とあるフットボーラーの肖像 - もう一人の"シャンクリー"

 
ウィリー・ソーントンデンズ・パークを去った後、ダンディーの新たな監督探しは幾人かの最終候補者に絞られていた。そのうちの一人は当時ハダースフィールドで指揮を取っていたウィリアム・シャンクリー、すなわち後にリバプールで伝説となるビル・シャンクリーその人だった。

しかし結果的に、ダンディーの新監督の座を射止めたのは彼よりも3歳長兄であるボブ・シャンクリーだった。ボブの温厚で威厳ある佇まいは、首脳陣に彼を選ばせるに足るものだった。

歴史にifは存在しないが、もしもこの時ビルが勝利していたならば、フットボールの歴史はどのように動いていただろうと夢想することはフットボールファンとしての自由であろう。もしビルがリバプールに行かなければ、そして、もしボブがダンディーの監督にならなければ。──「どちら」の伝説も水泡に帰していただろうか?


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現在ではビル・シャンクリーは世界で最も有名な監督の一人だが、彼に4人の兄弟がいた事は僅かな者にしか知られていない。彼らは全員プロのフットボーラーとしてフィールドに立ったことがある。

今回は、そのうちの一人、ボブ・シャンクリーについて話そう。


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「私は個性を重要視する。野郎どもには根性と闘争心を求める。上手く行かないときにも、絶対に諦めないというね」

これはボブが選手たちに求める資質を最もよく現した言葉だろう。
元々は彼が所属した地元チーム、グレンバック・チェリーピッカーズのモットーであったが、ボブはそのエッセンスを濃縮に抽出し、監督としてのアイデンティティへと昇華した。

スコットランド南西部に位置するエアシャー県グレンバックに生まれたボブは、少年時代にフットボールに魅了され、オーチンレック・タルボットFCで自らのキャリアを開始した。すぐ後にグレンバック・チェリーピッカーズへ移籍すると才能を開花させ、アロア・アスレティックFCでシニアクラスの地歩を築き始めた。

アロアへの移籍前、テストマッチでハットトリックを決めて実力を示したもののエアー・ユナイテッドFCへの入団を断られるという逸話も残している。

その後アマチュアクラブを経てフォルカークへ移籍すると、そこで現役生活を引退した。

エアシャー出身の多くの労働者と同様ボブやその他の兄弟も全員が炭鉱夫として働いておりフットボーラーは片手間の労働だったことは、ボブやビルの人となりを理解する上で重要なことだろう。

現役引退後はステンハウスミュアFCでコーチとして監督業を開始。
その後、現役を退いた第二の地元であるフォルカークの監督に就任した。そこで7年間に渡って鍛え上げたチームは、彼が退いた翌シーズンに英国人のレッグ・スミスに引き継がれ、スコティッシュ・カップのタイトルを獲得した。
決勝戦は最初の90分では決着が付かず、リプレイでも120分に及ぶ死闘だった。


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ボブの次の宿り木は南グラスゴーのサード・ラナークACだった。
サード・ラナークはスコットランド国内では由緒あるクラブで、1872年にサード・ラナーク・ライフル自警団のメンバーによって創設された。元々はクイーンズパークFCの本拠地だったカスキン・パークを、彼らが新たなハムデン・パークに移動する際に引き受けた。
しかし1967年に活動を休止して以来、歴史の表舞台からは姿を消し去ってしまった。

カスキン・パークは今日ではかつての栄誉をわずかばかり伝えるリマインダーとして機能している。グラスゴーの市街地の真ん中にひっそりと佇む公園の中には公営のフットボールグラウンドが存在しているが、テラス席は申し訳程度に見え隠れするのみだ。

20世紀初頭にはリーグタイトルを獲得するなど強豪クラブであったサード・ラナークが、彼らの歴史で最後に輝きを放ったのが、ボブ・シャンクリー在任後の事だった。フォルカークのときと同様、数年に渡ってボブによって鍛え上げられたチームは、彼が去った翌シーズンにリーグ・カップの決勝戦へと上り詰めた。

ボブが指揮したサード・ラナークは、何人かの指揮者にも影響を与えたと言われている。その一人が、後に英国のクラブとして初めてヨーロピアン・カップを制することとなるジョック・ステインだった。彼は監督生活の中で、ボブへ助言を求めることがあったという。

フォルカークで培ったボブの知性と経験は、ボブの次の職場となるデンズ・パークでも大いに役立つことになる。


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1959年の監督就任後、数年の雌伏を経てボブは"ザ・ディー"にタイトルを齎した。
それがダンディーにとって史上唯一のリーグタイトルだった。

アイスランドへのプレシーズンの遠征を完璧な形で締めくくったダンディーは、栄光のシーズンに相応しい「グローリアス・トウェルフス」の8月12日にリーグカップ1回戦でシーズンを開幕した。対戦相手はエアドリーオニアンズFCだったが、開始わずか3分で先制すると後半にも追加点を決め、幸先の良いスタートを切った。

当時のリーグカップは9グループ各4チームで予備選を行い、各グループの首位チームとワイルドカードのチームでトーナメントを闘う形だった。残念ながらダンディーはこのコンペティションではレンジャーズに後塵を拝する形でグループ2位に終わり、トーナメントへの進出は叶わなかった。

リーグ戦の開幕は8月23日、ブロックヴィルでのフォルカーク戦だった。
この試合の4日前にリーグカップのサード・ラナーク戦で3-2の敗戦を喫したが、ボブは選手たちを信じて同じメンバーを揃えた。
夏にハーツからフリーで獲得した37歳の熟練ウィンガー、ゴードン・スミスがいつものスタイルでゴールをこじ開けると、更に2ゴールを重ねて3-1の勝利を飾った。

レンジャーズと首位の地位を争いながら、宿敵ダンディー・ユナイテッドやハーツ、キルマーノックといったクラブに勝利を重ねていくと、気づけば秋の木枯らしが吹き始める季節となっていた。2試合消化の多かったレンジャーズから勝点5差で迎えた11月。
シーズンを占うオールド・ファームとの2連戦が待ち構えていた。

11月4日にデンズ・パークで行われたセルティックとの試合は、最後までもつれた熱戦となった。ボビー・ウィシャートが開始8分に挙げた先制ゴールでリードを奪うも、ボビー・キャロルの同点ゴールで試合は振り出しに戻る。
試合が決定付けられたのは終了間際。アラン・カズンからアラン・ギルジーンへと渡ったボールはゴールネットに吸い込まれた。2-1でダンディーの勝利だった。

次節のレンジャーズ戦では頂上決戦ということもありアイブロックスに1000人以上ものダンディーファンが駆けつけたが、現地の天候は霧。試合開催そのものが危ぶまれた。天気予報では正午までに霧が晴れるとのことだったが、実際にはそうならなかったのだ。
ダンディーファンを乗せたバスは警察によってスタジアムから1マイルほどの場所へ退去を余儀なくされた。

キックオフの30分ほど前になり、ようやく霧の状況が最悪から脱した。主審が試合開始を決定したのはわずか後のことだった。ダンディーの選手たちのコンディションは最高で、自信に満ちていた。しかしレンジャーズのスターティングラインアップには7人の代表選手が含まれており、21試合無敗の記録を続けていた。さらにリーグカップでも優勝を飾っていた。

試合開始の午後3時時点では、まだ霧が立ち込めておりテラス席からの視界は不安定だった。前半終了時点でスコアレス。試合も膠着状態に陥るかに見えた。

ボブは相手方の左サイドハーフを務めていたジム・バクスターに守備の負荷をかけるため、自軍のサイドアタッカー、アンディ・ペンマンにより攻撃的な位置取りをするよう、ハーフタイムの間に指示を出した。
その策はすぐに奏功し、 ギルジーンがペンマン、カズンとのコンビネーションでゴールをこじ開けた。その直後、ギルジーンはまたしてもゴールを決めるも、霧が濃くピッチ上の選手はそのことに気づかなかった。

ギルジーンはその後も2得点を挙げ、蓋を開けてみればレンジャーズ相手に5-1の大勝となった。得点差以上に重要だったことは、レンジャーズの無敗記録を止めてみせたという事実だった。


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ボブ・シャンクリーはそれでも、まだ自軍がタイトル候補であると完全に自信を持っていたわけではなかった。その不安は翌週、レイス・ローヴァーズ戦で的中した。

レンジャーズ戦の勝利に気を良くしてスタジアムに詰めかけた15,000人の観衆を前に、ダンディーは大きな失態を演じてしまう。お互いにシーソーゲームを繰り広げる中、気づけば残り7分で2-4と敗戦濃厚な状況となる。レイスは当時、最下位より少し上の順位で苦しんでいるチームだったにも関わらず。

ボビー・サイスは後に、この時のことを以下の様に述懐している。

「思えば、あれがタイトルを取る鍵となった瞬間だったのかもしれない」と。

「ダンディーは絶対に諦めない姿勢を持っていた。 疑いようのない実力が我々に備わっており、敗戦間際の崖っぷちでも勝利を拾えるんじゃないかと皆が思っていた」

反撃の狼煙を上げたのはウィシャートだった。 凄まじいシュートで1点を返すと、すぐ後にサイスがエリア外からのロケット弾を相手ネットに突き刺す。試合は残り4分だ。
そして、ホイッスル間際にレイスにとどめを刺したのはゴードン・スミスだった。

最終的に、5-4での勝利となった。

シーズン終了後、ボブは「あれがナンバーワンの試合だった」と語った。

「ダンディーのひどい試合ぶりと”ラスト・ガスプ”の決勝弾はこれまでのシーズンすべてを通しても最高の栄誉だっただろう」

この前週のアイブロックスでの大勝、そしてレイス戦での起死回生の勝利は、ボブにチャンピオンへの確信を持たせるものとなった。


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その指揮官の期待に答えるように、選手たちは次々と勝ち星を重ねていく。
レンジャーズとの首位争いは依然熾烈を極め、けが人などの影響により一時は5ポイント差まで引き離されたものの、3月31日のスターリング・アルビオン戦で勝利して遂に首位の座を奪った。抜きつ抜かれつ、一進一退の攻防だ。

イースターの祝祭が聞こえる頃、いよいよシーズン終了が近づいてきた。
復活祭の祝日に、お互いのリーグ戦が行われた。レンジャーズはパークヘッドでセルティックと、ダンディーはアウェーのダンディー・ユナイテッドと。
残り3試合、勝点差はわずかに1。
絶対に負けられない、ライバル同士の対戦だ。

ユナイテッドの本拠地、タナディス・パークには20,000人を超える観客が押し寄せた。
試合はユナイテッドはジム・アーヴィンのゴールで先制するも、ギルジーンが前半間際に同点弾を決める。後半は膠着状態が続き、引き分けで終わるかに見えた試合を変えたのは、やはりギルジーンだった。25ヤードの距離からのロングシュートは雷鳴の響きを伴い、相手ゴールに吸い込まれていった。

勝利に沸くダンディーの選手たちに知らされたのは、オールド・ファーム・ダービーが1-1で終了したという情報だった。
両チームの勝点は並び、得失点差でレンジャーズが上という紙一重の状況だった。

次節のセント・ミレン戦、1-0でハーフタイムを迎えると、ドレッシングルームに朗報が飛び込んできた。レンジャーズがアバディーンに0-1で負けているという報せだ。
このまま行けば、2ポイント差で上回り最終節を迎えることが出来る。引き分け以上で優勝という状況だ。

しかしながら、試合は簡単には終わらなかった。残り17分、主審はセント・ミレンにペナルティを与えた。ダンディーの選手たちの猛抗議は実らなかった。

セント・ミレンで主将を務めたジム・クルーニーがペナルティスポットに立つ。
ダンディーのゴールキーパーはパット・ライニー。その瞬間、ライニーは父親のアドバイスを耳朶に響かせていた。

「もし、クルーニーがペナルティを蹴ることがあれば」

ライニー・シニアは熱狂的なミレンファンで、各選手の特徴を知り尽くしていた。

「 もし、クルーニーがペナルティを蹴ることがあれば、迷わず右に飛べ」

──かくして、中空に放たれたボールはライニー・ジュニアの掌中に吸い込まれた。

その後、ペンマンがゴールを決め、2-0で勝利をもぎ取った。
レンジャーズはそのまま"ドンズ"に破れた。

そして1962年4月28日、ダンディーFCにとって史上最高の日が訪れた。
20,000人のファンの前で、セント・ジョンストン相手に3-0の勝利を飾ると、ダーク・ブルーズはリーグタイトルを勝ち取った。


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来る1963年、リーグタイトルホルダーとしてダンディーとボブはさらなる高みを目指した。ヨーロピアン・カップへの挑戦。それは栄光ある敗戦の記憶だ。

ボブが築き上げた強固なチーム組織と前線のタレント達は、面白いように得点を積み重ねていった。
「守備的な組織を築き上げた我々がダンディーに勝つ」と豪語したケルン相手にホームで8-1の勝利を飾ると、その後もポルト相手に4-1、アンデルレヒト相手にアグリゲート6-2と攻撃的なフットボールで欧州の強豪を薙ぎ倒していった。

しかし、慣れない欧州での戦いは確実にダンディーの選手たちを蝕んだ。
冬の寒さに加え、過密日程でほぼ毎週のように週2試合を重ね、特に高齢の選手たちは調子を崩し始めたのだ。 リーグ戦での不安定さが目立つようになった。

ミラノへのフライト数日前、マザーウェルとの試合中にボビー・コックスが膝の軟骨を損傷した。ダンディーの歴史上もっとも重要な試合の一つが控える最中、彼を失う事はボブにとって大きな痛手となってしまった。

ACミランは往時驚異的な強さを誇っており、イタリアやブラジル、ペルーなど各国の代表選手をスカッドに加えていた。その中には後に監督として名声を博すジョバンニ・トラパットーニや、ミランのレジェンドとなるパオロ・マルディーニの父チェーザレ、更にはブラジル代表からアッズーリに転身を遂げたジョゼ・アルタフィーニ、若かりしジャンニ・リベラと錚々たるメンバーが揃っていた。

ジュゼッペ・メアッツァに詰めかけた想定外の78,000人の観衆のため、試合は13遅れでスタートしたが、すぐにスタジアムは熱狂の渦へ変貌する。ジノ・サニの開始3分のゴールでACミランが先制したのだ。

ダンディーは、しかし持ち前の反骨心を存分に発揮し、反撃に出る。ペンマンから放り込まれたクロスにカズンが飛び込み、23分に同点。試合を振り出しに戻すと、そのままハーフタイムへ突入する。

ダンディーの選手たちは異国の地でナーバスになっていたわけではないが、普段めったに経験しない大スタジアムでの戦いは今までに無い経験を選手たちに与えていた。
バート・スレイターは、観客や取材陣が試合中に炊くカメラのフラッシュでボールが全く見えない、とボブに告げた。すぐさまボブはイタリア側のオフィシャルやスペイン審判団にそのことを伝えに行ったが、相手にされなかった。

また、ゴードン・スミスやギルジーンはミラン側の凶悪なタックルに悩まされていたが、主審は黙認していた。試合の数週間後、ダンディーの選手たちが審判団からアンフェアな扱いを受けていたのではないかという疑惑が上がったほどだった。しかし、当時は現在のように衛星中継がなく、だれも試合の状況を確認することは出来なかった。

後半が始まると、すぐにパオロ・バリソンブルーノ・モーラのゴールでACミランがダンディーを突き放す。しかし、両ゴールとも疑問の残るものだった。
バリソンのゴールをお膳立てするクロスを上げたヴィクトル・ベニテスは明らかにラインを出ていたし、モーラの得点時にはアルタフィーニは完全なオフサイドポジションに立っていた。当初は主審よりオフサイドの判定が降ったが、ラインズマンがそれを取り消したことで変更されてしまったのだった。

こうなると為す術の無いダンディーは、立て続けに更に2ゴールを決められ、5-1の大敗を喫した。

ミランの上げた5ゴールはすべてハイボールから生まれたものであり、通常ならダンディーの選手たちは十分に対応できたはずだった。主将のボビー・コックスの不在も大きかった。選手たちは、ミランは確かに素晴らしいがケルンやアンデルレヒトほどじゃない、と感じていた。そして、7日後に本拠地へやってくるイタリア人たちへのリベンジを、心に誓った。

セカンドレグの舞台となるダンディーのスタジアムへ、38,000人もの観衆が集った。
ボブはピッチ上に、ジュゼッペ・メアッツァと同じメンバーを立たせた。
ボビー・コックスは手術明けで戻ってくることができなかったため、再びサイスにアームバンドを巻かせた。そして、ACにミランが深く引いて守ってくることを予測し試合序盤から次々と攻撃の手を繰り出していった。

相手が度々ファウルを犯して試合を中断してきたため、いつものような流れる攻撃を披露することはできなかったが、数度決定的なチャンスを生み出すことには成功していた。
結果的に、ギルジーンがハーフタイム直前、相手の死の壁を突き破り、ボールはゴールマウスに転がり込んでいった。

ペンマンが試合をリスタートさせようとボールを持ったが、そのゴールは認められなかった。主審の裁定は、ギルジーンのオフサイド。しかし、本来であればスミスがボックス内で殴られた際にPKが吹かれるべきだっただろう。何にせよ、ACミランにとっては幸運だった。

両節通じて印象的だったのはスミスとギルジーンの2名で、彼らはミラン側に常に脅威を与え続けていた。そして、その脅威が遂に形となって結実する。
試合残り9分、 ボールを持ったギルジーンがベニテスを抜き去り、怒りのゴールを叩き込んだ。

そして、彼らのヨーロッパでの冒険は幕を閉じた。

ダンディーは通算8試合を戦い、5勝3敗の結果に終わった。
そしてこの戦いが、ダンディーを50年後の現在でもUEFAランキング200位台に留めている理由である。

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1964年、スコティッシュカップ決勝へたどり着いた彼らは、年間通算141ゴールという驚異的な数字を叩き出した。ゴールへの飽くなき飢えは、ボブが選手たちに齎したものだ。

「ボブの哲学に異を唱えるものは誰もいませんでした。 彼がチームを勝者の集団へと変えるやり方は正しいものでした」

ダンディーのクラブ史を編纂するケニー・ロスはこのように語っている。

「彼は選手たちに自らを表現することを求めました。だからこそ、彼は選手の最大限の敬意を勝ち得ることが出来たのだろうと考えています」

 「面白い話があります。ダンディーが1963年のスコティッシュ・カップでハイランド・リーグのアマチュアクラブ、インヴァネス・ティッスルFCと対戦した時のことです。

ボブはピッチが凍っており翌日の試合決行を懸念していましたが、選手たちは4年前に同じハイランド・リーグのフレイザーボロFCに敗れた、いわゆる『ジャイアントキリング』のことを覚えていてナーバスになっていました。

ボブは深夜にホテルを抜け出し、ティッスルのグラウンドへ行き、塀を乗り越えピッチに忍び込みました。そして芝の状態を確認して、試合決行が可能だと確信しました。

ホテルに戻ったボブは、選手たちにゴム皮のブーツを履かせ、試合決行可能だから朝食を食べるよう伝えて安心させました。そして、試合は5-1で勝利したのです」

ボブ・シャンクリーは選手たちと屈託なく話し、尊敬され、タッチライン際でくだらないアプローチをせず、素知らぬ顔でジョークを言う。シャツの袖をたくし上げて気合を入れるような昔ながらのボス気質を持つ監督だが、先進的な考えを持っていた。

彼の名は1999年、デンズ・パークのスタンドの一角に名付けられた。
ファンの投票によるものだった。


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259試合で130勝という記録を残したが、ギルジーンやユレ、チャーリー・クックなどの重要な選手がクラブを後にしたことで、ボブも決断を下す。セルティックへと去ったジョック・ステインの後任として、ハイバーニアンの新監督に就任することになった。

就任当初から、ボブは苦しんだ。ファンから人気の高かったウィリー・ハミルトンを売ってしまったことが不興を買ったようだった。1969年にはスコティッシュカップで決勝まで進むも、友人で前任監督のジョック・ステイン率いるセルティック相手に大敗を喫した。
放出したハミルトンはステイン子飼いの選手だったため、この敗戦もファン感情に油を注いでしまった。結局、また選手の売買が原因で彼はハイバーニアンでの職を失うこととなった。

次の行き先はスターリング・アルビオンで、監督職の他にディレクター権限も掌握した。

1975年には車の事故で九死に一生を得た。同乗していたのは友人のジョック・ステインだった。

そして1982年5月、ビル・シャンクリーが亡くなって1年後、同じように心臓発作でこの世を去った。スコットランドFAのミーティングの最中のことだった。



(校了)

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