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ここ数年、PFCルドゴレツはブルガリアのフットボール界にとって前衛を走る旗手の役割を担っている。
2014-15シーズンの欧州カップ戦での活躍は目覚ましいものがあり、FCバーゼル相手に勝利を掴むとリバプールFCとも2試合を戦った。不運なマリオ・バロテッリのゴールに泣いたものの彼我の戦力差を鑑みれば善戦したと言える。
彼らはここ数年国内では王者として君臨し続けており、毎年のようにチャンピオンズリーグへ出場している。2001年に創設されたばかり、しかも2011-12シーズンにトップリーグへ昇格したばかりの歴史の浅いクラブであることを考えると、驚嘆に値する事実であろう。
この成果は、キリル・ドムシエフというビジネスマンによる正しい戦略によるものが大きい。彼は2010年よりルドゴレツのオーナーを務めており、短期間でもフットボールクラブが成長できる事を証明した。
ルドゴレツがブルガリア・フットボールのマスコット的存在である一方、より歴史のあるクラブも現在は財政的に充実した状況にある。
そのようなクラブの1つがブルガリア第二の都市であるプロヴディフに存在している。
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プロヴディフは歴史的に経済区画と工業地帯の要衝地で、文化の坩堝として知られている。立ち並ぶ建造物は街が形成された4世紀より数えきれない文化の影響を受け、非常にユニークなものとなっている。ローマ帝国やビザンツ帝国、オスマン・トルコ帝国の様式に彩られた家々が、ブルガリア共産主義のシンボルでもあるブルータリスト建築の塔に挟まれているのだ。
ローマ時代、ビザンツ時代にも数え切れない苦難はあっただろうが、バルカン半島のキリスト教徒にとっては長期に渡るオスマン・トルコ帝国の支配が最も苦しいものだったと言われている。帝国は民衆に重税を課し、彼らの帰属意識は行き場を無くして抑圧されていた。
最盛期のオスマン・トルコ帝国は圧倒的な武力で東ヨーロッパやアジア諸地域を支配していた。しかし、18世紀以降ロシアの激しい南下政策により領土を縮小すると、1800年代後半には各地域の独立運動の活発化で東欧における彼らの束縛に陰りが見えるようになる。その衰退に乗じ、ブルガリア国内でも帝国の支配を脱却し東欧諸国へと回帰する動きが出始めていた。
その反乱者たちの旗手となったのが若き詩人にして後にブルガリア独立の象徴ともなるフリスト・ボテフその人だった。
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1848年に生まれたボテフの政治教育は、彼の父に色濃く影響を受けたものだったという。彼の父は反帝国主義者で、ブルガリア国家再生運動に傾倒していた。
数年間オデッサで教師として働きながら独立運動に参加したボテフは、いつの間にか地元のオスマン権力者たちの間で公衆の敵というレッテルを貼られるようになった。地元のカロフェルの集会で独立に関するスピーチを打った後、身の危険を感じルーマニアへと亡命した。
祖国から遠く離れた場所で、ボテフは亡命ブルガリア人コミュニティのスポークスマンとして立ち回り続け、素晴らしい詩作も発表していた。特に多かったのが労働者階級からの搾取に関する作品で、彼の詩は20世紀におけるブルガリア共産党員たちへの遺産として残されていった。
ヴァシル・レフスキの死やボスニア・ヘルツェコビナでの抵抗運動、セルビアやロシアでの反オスマンの気運の高まりによって、ボテフはブルガリア本国への帰還を決断した。革命成功のための要因は揃っていた。
しかし国内ではスタラ・ザゴラでのオスマン軍の鎮圧を発端に全土で革命家狩りが始まっており、帰国のための助力は望むべくもない状況だった。
敵に囲まれ同盟もいない状況下で、ルーマニアからブルガリアを繋ぐドナウ川一帯で活動していた革命軍はヴラツァ山中への退避を余儀なくされた。帝国軍はすぐに彼らの活動拠点にあたりをつけ、特殊部隊を投入した。
48時間以上にも渡る戦闘の末、革命軍の旗手ボテフが射殺されるに至り、反乱は鎮圧されてしまう。
ボテフの死は革命の気運を消失させるより、むしろ高めるものとなった。
結局ブルガリアは1878年にトルコより独立し、1908年に公式に独立宣言が発表された。ボテフはブルガリア独立の殉教者として奉られるようになった。
前述の通り、ボテフの詩作に漂う共産主義的側面は、彼を共産主義者たちの英雄とするに相応しいものだった。ブルガリア国内ではボテフグラードと冠せられた都市が誕生し、ルーマニア、ボスニア・ヘルツェコビナ、マケドニア、ポーランドでは通りに「ボテフ」の名が与えられた。
それだけではない。
ブルガリア国営ラジオは「フリスト・ボテフ・ラジオ」を現在でも名乗っている。
文学の分野で貢献した外国人作家に与えられる賞の名は「インターナショナル・ボテフ・プライズ」と言い、スターラ山脈の最高到達点は「ボテフ・ポイント」で、 2009年に新発見された小惑星の名も「小惑星(225238)ボテフ」となった。
彼の名は留まる所を知らない。
ブルガリアから遠く離れたサウス・シェトランド諸島やリヴィングストン島、ブルガリア国内の数多くの学校、──そしてもちろんフットボールクラブにも。
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ブルガリア最古のフットボールクラブの名をPFCボテフ・プロヴディフという。
政治上、過去に数度その名を変えているが、現在でもなおボテフを名乗っている。
学生たちによって1912年に創設されたこのクラブは、はじめての国際試合をフェネルバフチェと闘うという驚愕すべき歴史を有している。その試合が行われたのはボテフがオスマン帝国と闘争を繰り広げて四半世紀以上経った後のことだったが、彼らは山間でのトルコ軍とのゲリラ戦闘をフットボールピッチ上の戦いへと変貌させたのだ。
その歴史の大半をトップリーグの中位のクラブとして過ごしてきた彼らだが、いくつかのタイトルを勝ち取った栄光の時期があった。そのかすかな記憶も手伝ってか、キャビネットに飾る栄冠の少ないこのクラブをファンは献身的にサポートしていると言っていいだろう。
1962年に、後にクラブ史上最多出場と最多得点を記録することになるディンコ・デルメンツィエフを擁しはじめての国内カップを獲得すると、翌年のカップ・ウィナーズ・カップでも準々決勝へ進出しアトレティコ・マドリーと対戦する機会を得た。1967年には約40年ぶりとなる2度目にして今の所最後のリーグタイトルを勝ち取り、ヨーロピアンカップにも挑戦したことがあった。
72年のバルカン・カップ優勝など散発的な成功の後、1981年~90年の間に2位1回、3位5回というまずまずの成績を収めて国内古豪の地位を確立していった。81年にはカップ・ウィナーズ・カップで"キニ"を擁しそのシーズンの王者となったバルセロナに勝利を収めたこともあった。
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生まれながらのボテフファンにとって、ボテフはプロヴディフという都市にとって欠かせない存在だという。クラブは都市の歴史と密接に結びつき、革命から共産主義、民主化へと突き進む激動の時代を象徴するものだ。僅かな黄金時代にもかかわらずブルガリア・フットボールへの影響力は強い。特に国内最古のクラブという点において。
同じ都市にあるPFCロコモティフ・プロヴディフとは熾烈なライバル関係を築いている。ある者は「ヨーロッパで最も緊迫した関係」と表現するほどだ。お互いの憎悪は激しく、試合後スタジアム付近の高速道路などで大規模な戦闘が発生することもある。
1990年にフーリガニズムが国内で蔓延して以降、ボテフ、ロコモティフ、CSKAソフィア、レフスキ・ソフィア(その名はもちろん革命家レフスキから取られている)のファンは最も過激なことで知られるようになった。
多くの東欧のクラブと同様、脱共産化の影響を受け、ボテフも経済的な危機に陥った。
1999年にディミタール・フリストロフに買収されたクラブは、翌年47シーズンぶりに降格の憂き目にあってしまう。1シーズンで再昇格したものの、2004年にまたも降格。その後はトップリーグのボトムハーフを彷徨った。
迷走するクラブは2009年、スターティングメンバーに7人のイタリア人を送り出すという珍記録も作った。
そして2010年、財政困難によりトップリーグからの撤退を余儀なくされた。
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降格後、アマチュアリーグとなる3部からの再スタートを切ったボテフは、新体制のもと緩やかにではあるが着実に復活の兆しを見せている。
2012-13シーズンにはトップリーグへの返り咲きを果たし、4位に滑り込んで翌シーズンのヨーロッパ・リーグ出場権を得た。彼らにとって18年ぶりの欧州の舞台だった。
そして2017年5月24日、ファンにとっては待望だった3度目の国内カップ戦も獲得した。
成績だけでなく、投資面でもスタジアムやユース育成施設に1500万ユーロを使う余裕が生まれ始めた。
ブルガリア最古のクラブが彼らの名付け親となったフリスト・ボテフのように全世界、そして宇宙までもその名を轟かせることができるかは、後の歴史が証明してくれるだろう。
(校了)
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