フットボールの話をしよう - 3つの「ガグラ」の物語





ジョージア西部に、チャルトゥボという小さな街がある。
ソヴィエト連邦時代には風光明媚な温泉街として知られ、最盛期で年に12万人を超える観光客を集めた。かのスターリンも湯治のために足を運んだという。

しかし、現在では戦火を避けてアブハジアから避難してきた人々の居留地となった。

街の総人口のおよそ4人に1人が国内避難民と言われている。


ソ連崩壊が引き起こした政治的・経済的動乱は瞬く間にコーカサス地方を飲み込んだ。
ジョージアの地に於いては、それはアブハズ人とジョージア人の民族紛争という形で現れた。
1992年に口火を切ったこの紛争は、1994年に停戦合意が成立するまで多くの陣営を巻き込む大規模ものとなり、アブハジア、ジョージア両陣営による民族浄化をも引き起こしてしまった。

現在も尚、諍いの火種は燻っている。


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今回は、物語というより、断章のつなぎ合わせです。
ソ連崩壊後に南コーカサスのある地域で紡がれた、同じ名前を持つ3つのフットボールクラブの短い歴史を追いかけてみようと思います。

元ネタ: Football in Abkhazia – Three Stories from Gagra



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その1 ~FCサムグラリ・チャルトゥボ


チャルトゥボには元々、FCサムグラリ・チャルトゥボという地元のクラブチームがソ連時代から存在している。彼らはソ連崩壊前にはジョージア・ソヴィエトリーグで数度の優勝を飾るなどそれなりの古豪として名を轟かせており、近年では1999年のジョージア・カップ決勝まで進出したこともある。
週末になると、12,000人収容の5月26日スタジアムには多くの観客が押し寄せる人気チームだ。


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そのホームグラウンドに、1990年代の末から、ある同居人の姿が見られるようになった。
新しく設立されたフットボールクラブである彼らは、黒海の北東部沿岸に面するアブハジアの観光都市から「ガグラ」と名付けられた。

FCガグラの面々は寄贈されたデンマーク代表のジャージを身に纏い、地元の学校の校庭で練習を行っていた。彼らは、アブハジアから逃れてきた国内避難民達だった。

短期的なプロジェクトというのが常に財政的な問題を抱えるように、FCガグラはすぐに消滅してしまった。FCサムグラリは未だトップリーグへの帰還を果たすことが出来ていない。


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その2 ~FCガグラ(トビリシ)


遥かコーカサス山脈の尾根を為すシュハラ山中腹より始まり黒海に注ぐ全長213kmのエングリ川は、地政学的にアブハジアとジョージアの国境線を形作っており、川の両岸にはそれぞれの軍隊が駐留している。
この長大な川の上で唯一両岸を繋ぐエングリ橋は、第二次大戦中にドイツ軍の捕虜だった人々が建造したものだという。


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チャルトゥボの「ガグラ」は、アブハジアから逃れてきた人々がエングリ川の東側に作った唯一のフットボールクラブというわけではなかった。
 トビリシに存在するもう一つのガグラ は、アブハジア出身のベシク・チフラゼによって2004年に設立されたものだ。

才能溢れる選手を擁したこのクラブは2004年から2008年の間、ジョージアの2部リーグであるピルヴェリ・リーガで奮闘を続け、08-09シーズンには念願のトップリーグ昇格を果たした。
サプライズはそこで終わらなかった。リーグ開幕戦、前年度王者のディナモ・トビリシを破ってみせたのだった。

10-11シーズンにはさらなる快挙が待っていた。
辛うじてトップリーグに残り続けていたガグラは、ジョージア・カップ決勝で3度の優勝経験を持つFCトルペド・クタイシを破り、ソヴィエト時代から数えると70年近く続くカップ戦の歴史にその名を刻むこととなった。


ガグラは多くの有望な才能も育成したが、その中のひとりがトルニケ・オクリアシヴィリである。
彼はガグラのユースからトップチーム入りを果たすと、ウクライナのシャフタール・ドネツク、ベルギーの名門であるゲンク、そしてロシアのクラスノダールと確実にヨーロッパでの地歩を築き、ジョージア代表チームでも中心的な存在となった。


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ガグラのホームページを訪れると、まず目に飛び込んでくるのが見慣れないグルジア語の文章だ。
そこには「私たちは必ず戻る!」と記されている。
エングリ川の対岸、トビリシという都市にありながら、彼らの存在はアブハジアと密接に結びついているのだ。

ガグラは11-12シーズン、国内カップ戦王者に与えられる出場権を行使してヨーロッパリーグに参加している。
数奇なことに、彼らの対戦相手は同じ「難民のチーム」として知られるキプロスのアノルトシス・ファマグスタだった。彼らもまた、本拠地のファマグスタが北キプロス・トルコ共和国の支配下にあるため、遠く離れたラルナカで活動を続けている。

彼らの監督がアブハジア生まれのジョージア人として90年代のフットボール界を席巻したテムリ・ケツバイアだったことも、合わせて触れて置かなければなるまい。



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その3 ~FCガグラ(アブハジア)~


アブハジアのFCガグラは、2006年に創設された。
創設後は3度のリーグ王者、4度のカップ戦優勝など、非公認ではあるもののアブハジア地域内での成功を謳歌している。

本拠地には、1993年にアブハジア紛争で亡くなったフットボーラーであるダウル・アクヴレディアニの名が冠せられている。

ジョージア人の苗字ではあるが、アクヴレディアニは独立闘争のためにプロフットボーラーを辞めたアブハジアの英雄としてその名が広まっている。

また、このスタジアムにはもう一つ悲惨な戦争の爪痕が残されている。
アブハジア紛争の間、数多くの市民が民族浄化の名の下に大量虐殺されてしまったが、ガグラに暮らした多くのジョージア市民もまたアブハジア軍に殺された。その現場が、このスタジアムだったのだ。
ある報告書によると人質の首を切断した傭兵と兵士は、このピッチの上で生首を蹴ってフットボールをプレーしたと伝えられている。

しかしながらジョージアの国家再建担当大臣は、この出来事を信憑性に欠けるとして公には認めていない。


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フットボールは全世界的な言語の機能を果たし、ある地域においては分断された両陣営に団結を齎す可能性も見せている。
しかし、現在のところジョージアに於いてはその気配は無い。

アブハジアに於ける戦前の緊張状態の到達点の一つがディナモ・スフミの分割だった。

前述のダウル・アクヴレディアニを含むアブハジア側の選手グループは、ソヴィエト・リーグの下部に所属することを望んだ。
もう一方のジョージア側の選手たちは、新たに「ツフミ」の名を付けて、ジョージア国内に創設される新リーグへ移籍していった。

かつてジョージアのU19代表でプレーしたことのあるイラクリ・コルトゥアはガグラやディナモ・キエフ、ラトビアリーグなどを渡り歩いた後、アブハジアのディナモ・スフミに移籍した。
この出来事はジョージア国内で大きな話題となり、彼に対する敵対心が生まれた。

また、これまではヴィタリ・ダラセリアウラジミル・バルカイアウラジミル・マルガニア等多くのアブハジア出身者達がジョージアフットボール史にその名を刻んできたが、現在ジョージアリーグでプレーするアブハズ人は数少ないということは補足に値するだろう。



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アブハジア紛争は多くの人々の生活を破壊し、その魔手はフットボールにも及んでしまった。
破壊されたものを、元通りの形にすることは不可能だ。
しかし、地域に住むすべての人がフットボールを愛し、平和の架け橋になって欲しいと望むのならば。


いつの日か黒海沿岸に聳え立つダウル・アクヴレディアニ・スタジアムでジョージア人もアブハズ人もロシア人もアルメニア人も、ギリシャ人も、声を揃えてこう叫ぶ日が来るのかもしれない。


「ガグラ!ガグラ!ガグラ!」


(校了)

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