とあるフットボーラーの肖像 - 彷徨えるジミー・ホーガン




「1953年11月25日は、イングランドフットボールにとって屈辱の一日となった。

それは歴史の必然か偶然か、彼らが自ら無価値のレッテルを貼ったものからの手痛いしっぺ返しであり、ある男の迂遠な復讐劇でもあった。」

今日はそんな書き出しで始めようと思います。

英国に生まれながら英国に愛されず、ヨーロッパ全土に渡ってフットボールの歴史に爪痕を刻んだ人の物語。


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霧に包まれたウェンブリー・スタジアムの只中で、ウォルター・ウィンターボトム率いるイングランド代表は対戦相手から技術、様式、そして戦術上達のための強烈な教えを蒙ることとなった。20世紀前半を通して優越性を謳歌してきた英国が恥ずべき夜郎自大だったことを、ハンガリー代表チームは公のもとに暴露してみせたのだった。

ヒデクチ・ナンドールプスカシュ・フェレンツ、そしてボジク・ヨージェフが合計6ゴールを挙げ、試合は6-3でアウェーチームに勝利が齎された。各選手が連動する魅力的なフットボールでハンガリーがイングランドの厳格なWMフォーメーションをズタズタに切り裂いてしまった。
イングランドが培ってきた自尊心は、ノースロンドンの硬い芝の上に横倒しになって崩れ去った。

試合後、ハンガリーフットボール協会の会長だったバルクス・サンドールは集まった記者に向かってこう告げた。「ジミー・ホーガンがすべてを我々に教えてくれたんだ」と。
ランカスター出身の小柄な男、ジミー・ホーガンは、彼の監督としてのキャリアをほとんど外国で過ごしたことから自国フットボール協会からは裏切り者のように位置づけられていたかもしれないが、彼が大陸で築いた戦術面、そして育成面での実績は比類なきものとなった。
ブライアン・クラフをイングランド人最高の指揮官だ、と評する声が未だ根強いが、実際の所それはジミー・ホーガンに付けられるべき栄誉である。


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バーンリーのちょうど北部、ネルソンで1882年に生まれたホーガンは、フットボールの歴史のうち最も速く、最も顕著に進化を遂げた年月を経験し、少年時代よりフットボールに心を奪われた。
1902年、ロッチデール・タウンでフットボールのキャリアを開始した彼は、すぐに才能あるインサイド・フォワードとして名が知られるようになった。
北部のバーンリーとネルソンを転々と過ごした後は、ロンドンのフラムへ移籍し、1908年にはFAカップ準決勝に進出し、その才能の片鱗を見せた。スウィンドン・タウンの為にコテージャーズを去り、最終的にはボルトン・ワンダラーズでブーツを脱ぐことになった。

几帳面で時に強迫的とさえ感じられる性格から、選手時代のホーガンは自らの成長に激烈な欲望を抱いており、当時としては異例といえるほどの細かいフィットネストレーニングを行っていたという。
すべてをなげうってでも最高を目指す異様な執着は、彼が偉大な監督への地歩を築き、才能ある選手たちを育成する上で重要な役割を果たしていたと言える。

ボルトンでの現役最晩年からホーガンは既に監督業を行っており、過去に夏のプレシーズンツアーで訪れたことのあったオランダへ1910年に出向き、オランダ代表チームを指導した。
彼の滞在は短期間だったが、オランダで残したインパクトは絶大なものだった。オランダ人選手たちにプロフェッショナリズムを植え付け、戦術、技術面の考え方を大きく進歩させた。
彼が蒔いた種が、後にジャック・レイノルズリヌス・ミケルスがアムステルダム・アヤックスで築き上げたトータル・フットボールに結びつくことになる。


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1913年に現役を引退し、フルタイムの監督業に着手し始めたホーガンの元に、あるオファーが舞い込む。それはオーストリアFAのトップだったフーゴ・マイスルからの接触だった。
当時オーストリア=ハンガリー代表の監督を務めていたマイスルは、自軍を思うように成長させられないでいる自らの手腕に憤りを感じ、代表チームを技術面で指導出来る人材を探していた。
そこに、ホーガンの名が浮上してきたのだ。

ホーガンはマイスルの計画に心を動かされた。
すぐにオーストリアへ移住し、1916年に開催予定のベルリン・オリンピックに向けてオーストリアのクラブチームでの指導を開始した。目標は、ドイツの地で金メダルを獲得することだった。

しかしながら、歴史は数奇な方向へ動き始める。
第一次世界大戦勃発により試合が中止されたのだ。

オリンピックでの成功という彼とマイスルの野望は消失してしまった。
しかしオリンピックの中止は、ただ単に彼の壮大な野心が頓挫してしまったという以上に、実際的な衝突を彼に与えた。戦時下のオーストリア=ハンガリー帝国では、三国協商側の英国人は敵と看做される空気が蔓延していた。

この状況下、ホーガンを救ったのは英国人でMTKブダペストの副会長だったバロン・ディストレーだった。彼はホーガンの戦争捕虜収容所行きを阻止するため、MTKの監督に招聘してみせた。

往時ヨーロッパ大陸で流行していたボールを回すフットボールを横目に、ホーガンはMTKの選手たちへ教える哲学を変えようとはせず、緩やかに戦術面、技術面での進歩を促していった。
彼の方法論が実を結んだのは間もなく後のことだった。1917年、1918年に彼の指揮の下、MTKはリーグタイトルを勝ち取った。その際に披露されたフットボールは、広く賞賛を集めた。

しかし最終的にはヨーロッパの戦闘が激化し、英国への帰国を余儀なくされた。

ハンガリーでの在任期間は一瞬のことだったが、ホーガンの哲学と方法論は1950年台の偉大なるハンガリー代表の青写真として掲げられ、マイティ・マグワイヤーズは1953年にイングランドに手痛い敗北を負わせることに成功した。

短いパスをつなぎボールを持たない所で選手が目まぐるしく動くフットボールは、ハンガリーの各世代に植え付けられたスタイルだが、それはホーガンの美学に基づいている。

彼はフットボールの歴史上、革命的な監督だった。


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ホーガンがヨーロッパ大陸で成し遂げた実績とは正反対に、母国へ戻った彼を英国フットボール協会は冷遇し、彼の言葉に耳を傾けようとはしなかった。

英国へ戻った彼は「戦争で経済的な苦境に陥っているフットボール関係者はFAから200ポンドの支援を受けることができる」という情報を聞きつけた。
ほとんど極貧に近い生活を送っていたホーガンは、ロンドンにいるフランシス・ウォール長官の下を訪れた。

長官はオフィスに訪れたホーガンを睥睨すると、食器棚を開けて取り出したカーキ色の靴下を2足プレゼントし、「私はこれを最前線で闘う兵士に送ったが、彼らは喜んでいたよ」と話した。
裏の意味は「裏切り者にくれてやる金など無い」ということだった。


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憤ったホーガンは再び母国を離れ、スイスへ移住する。
ヤングボーイズ・ベルンで数年指揮を執り、かつて過ごしたMTKの監督に再び就任すると、1925年にはドイツのSCドレスデンへと移籍した。

ホーガンはドイツのクラブと選手たちの為に戦術哲学を紹介して回ったが、表立って知られている以上にホーガンがドイツのフットボールに残したものは大きかった。

彼が亡くなった1974年、ホーガンの息子がドイツフットボール協会より1通の手紙を受け取った。
そこには、「ドイツ近代フットボールの父へ」という文言が添えられていた。

ホーガンがヨーロッパのフットボールに残した目覚ましい影響は、過大評価などでは決して無い。


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1930年代にはドイツ国内の政治状況が危険なものとなったため、再びオーストリアへ戻った。
かつての盟友、フーゴ・マイスルと再び仕事をするためだった。

偉大なるマティアス・シンデラーに代表されるように、オーストリア人選手には大きな成功を収めるための素養が備わってはいたが、ホーガンの目にはナイーヴで自信を欠いているように思われた。

ホーガンはオーストリア人に欠けていた戦術眼を浸透させ、守備戦術として流動的なWMフォーメーションを採用した。
初めてのお目見えとなったのは、1932年12月にスタンフォードブリッジで行われた対イングランド戦だった。試合自体は4-3で敗戦となったが、英国記者たちはこぞって新聞紙に、パスを優雅につなぎながら優れた技術を見せたオーストリア代表のフットボールを褒め称える単語を洪水のように書き付けた。

ひとつの敗北から、ホーガンとマイスルが作り上げるオーストリア・ヴンダーチームの伝説がここに産声を挙げた。


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1930年代を通じ、オーストリア代表はヨーロッパに衝撃を与え続けた。
ホーガンが作り上げた迅速なパス・アンド・ムーヴの戦法は、ハーバート・チャップマンのものと並行してヨーロッパ全土に広がっていき、フットボールの試合における戦術の意味を変化させた。

1934年のワールドカップでは、ヴンダーチームはフリーランニングと中盤の選手によって試合を作り出すホーガン式WMを旗頭に準決勝まで勝ち進んでいった(結果的にはイタリア代表に敗れた)。

彼らは歴史上前例のない、美学に基づくフットボールで勝利するチームだった。


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ホーガンは、そのヴンダーチームの完成を見ること無く、イングランドへ戻っていった。
1934年時点では、かつて所属した2部のフラムで指揮を取っていた。

1年後にはアストン・ヴィラの監督に就任し、ミッドランズに4年間滞在したが、そこではトップリーグからの降格も返り咲きの昇格も経験した。
そして、監督業から身を退く決断をした。

晩年は、ユースチームのコーチとして、ピッチサイドから若手育成に携わり続けた。


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彼は、獲得したタイトルの数という観点からは、決して最も成功した監督とは言えないかもしれない。しかし、フットボールの発展という観点からは最も重要な指導者であったことは疑いようがない。

フットボールの試合を進化させ、戦術面・技術面・フィジカルコンディション面で現代でもなお通低するアイディアの殆どを生み出す触媒となった。

ホーガン無くして我々のフットボールの歴史にはヴンダーチームもマジック・マジャールも存在し得なかっただろう。ハンガリーにベーラ・グットマンが生まれず、アヤックスではミケルスがトータルフットボールを完成することもなく、その思想を継いだクライフがバルセロナで王国を築き上げることもなかった可能性さえある。

そんなフットボールの現在を、想像できるものが果たして何人いるだろうか?


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最後に、黄金時代のハンガリーを率いた名将の言葉を借りて、この途方もない男の放浪の物語を終えたいと思う。


「我々は彼の教え通りプレーした。私達が歴史に刻まれるとすれば、彼の名は黄金の文字で記されるだろう」
─ シェベシュ・グスターヴ (元ハンガリー代表監督)

(校了)

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