とあるフットボーラーの肖像 - 確かなものはない チャールズ・オヘイガンとセビージャFC


最高の物語とは、往々にして信じがたいものだ。逆説と矛盾に彩られた全体像の中に、ほんの僅かな論理性と天才のひらめきが入り込む。ストーリーラインには謎の提示と解決策、そして突然の苛立ちと悲しみがアクセントを加えるだろう。

世界中を遊歴したチャールズ・オヘイガンのおとぎ話は、まさにそれに尽きる。今日はそんな話をしよう。ドニゴール生まれでセビージャ史上初の外国人監督となった、彼の奇妙な物語だ。

彼を風雨のバンクラナから太陽と青空の南スペイン、アンダルシア地方へと誘った運命は、多くの隠し事と混沌と誤解を孕んでいる。

元ネタ: THE MYSTERIOUS CAREER OF CHARLES O’HAGAN, SEVILLA’S FIRST FOREIGN MANAGER


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アイルランド大飢饉の傷も癒えぬすぐ後の難しい時代、食料雑貨商の父が築いた比較的裕福な家庭に生まれたオヘイガンは、デリー市内の聖コロンブス単科大学付近の学校に通い、フットボーラーとしての頭角を現した。今はなきセント・コロンブス・コートFC1901-02年シーズンを過ごし、すぐ後にデリー・セルティックFCへ移籍した。

オヘイガンの生来の冒険心は筋金入りで、齢20にして地元を離れ単身リバプールへ移動するとオールド・ザヴェリアンズFCでキャリアを続け、すぐ後にエヴァートンへ移籍することになる。この時点で彼がプロレベルで通用するかどうかは、全く不明なことだった。エヴァートンでトップチームでの出場機会を得られず、当時はフットボールリーグに所属していなかったトッテナム・ホットスパーより声がかかるとロンドンへ居を移す。

スパーズでは当時アイルランド代表だったジャック・カーワンと息の合ったコンビネーションを見せて攻撃を牽引した。彼は後にアヤックスとリヴォルノを率い、ヨーロッパで監督としての地位を確立する男だ。北ロンドンで実力を示し、後に11試合出場することになるアイルランド代表としての初キャップをスコットランド戦で刻んだオヘイガンは、翌月にベルファストのホームゲームでのウェールズ戦にて代表初ゴールを決め、チームを2-2のドローに導いた。

急にキャリアが順風満帆になると、彼は性急で電撃的とも言えるミドルスブラへの移籍を決断する。結局その決断は誤りで、ノースイーストで上手く行かず、数ヶ月後に今度はスコットランドのアバディーンへと移った。

ピットドリー・スタジアムで過ごした4年半は、彼にとっては一つのクラブ・一つの都市で過ごした最長の記録だ。ウィンガーのウィリー・レニーと強力な攻撃陣を形成すると、アバディーン史上初めて代表選手に選ばれた選手となった。1907年に、再びウェールズ相手に、代表通算2ゴール目を決めた。


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グリーンノック・モートンFCとグラスゴーのサード・ラナークFCに短い間在籍し、プロ通算50ゴールを決めると、オヘイガンは突如選手生活にピリオドを打つ。

特に大きな怪我もなかった31歳の選手がこのタイミングで引退するのは、前代未聞のことだった。当時、殆どの選手は40代までキャリアを続ける時代だった。しかし、オヘイガンは普通の男ではなかった。自らのルールに生き、慣れや惰性とは無縁の人間だった。

彼のキャリアで珍しいことではなかったが、引退後の2年間はどこで何をしていたか全く不明だ。しかし1915年の3月にラインスター連隊の少尉として第一次世界大戦に参加したことは判明している。ハイランド軽歩兵隊と共にフランスとベルギーへ向かった彼は、多数の死者が出る戦闘の中、運良く九死に一生を得る。 

戦争終結後の数年間、彼がどこで何をしていたかは、やはり不明だ。再び彼の名が歴史に浮上したのは1920年の奇妙な論争の際だった。オヘイガンはかつてのアバディーンのチームメイト9名とともに、法廷に召喚された。12年前、スコティッシュカップ決勝のセルティック戦で15ポンドの賄賂を受け取ったという容疑のためだった。4週間に渡る法廷陳述ののち、彼は新聞に広告を掲載した。それは「これは全くのデタラメで、悪意と中傷に満ちたものだ」という内容だった。

その年、突如オヘイガンはノリッジシティの監督に就任した。ノリッジはフットボール加入初年度のチームで、彼は前任のフランク・バックリーが給与待遇面でクラブ上層部と揉めてコーチングスタッフ諸共引き連れ辞任してしまった後釜となった。

彼の監督キャリアは、逆風の中で船出した。11月までカナリーズに勝利を齎すことが出来ず、翌年1月に解任されてしまう。21試合を率い、勝利は僅か4つのみだった。

そしてまた、おなじみの空白期間だ。


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2年半に渡って消息を絶った彼の名は、なんとセビージャの地元紙であるエル・リベラルの紙面に踊った。エル・リベラル社は紙面の多くを割いて、次のようなコメントを掲載した。


「私たちは読者諸氏に素晴らしいニュースを提供できることを光栄に思います」

「長期にわたる監督探しの末、セビージャFCは新たなトレーナーと契約することに成功しました。その人物とはチャールズ・オホーガン氏であります。非常に経験を持つアイルランド人のフットボーラーであり、トッテナム・ホットスパーやエヴァートン、ハダースフィールドなど英国の重要クラブでキャリアを積みました。トッテナムでは昨シーズンのFAカップ決勝戦に出場したこともあります」

「熱烈な推薦を受けてオホーガン氏はこの職に就きます。このような経験あるトレーナーを得て、セビージャFCは最高水準のフットボールへ到達しうると私たちは確信しています」

「セビージャFC取締役会に、我々は心よりの祝福を申し上げます。彼らはセビージャのフットボールを盛りたてるため、最大限の仕事をしてくれました」

「後は選手たちの努力次第です。クラブが行ってきたこの献身的な投資に対し、選手たちはオホーガン氏の方法論を受け入れる情熱が必要です。彼らがそれを身につければ、短期間でオホーガン氏の仕事は実を結ぶでしょう」

この報道自体は驚くべきものだ。バンクラナから来たアイルランド人が素晴らしいキャリアを携えて、スペインで二番目に古いクラブの監督職に就くというのだから。しかし、それはあくまでクラブ側の見方である。

この記事には事実誤認が多数含まれている。そもそもオヘイガンのスペルは「O'Hogan」(オホーガン)ではなく「O'Hagan」だし、彼はハダースフィールドでプレーした経験もなく、スパーズでFAカップ決勝に出場したこともない。スパーズがFAカップ決勝に出場するのは彼がクラブを去って14年後のことで、その頃彼はノリッジで指揮を執っていた。しかも、昨年まで選手であったという記述もある。

それらのミスが何故起こってしまったのか、判別することはもはや不可能である。単純に翻訳時のものなのか、それともオヘイガン、もしくは彼の関係者がセビージャを勇気付ける為に盛った出任せなのか。しかし、なぜオヘイガンに白羽の矢を立てたのか?そして、オヘイガンはなぜセビージャを選んだのだろうか?


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スペインのフットボールは、歴史的に見て英国の影響を色濃く受けているのは事実だ。その証拠に、選手たちは監督を「ミステル」と呼ぶ。スペイン史上初めてのフットボールクラブであるレクレアティーボ・ウェルバはリオ・ティントの鉱山で働いていた二人のスコットランド人によって設立されたものだ。国内最初の試合はレクレと近隣のセビージャの間で行われ、このスペイン最古のクラブと二番目のクラブがスペインでのフットボールの繁栄を牽引してきたことは言うまでもない。

セビージャもまた、スコットランドとのつながりを強く持ってきた。ヒュー・マッコルはクラブ初のキャプテンとなり、エドワード・ファーカーソン・ジョンストンは設立時の会長だった。ジョンストンは商船会社マック・アンドリュースのオーナーでもあり、セビージャのオレンジをイングランドに輸出していた。当て推量だが、ここにオヘイガン監督就任の鍵があるのではないだろうか。彼はマージーサイド時代、一時的に果物商を営んだ事があった。

フットボールの母国たる英国と強いつながりを築いたのは、なにもアンダルシア地方のクラブだけではない。カンタブリア州のラシン・サンダンデール(オヘイガンのセビージャでの最初の試合で彼らを下すことになる)もその一つだ。1920年に英国人のフレッド・ペントランドが監督に就任すると、2年後の1922年にはアイルランド人のパトリック・オコンネルがその後を継ぎ、7年の長きに渡って在任した。ペントランドはその後アトレティコ・マドリーやレアル・オヴィエドなどスペイン国内の他クラブを転々とし、オコンネルはラシンに5つのタイトルを齎し、1928年にはラ・リーガ創設メンバーにも加わる。

スペインのフットボールは当時まだ産声を上げたばかりで、1929年にカンペオナート・ナシオナル(後のラ・リーガ)が発足するまでは国内リーグ戦も戦っていなかった。クラブは各地で歴史の幕を開きつつあったが、国内は複数の文化・国民性が存在しており、フットボールへの温度差が存在した。セビージャは、アンダルシア地方でいち早くこの球技を始めただけのことだった。

コパ・デ・アンダルシアの名で知られる地域カップ戦は1940年の第二次大戦勃発までの間20度争われたが、セビージャが17回優勝と圧倒的な成績を収めており、レクレアティーボとエスパニョール・デ・カディスレアル・ベティス・バロンピエがそれぞれ1度ずつ、セビージャの間隙を縫う様にタイトルを奪ってきた。この時代、アンダルシア地方の覇権はセビージャが握っており、優秀なアイルランド人監督の就任はさらにそれを加速させるものだっただろう。

セビージャのホームグラウンドはカンポ・レイナ・ヴィクトリアという地元貴族の所有するスタジアムで、クラブのファンからは「エル・カンポ・デ・ラ・ヴィクトリア」(勝利のフィールド)と呼ばれていた。当時のスペインでは最もモダンなスタジアムで、木製のテラスと小規模のスタンドを持っていた。長きに渡って、オヘイガンの主戦場となる筈だった。

しかしながら、このアイルランド人は結局1シーズンしかセビージャに滞在しなかった。コパ・デ・アンダルシアのカップはレアル・ベティスを4-2で下して予定通り手中にしたものの、コパ・デル・レイの準々決勝でバスク地方のレアル・ウニオンに敗れて敗退してしまう。レアル・ウニオンは結局そのシーズン、コパ・デル・レイを獲得した。ラ・リーガ創設にも名を連ねた往年の古豪だった。

セビージャの外国趣味は、監督選びに限られたものではなかった。彼らはポルトガルやイングランド、ポーランド、チェコスロヴァキアのクラブと親善試合を行った。そして次の夏、オヘイガンは突如クラブを去った。その理由は、公にはされなかった。「彼のワインへの愛情ほど監督への愛情が及ばなかったからだ」と嘯くファンもいるが、いずれにせよ、真相は霧の中だ。


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オヘイガンはセビージャでの職を辞すと、地元にほど近いアイルランドのリゾートビーチであるポートラッシュへと居を構えた。出身地のバンクラナからはおよそ50マイルほどの距離だった。しかし、その平穏な生活も長くは続かなかった。


「ポートラッシュにいる間、私はベルリンでもよく知られたフットボールクラブの監督職の求人広告を見たんだ」

「応募すると、素晴らしいオファーが舞い込んできた。私はすぐに受けたよ。それはペルシア国内でも裕福なアマチュアクラブでの仕事だった。ベルリンでの最初の夜は丁重に歓待されたよ。しかし、次の日から些細な嫉妬が始まったんだ」

彼はアバディーンのプレスに、「オヘイガンの苦境」というタイトルで特集記事を組まれ、次のように語っている。

曰く、彼は監督就任にあたり、英国軍在籍時の過去と第一次大戦中の戦闘について質問を受けたという。詳細を伝えると、契約合意はすぐにキャンセルされてしまった。アバディーンかポートラッシュへのチケットを要求した所、ロンドンへ行って担当者と会い、その人間から帰り道の交通手段について話をしてくれと伝えられた。しかし、彼の言葉を借りるなら「そんな人間は存在しなかった」。

ベルリンにおける一連の出来事の信憑性が怪しいにせよ、これはオヘイガンにとって屈辱的な出来事だった。謎に包まれ、常に移動を好み、フットボール面において自らの潜在能力を高めながら様々な都市や文化を経験しようとするのが彼の性質で、それは賞賛されるべきものだ。

先に触れた同郷のオコンネルは、スペインの地で確実な地歩を築いた。ラシン・サンタンデールでの監督職の後、アンダルシア地方の異なる3つのクラブで指揮を執った。1934年にベティスでクラブ史上最初にして現時点で唯一となるリーグタイトルを勝ち取ると、セビージャでもまずまずの成績を収めた。このダブリン生まれの男は、結果的にスペイン国内7クラブを渡り歩き、数多くのタイトルを勝ち取った。そしてそのうちの一つであるバルセロナFCの在任時、スペイン内戦が勃発するとクラブを率いて北米大陸を横断する大きな旅に出ることとなった。

祝福されざるドイツへの旅行がオヘイガンに残したものは、空の財布と、彼のフットボールキャリアの終焉だった。ベルリンで受けた不名誉な扱いの後、彼はフットボールとの関わりを絶った。現存している限り1924年にセビージャを去って以降の公式記録は何も残されていない。オヘイガンが報道記者へ転向したという不確かな情報もあるにはあるが、仕事に関するいかなる記録、著作、存在は残されていない。別名を使ったという可能性も限りなく無に近い。

1928年、彼はデリーからニューヨークへの航海旅行を計画し、自らの人生の再起をかける。この大西洋横断は彼の遊牧民的人生に完全に合致していた。


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オヘイガンの短期的な性格は、彼の人生にも現れた。短くも印象的なオヘイガンの生涯は、1931年、マンハッタンで突如として終わりを告げる。49歳の若さだった。

3年をニューヨークの街で過ごした彼は、もしかしたら永住の地を見つけたと感じたかもしれない。しかし、それは彼のあり得べからざるおとぎ話のように、碓かなものでは決してないのだ。

(校了)

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