フットボールの話をしよう - ビアンキ・カザックの凋落と復活


イタリアのフットボールリーグに明るくない者にとって、近年のプロ・ヴェルチェッリの復活は新聞記事のなかの小さなニュースに映るかもしれない。
だが、熱烈なファンにとっては、2012年にレガ・プロ・プリマ・ディヴィジオーネのプレイ・オフでビアンキ・カザック(イタリア語で白いシャツを意味する)がカルピFC相手に挙げた3-1の勝利は、輝かしい栄誉と論争の絶えない過去を持つ小さな山間地域のクラブにとって目覚ましい進歩となった。

近年は特筆すべき点を持たない状況にも関わらず、プロ・ヴェルチェッリはイタリアのフットボール史を最も大きく彩るクラブの一つと言えるだろう。1908年から1922年の間、彼らは7つのリーグタイトルを勝ち取っている。これはローマ、ラツィオ、ナポリ3クラブの優勝回数の合計と同じものだ。
彼らは当時としては最新鋭の練習方法を駆使して選手たちのフィットネスを整え、さらにアグレッシブなプレースタイルによって殆ど無敵と呼んで差し支えないチームを作り上げた。その時代においては、世界最強だったと考える者もいる。


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体育教師だったドミニコ・ルッピによって1892年に創設されたプロ・ヴェルチェッリ・ジムナスティクス・ソサエティは、当初は体操とフェンシングに特化したスポーツクラブだった。
1903年、フェンサーで地元の高校生だったマルチェッロ・ベルティネッティがトリノへ旅行した際にユヴェントスの試合を観戦し、友人と共にU.Sプロ・ヴェルチェッリ・カルチョを設立した。 
(彼はその後、フェンシングでオリンピックに出場。1908年ロンドン五輪のエペ団体で銀メダル、1924年パリ五輪のサーブル団体金メダルとエペ団体銀メダル、さらに1928年アムステルダム五輪エペ団体で金メダルを獲得し、個人としても1929年にナポリで行われた世界大会のエペ種目で準優勝した。良いアスリートは良いフットボーラーでもあった。)

その年の8月3日、彼らにとっての最初の公式戦が行われた。相手はフォルツァ・エ・コンスタンツァだった。翌年には70kmの距離を自転車で移動して近隣のカステッジオで行われたロンバルディ・カップに参戦した。その旅の途中、ティチーノ川を渡る際に彼らは橋の通行料を払わず進もうとしたものの、橋の警備員にストライカーのセッサだけが捕まり11人分の勘定をさせられるという微笑ましいエピソードも残っている。
結果的に大会はACミランに2-1で敗れはしたものの、街へ戻った彼らは英雄となった。

後にニックネームともなる白いシャツを初めて着用したのもカステッジオの大会でのことだった。とはいえ彼らは当初はしっかり襟と袖が糊付けされた白と黒のストライプシャツを着ていたのだが(明らかなユヴェントスへのオマージュだった)、試合のたびに洗濯に出してきれいに真っ白となったシャツに黒縞を塗るのが面倒になった為、最終的に白いシャツと黒いパンツのツートンカラーで落ち着いた。


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翌月にはアウダーチェ・トリノとの親善試合を行い、後に「ミッドフィールドライン・オブ・ワンダース」(驚異の中盤)と呼ばれることになるピエトロ・レオーネジュゼッペ・ミラノ、そしてギド・アラを出場させた。彼らはベルティネッティと同じ時期にクラブに集結したが、当時のスポーツクラブの会長から「なぜフットボールクラブを作るんだ?」と問われた際、3人を代表してアラは「イタリアの王者になるためです」と答えたという。会長は一笑に付したが、その傲慢な3人組を快く受け入れたのだった。

アラは特異な個性を持っており、多くのフットボールファンよりイタリアフットボール史上最初の天才と考えられている。そのプレースタイルから付けられたニックネームは「ル・エレガンテ・アラ」(華麗なるアラ)。常に創造的で、フェイントを交えた洒落たドリブルで相手を交わし、正確なパスとヘディングで味方を助けた。頑強な肉体も持ち合わせており、すぐにヴェルチェッリの「ワンダース」の中心選手となった。
彼は階段を登るトレーニングのためにアパートでも上のフロアに住み、路面電車を追いかけながらランニングをし、試合には自転車で向かうほどのストイックな選手で、「カルチョは小さな少女のための競技ではない」と言い放った。

その頃までにプロ・ヴェルチェッリは高名な刑事弁護士でもあったルイス・ボジーノがオーナーとなっていた。地元出身で腕の良いフェンサーでもあった彼はジュール・リメとも仲の良い友人であった。ジュール・リメと言えば、後にフランスフットボール連盟会長やFIFA副会長を歴任する人物だ。
ボジーノとプロ・ヴェルチェッリの関わりは長く続き、1937年に彼が亡くなるまでクラブの会長職に就き続けた。彼はカルチョを愛しており、試合で得点した選手にはタバコの褒美を与えたという。

プロ・ヴェルチェッリの練習方法はユニークなものだった。コーナーキックやフリーキックのみの練習を徹底的に行い、ロングボールよりもポゼッションを重要視した。ユースや若手選手を他クラブのシニア選手以上の練習時間で鍛え上げた。イタリアで初めて現代的なトレーニングメソッドを確立した先駆者であった。
彼らの強靭な肉体は試合中でも止められず、「レオーニ」(獅子)とあだ名された。


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クラブはすぐに頭角を現した。1907年にトップリーグへ駆け上がると、1908年から1913年の間の6シーズンで5度のリーグタイトルを獲得する。あまりに強すぎたためか、カザレとのダービーマッチでは銃を持った複数の相手サポーターが観客席からスタジアムへなだれ込み、主将のアラを始めとするプロ・ヴェルチェッリの選手たちが命からがら逃げおおせるという衝撃的な事件も起きたほどだった。

1909-10シーズン、彼らはインテル・ミランに後塵を拝しタイトルを逃したが、これはイタリアフットボール史上最大の事件の一つだと知られている。
その年イタリアフットボール競技連盟は「勝ち点が同点に並んだ場合はプレイオフを実施する」という新ルールを導入した。12勝1分3敗、勝点25(当時は1勝で2ポイントだった)で並んだインテルとプロ・ヴェルチェッリは新ルールの元、プレイオフへ突入した。開催日は1910年4月24日と決定されたが、この日はプロ・ヴェルチェッリ所属の3名がクイーンカップという軍主催のトーナメントへ招集されていた。

プロ・ヴェルチェッリはすぐに日程変更の要望を出したが、連盟とインテルは拒否した。
インテル側はもちろん相手選手の少ない状態で試合を行いたいという目論見があったが、連盟側にも複雑な事情があった。実はこの年、正式にイタリア代表が発足し、その最初の公式戦が予定されていた。その日程取りのため、この日の他に開催可能な日程を見つけることができなかったのだ。
プロ・ヴェルチェッリは連盟への反抗の意思を示すため、ユースチームをこの試合に送り出すという暴挙に出る。殆どが子供で構成されたチームのキャプテンをつとめたのは、わずか13歳のアレッサンドロ・ランピーニだった。試合に出場した選手の中で、彼が最年長だったためだ。

試合は10-3でインテルの勝利で幕を閉じた。

この試合後、プロ・ヴェルチェッリは反スポーツマン的態度のために試合を観戦した群衆から非難を受け、連盟からは試合出場禁止の処分が下されてしまう。しかし、キャプテンのアラと弟のエミリオが自転車でジェノアやフィレンツェ、ローマ、ボローニャ、そしてミラノと各地を転々として署名を集め、連盟に奏上した。
結果、「プロ・ヴェルチェッリの選手をイタリア代表に選出しない」という処分が落とし所となった。皮肉なことに、イタリア代表はプロ・ヴェルチェッリに敬意を表して真っ白なシャツで試合を行うことを決定した。

この禁止処分解除の後、ヴェルチェッリの選手たちは3年間に渡ってイタリア代表を独占した。
1913年5月に行われたベルギー戦では、ピッチに立った11人の内9名がヴェルチェッリより選ばれた選手だった。その試合でアラが決めた決勝点は、いまでも語り草となっている。
試合が60分を過ぎた頃、イタリア代表がフリーキックを得た。相手を欺こうとボール近くでステップを踏んだミラノにベルギーの選手たちが釣られると、最終的にアラが蹴り込んだボールはゴール左隅に収まった。これら一連の、まさにフリーキックの見本のようなプレーが今から100年前に行われていたのだ。
その試合の後、クラブに一通の電信が送られてきた。そこには、「プロ・ヴェルチェッリがベルギーを破った!」と記されていた。

また、既に世界的にプロ・ヴェルチェッリの名が知られるようになったのもこの時期だった。
彼らは国内で成功を勝ち取った後、トリノと合同で1914年に南アメリカツアーを敢行した。彼らは初めて南アメリカ大陸を訪れたイタリアのフットボールクラブとなった。リオ・デ・ジャネイロでボタフォゴやパルメイラス、フルミネンセと試合を行った。


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全盛期を迎えたプロ・ヴェルチェッリの繁栄を阻むものが一つだけあったとすれば、それは戦争だった。
第一次大戦前夜の不穏な空気が現実的に形を帯び始めると、瞬く間にチームを崩壊へと導いた。
アラが射撃手としてモンテ・グラッパ戦線へと送り込まれると、ジュゼッペ・ミラノの弟フェリーチェは西部戦線の塹壕の中でわずか24歳の生涯に幕を閉じた。
得点力あるウィンガーだったカルロ・ランピーニは戦禍を避け、ブラジルへと渡っていった。

ミラノのもう一人の兄弟、アルドもまた戦争の影響で命を落とした。戦後の混乱の中ファシスト団体に加入した彼は、1921年1月、他の武装組織との抗争に巻き込まれて凶弾に斃れた。


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リーグ戦再開後、プロ・ヴェルチェッリは再び息を吹き返した。
1921年にリーグタイトルを奪取すると、22年にはアラ監督指揮のもと連覇を成し遂げる。それは、結果的に彼らにとって最後の聖杯となった。
そのすぐ後、今度はイングランドリーグのタイトルホルダーだったリバプールとの親善試合に招かれる。リバプールはポストシーズンのツアー中で、破竹の勢いで欧州中のトップクラブをなぎ倒していた。
しかしリバプールの才能ある選手たちを持ってしても、「レオニ」相手には引き分けが精一杯だった。
アラは試合後、リバプールへメッセージを送った。
「君たちは今日、我々を倒せなかった。そして今後二度と倒すことは出来ないだろう」
1920年代後半、ヴェルチェッリの凋落が始まった。
イタリアでもプロ制度が導入され、小さな街のクラブは大都市の資本に太刀打ち出来なくなっていった。

アラはコモの監督に就任するために1926年にクラブを去ったが、1932年から34年の間、再びヴェルチェッリに帰還した。彼はその後、フィオレンティーナやローマ、ACミラン、ジェノアといった大都市のクラブへ招聘されることとなる。

アラがクラブに残した影響を糧に、ヴェルチェッリは闘い続けた。情熱を持って練習方法を改良すること、選手間の調和、そして実利的な姿勢といった哲学だった。
それ以上に素晴らしかったのは、ヴェルチェッリには優れたユースシステムが構築されていたことだ。1934年にワールドカップのイタリア代表に選ばれたジュゼッペ・カヴァンナやユヴェントスで活躍したテオバルド・デペトリーニ、更にはヴェルチェッリのために1929年から34年の間127試合で51ゴールを決め、移籍金レコードでラツィオへ移籍したシルヴィオ・ピオラといった名選手を排出し続けた。

ピオラは1938年にイタリア代表に優勝を齎し、セリエA史上最高の274ゴールという金字塔を今もなお保持し続けている。
ルイス・ボジーノはピオラの移籍について、このようなコメントを残した。
「我々がピオラを売ることは絶対に有り得ない。たとえ世界中の黄金を持ってきたとしても、だ。 彼を売ってしまえば、プロ・ヴェリチェッリの沈没が始まるだろう」
結果的に、その予言の正当性を証明したのは他ならぬクラブ自身だった。

1934年のシーズン終了を持ってプロ・ヴェルチェッリはセリエAから降格し、それ以降今日までトップリーグに返り咲くことは一度もない。
待ち受けていたさらなる降格が彼らにダメージを与え、ヴェルチェッリはプロ制度導入の遅れから、時代に完全に取り残されてしまった。その後の数十年間は常に資金との戦いだった。


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2010年の6月末、ついにその時がやってきた。
14万ユーロの負債を抱えていたクラブが翌シーズンのレガ・プロ・セコンダ・ディヴィジオーネに参戦する方法は第三者からの資金援助を受ける以外に無かった。

2週間後、プロ・ヴェルチェッリの名はリーグから除名された。
そしてクラブは彼らの100年以上に渡る歴史を延命させる為、より裕福だった同じ街のライバル、ASベルヴェディエール・ヴェルチェッリと合併することを決断した。

しかし、この決断が一つのターニングポイントとなる。

2010-11シーズンにレガ・プロ・セコンダを3位で終えた彼らだったが、欠員を埋める為に翌シーズンからプリマへの昇格を許される。そして11-12シーズンには2シーズン続けての昇格を勝ち取った。
そこからの数シーズンは降格と昇格を繰り返しながら、なんとかセリエBの座を死守するための苦闘を続けている。

白きシャツのサポーター達の、かつての栄光の日々へと返り咲くという壮大な夢は、まだ始まったばかりだ。

(校了)

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