- リンクを取得
- ×
- メール
- 他のアプリ
1960年代から70年代にかけて散発的な成功を収めてはいたものの、ローマファンが望んでいたものはそれ以上の栄冠だった。紀元前より続く歴史あるイタリアの首都のクラブのサポーターたちは、40年間もリーグタイトルから遠ざかっており、周囲のビッグクラブが次々にその名声を高めていく様子を指を加えて見届けることしか出来ず、忸怩たる思いを抱いていた事だろう。
しかし、その状況は二人のクラブへの加入によって一変する。一人はスウェーデン人の監督で、かつては選手として栄光を築いたニルス・リードホルム。そしていま一人はブラジル人のミッドフィールダー、ファルカン。
このデュオがローマで見せた輝きは今でも語り継がれている。1980年から1984年の短い間、4つのタイトルを齎した。その中でもローマファンが夢にまで見たスクデットの戴冠は当時の状況を考えれば信じられない偉業だったと言える。
◇◇◇
2007年11月5日にこの世を去ったニルス・リードホルム。
10年を経た今、フットボールの歴史に燦然と輝く彼のキャリアの内、最も印象的だった「マジカ・ローマ」を振り返りたいと思います。
◇◇◇
実は、ローマがリードホルムを監督に迎えたのは1979年が最初のことではなかった。
1970年代半ば、4年間に渡ってローマを指揮したが、クラブに栄誉を齎すことはできなかったのだった。ACミランでの輝かしい現役生活を退いた後、数年間はロッソ・ネロに留まり監督としての修練を積んだリードホルムは、イタリア国内の数クラブで研鑽を積み、やがてフィオレンティーナより声がかかる。更に大きな挑戦として選んだのがASローマだった。
その在任時は、1974-75シーズンにチームを3位に導くのが精一杯だったが、1977年に再び戻ったACミランに10度目のスクデットを齎して名声を高めると、改めての挑戦としてローマに帰ってきたのだった。
2度めのローマでの挑戦が最初のときと違ったのは、優勝を可能とする土台が組み上がっていた点だろう。後にリードホルムのチームの中心選手となるブルーノ・コンティ、バルトロメイ、ロベルト・プルッツォ、タンクレディはチームに合流していた。若きカルロ・アンチェロッティがローマに加わったのもこの年だった。
◇◇◇
リードホルムが収めた最初の成功は、1979-80シーズンのコパ・イタリアだった。
準々決勝でACミランを退け、準決勝でテルナーナ・カルチョを撃破すると決勝ではトリノと対峙した。両チームとも試合中のゴールは生まれず結果はPK戦に託されたが、結果的に3-2で11年ぶりの栄冠を勝ち取ったのだった。
しかし、ローマ市民はより大きな成功を切望しており、更に大きな補強として、1980年にファルカンを獲得した。ファルカンはすでにブラジル選手権を3度優勝に導いた名手としてその名を世界に轟かせていた。彼がチームに加入したのは、コパ・リベルタドーレスの決勝を戦った直後だった。
1980-81シーズンに入ると、ファルカンはすぐに中盤でのリーダーシップを取るようになった。能力や技術、チャンスを生み出す嗅覚はワールドクラスで、すぐにチームのアイドルとなった。スタジアムに詰めかけたファンより与えられたニックネームは「ローマの王」だった。
クラブの目標は、勿論の事ながらスクデットの獲得だったが、シーズン終盤における疑わしい判定がその野望を阻んだ。
終盤に首位のユヴェントスと1ポイント差で頂上決戦に臨んだローマは試合終盤にスイーパーを務めていたトゥローネが貴重な先制ゴールを挙げたかに見えたが、線審はオフサイドの判定を出した。得点直後にゴールを認めていた主審も、線審のジャッジを正当として、得点を無効とした。
結果的に0-0のドローで終わった試合の後、連勝を重ねたユヴェントスがスクデットを勝ち取った。 これが、未だに語り草となっている「トゥローネのゴール」と呼ばれる事件だ。
リーグ最少の2敗でシーズンを終えたローマだったが、疑惑の判定によりスクデットには手が届かなかった。この事実はローマ市民のプライドをひどく傷つけ、後々までユヴェントスとの遺恨が残る結果となった。
リーグタイトルを逃しはしたが、ローマはこのシーズン、見事にコパ・イタリア連覇を飾っている。
とりわけファンの心を熱くさせたのは、スクデットを勝ち取ったユヴェントスとの準決勝だっただろう。1試合目、2試合目とも非常にタイトだったが、合計2-1で辛くも決勝へ勝ち進むと同じ昨シーズンと同様トリノとPK戦へ縺れ込む死闘を繰り広げた。
この勝利は、このシーズン限りでローマを去ることになった「ロバ」ことサンタリーニへの最後のプレゼントともなった。13年間で344試合に出場した不屈のキャプテンだったロバは、殆どイタリア代表に選ばれることはなかったが、ローマという街のアイコンだった。
期待を持って1981-82シーズンに突入したローマだったが、結局無冠に終わった。
コパ・イタリアではインテル・ミランに準々決勝で破れて敗退し、リーグ戦では再びユヴェントスの後塵に拝した。それは、ユヴェントスのエンブレムの上に二つ目の星を飾り付ける記念すべき20度目のスクデットだった。
この屈辱は、しかしながら、来るべき魔法のシーズンへの糧となったことは間違いない。
◇◇◇
1979年にローマにやって来て以降、リードホルムと会長のディノ・ヴィオラは着々と戦力を整えてきたが、1982年に彼らが補強したのはチームの根幹となるポジションだった。サンプドリアより獲得したピエトロ・ヴィエルコウッドは汚れ仕事の出来るディフェンダーで、インテル・ミランから引き抜いたヘルベルト・プロハスカはファルカンとアンチェロッティの中盤に更に彩りを与えた。
また、彼らはフットボールに対する姿勢も厳格であり、若いチームに必要だった規律も植え付けることが出来た。
1982-83年シーズンのチームは「グアルディオラのバルセロナに似ていた」と評されることがある。両チームともパスゲームを志向しており、選手のポジションが目まぐるしく変化したためだ。
キーパーのタンクレディの前にはリベロのバルトロメイヴィエルコウッドが陣取り、両サイドからは攻撃的なフルバックだったネーラとマルデラが常に前を狙っていた。中盤ではプロハスカ、アンチェロッティ、ファルカンによるダイナミックで華麗なトライアングルを形成し、前線ではブルーノ・コンティとイオリオの両名が、「マタドール」「爆撃機」など数々の異名を取るロベルト・プルッツォを援護した。
同じ都市にあるライバルチームのラツィオがセリエBで昇格争いをしている中、ローマは1982-83年シーズンでさらなる高みへと飛翔した。リードホルムは流動的な4-3-3のシステムを用い、見事なパスゲームを繰り広げた。
「リードホルムのトレーニングは非常に技術的で、彼はボールを保持することを好んだ」と回想するのは、1970年代にローマで彼の指導を受けたスウェーデン人フォワードのピエリーノ・プラティだ。
「我々は非常に強く、素晴らしいフットボールをしていた」とネーラも続く。彼は右サイドから幾度となく相手ハーフに突撃した。
序盤戦でサンプドリアやピサを破り、開幕6試合目にして首位に立ったローマはユヴェントスやインテルに3ポイント差をつけて独走態勢に入ろうとしていた(当時は1勝で勝点2の時代だった)。その時点では、そのままローマの快進撃が続くかに見えた。
宿敵ユヴェントスに敗戦を喫しカタンザーロやアヴェッリーノといった下位チームにも勝点を取りこぼしたものの、1983年が明けてからも2位のユヴェントスとの3ポイント差を維持し続けていた。
その後も差は縮まらないまま、シーズンは最終盤に突入する。
そして、1983年5月1日に、ローマの優勝をほぼ決定づける出来事が起こる。
インテルとのイタリアダービーの開始前、あるユヴェントスファンがインテルのチームバスにレンガを投げつけた。バスはスタディオ・コミュナーレへ入る途上で、ガラスを突き破って座席に座っていたジャンピエロ・マリーニが負傷してしまった。
試合は通常通り決行され、3-3の引き分けに終わったが、最終的にはユヴェントスへの罰則としてインテルに2-0の勝利が与えられた。
ローマは次の試合で勝点1を挙げれば優勝という状況となり、 次節のジェノア戦がやってくる。
ネーラやプルッツォはジェノアのユース出身で、コンティは2シーズンをグリフォーニで過ごした。
「ジェノアは私の街だ。フットボーラーとしても、男としても、ジェノアで成長した」とプルッツォは述懐する。「だからこそ、ジェノアで優勝することは素晴らしいことだと思った」と。
タンクレディもまた、当時のことを思い出しながらこのように語っている。
「ジェノア戦の前の晩は眠れませんでした」マラッシで必要なものは引き分けのみだったが、ローマはバルトロメイが放った弧を描くクロスボールをプルッツォが頭で相手ゴールに突き刺し、先制点を挙げた。前半終了前にジュリアーノ・フィオリーニに同点弾を許すも、試合終了を告げるホイッスルが吹かれた後、スタジアムに詰めかけたローマファンがピッチ上へ雪崩込んできた。
「試合の日は、通常ではない奇妙な静寂が一日を包んでいました。リードホルムは活発さをチームに求めましたが、我々もまたピッチの上に立つことを待ちきれなかったのです」
「ローマと勝ち取ったこのタイトルは、これまでで最も苦しく、それ故に最も重要な物だった」リードホルムは、後にこのように述懐した。
優勝は、ASローマという首都の一クラブの歴史の中で最も重要だっただけでなく、カルチョの進化を促した鍵となる瞬間だったと数多くの監督たちは考えている。 結果的に2位となったユヴェントスの名将、ジョヴァンニ・トラパットーニは次のように語る。
「ローマのスクデットが重要な出来事だったことは疑いようもない事実だ」
「ローマのスタイルは大きな話題となった。カルチョは常に進化を遂げてきたが、その中でも他に類を見ないものだった」最終的にチームは30試合で16勝11分3敗、勝点43でシーズンを終えた。
市内で行われた優勝祝賀式は非常に大規模で、全ローマ市民がその喜びを味わった。
しかし、彼らの冒険はまだ終わらなかった。
◇◇◇
スクデットは、ASローマにさらなる飛躍のチャンスを与えた。
1983-84年シーズン、彼らは国内王者としてチャンピオンズカップへの出場権を手にしていた。
第1回戦でスウェーデンのヨーテボリを難なく下すと、2回戦ではブルガリアのCSKAソフィアも僅かな点差で退けた。準々決勝で対戦したのは東ドイツより参戦していたディナモ・ベルリンだったが、グラツィアーニとプルッツォ、セレーゾが得点を挙げて合計3-0で準決勝へ進出する。
準決勝で彼らの前に立ちはだかったのは、スコットランドのダンディー・ユナイテッドだ。
第1レグ、ローマより遠く離れた北の地で2-0の完敗を喫し絶体絶命に追い込まれた彼らは、ホームへ戻ってきた際にローマ市民から絶大な声援を得る。その勢いのまま、勝ち抜けに必要だった3点差以上の勝利を3-0でもぎ取ってみせた。
イタリアのクラブが、史上初めてチャンピオンズカップ決勝へ勝ち進んだ瞬間だ。
カップ戦決勝の舞台は、奇跡的なことにローマ市内、スタディオ・オリンピコだった。
現在でもチャンピオンズリーグにおいて、決勝戦の行われるスタジアムをホームとするクラブが決勝まで勝ち上がってくることは殆ど無い。しかし、その幸運をASローマは引き当てることが出来た。
そしてその幸運な彼らの対戦相手は、70年代から80年代のイングランドとヨーロッパを席巻し、その当時すでに3度の欧州王者にも輝いたことのある最強のクラブ、リバプールFCだったのだ。リバプールは、よく知られていた事だが、その時までヨーロッパの決勝で敗れたことは一度も無かった。
しかし、ローマは挑戦者であり、失うものは何もなかった。
スタイルはアグレッシブで魅力的、さらに熱狂的なローマ市民の声援を味方に、絶対王者に挑もうとしていた。決戦は1983年5月30日に訪れた。
試合のホイッスルが吹かれると、リバプールは老獪に立ち回った。彼らは70,000人近いローマの群衆に臆すること無く、自陣に深く陣形を作り出し、ローマにフラストレーションを与えた。
最初に口火を切ったのは、レッズだった。前半13分、グレアム・スーネスとサミー・リーのパス交換からクレイグ・ジョンストンへボールが渡ると、右サイドよりハイクロスが中央へ送られる。
タンクレディが対処ヘ向かうも、手よりこぼれ落ちたボールをフィル・ニールがゴールへ押し込んだ。
しかし、前半終了間際の前半42分、ローマは"マタドール"プルッツォの大会5点目となるゴールにより、同点に追いついた。
後半に入るとリバプールを横目にローマが中盤を制圧するも、英国王者でありリーグカップも制して「カップ・トレブル」を狙っていたリバプールの固いディフェンスを攻めあぐね、膠着状態に陥ってしまう。いくつかのチャンスと熱狂の後、試合は1-1のままPK戦に突入した。
リバプールのゴールマウスを守ったのは、トリッキーな守備のブルース・グロベラーだった。
彼は相手キッカーへプレッシャーを与えるため、ゴールマウスの中で絶えず茹でたスパゲティーのような動きを見せていた。
結果的に、コンティとグラツィアーニがペナルティを外してしまい、4-2でリバプールが4度目の欧州王者を戴冠した。
ローマにとって、それは悲劇的な事だった。
初めてのヨーロッパの決勝で場所は自らのホームグラウンド、最後はペナルティまで進んだものの、栄誉はするりと指の隙間からこぼれ落ちてしまった。この敗戦は、クラブの歴史に最も苦く、悲しい日として刻まれることとなった。
◇◇◇
チャンピオンズカップだけでなくリーグ戦も準優勝で終えたローマにとって、唯一の慰めはコッパ・イタリアの優勝だった。ACミランを準々決勝で、トリノを準決勝で下すと、決勝はヴェローナとの対戦だった。
第1レグはヴェローナホームで1-1のドロー、次戦では1-0で勝利を挙げ、直近5年間で3度目となる国内カップを天高く頭上に掲げた。
そして、この瞬間がリードホルムと彼が作り上げたローマにとっての、最後の偉大な瞬間となった。
◇◇◇
チャンピオンズカップの敗戦は、癒えない傷をローマに与えてしまったのかもしれない。
リードホルムは1984年限りでローマを退団し、ファルカンも1984-85年シーズン終了後に母国ブラジルへと帰って行った。1985-86年シーズンや90-91年シーズン、単発的にコッパ優勝を重ねるも、その後21世紀になるまで、かつての栄誉の座に彼らが返り咲くことは無かった。
しかし、リードホルムが築き上げた魔法のようなローマは、未だにセリエAの歴史、そしてローマ市民の心に強烈に刻印されている。
その輝きは、悠久の都たるローマで、やはり永遠不滅の伝説を作り出したのだ。
(校了)
コメント
コメントを投稿
気が向いたらコメントをお願いします