訂正された。
アンフィールドで行われた2試合目は2-2で終わった。どちらもクライフが決めたゴールだった。
英国メディアはこの試合の意味を理解し「リバプールは強いチームにぶち当たった」と表現した。
シャンクリーは試合後、素直に敗北を認め、アヤックスのドレッシングルームを訪れて選手たちに祝福の握手を求めた。
この試合ではコップ・スタンド側でリバプールファンに200人近い負傷者を出した。テラスにファンが押し寄せた為だった。
デイリー・ミラー紙が「人間雪崩」と表現したその事故は、ファンが焚いた煙幕のせいだったとも言われている。
煙に視界を奪われたリバプールファンがピッチ上で行われている革新的なトータル・フットボールを見るために、最前列に押し寄せたのだった。
◇◇◇
あの試合から50年の節目となる2016年にヨハン・クライフが亡くなった。
その間にもフットボールは日進月歩を遂げ、我々を魅了し続けている。
誰もが霧の向こう側のまだ見ぬ景色を求め、改革者が旗手となり、このバトンはこれからも繋がれていくだろう。
(校了)
コメント
貴重な記事ありがとうございます。
返信削除懐かしい動画を見つけました。95/96シーズンのフェイノールト対アヤックスの試合です。クライファートとダービッツがいます。
https://www.youtube.com/watch?v=9LBjrsDxjjU