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「Aldi luzeak, guztia ahaztu」とは、バスク語で「時間が経てばすべての物事は忘れ去られる」という意味の言葉だ。
現在、ロシアの地でワールドカップが行われており、各国がしのぎを削り熱の籠もった試合が繰り広げられている。
80年前のワールドカップにおいては、今年も優勝候補の一角として挙げられるスペイン代表はスペイン内戦の影響で試合に出場することができなかった。
しかしその間にも、スペイン国内より選ばれた選抜チームが世界各地で試合を行い、並み居る強豪チームに「我ここに在り」と実力を知らしめていった。彼らの名はエウスカディ─すなわちバスク選抜チーム。
折しも結成80年の節目となる2018年、彼らの足跡をおぼろげながら辿ってみよう。
どんな事実も風化するのが必定ならば、過去から現在を貫く道しるべを、ここに残そう。
元ネタ:EUZKADI – THEY HUNG OUT THE FLAG OF WAR
◇◇◇
1936年から1939年のスペイン内戦の折、バスク地方ではいかなるフットボールの試合も中断されていた。
しかし、1937年4月、バスク選抜チーム─その名も高きエウスカディコ・セレクシオア─が結成された。目的は義援金集めと内戦におけるバスク地方の立ち位置を世に知らしめるためであった。
結成されたこのチームは、諸外国においてはバスク使節団のような役割を演じていた。
このチームには、スペイン人として最も偉大なストライカーの一人にして幾度もピチーチに輝いたイシドロ・ランガラも加わっていた。彼はバスク人選手という括りにおいても、史上最高の選手だったと断言して過言ではない。
そして、バスク選抜のヨーロッパ遠征試合が組まれた。試合の開催地はフランス、ポーランド、ロシア、ノルウェー、デンマークだった。
◇◇◇
同月、ナチス空軍がゲルニカで問答無用の大破壊を行った忌まわしき月、エウスカディはフランスのパルク・デ・プランスにて国内王者のラシン・パリと試合を行った。結果は3-0の勝利だった。
翌月にはオリンピック・マルセイユやセト、そしてラシン・パリとの2度の再戦が催された。この試合では初顔合わせで泥を塗られた王者が意地を見せ、結果的に3試合で1勝1敗1引分とイーブンに持ち込んだ。
FIFAはスペイン内戦の間、スペイン代表チームの対外試合を禁止しており、ロッテルダムで開催予定だったオランダ代表との試合も中止となった。
しかしながらバスク選抜はFIFAと交渉を行い、地区選抜であれば問題ないとの許可を取り付けた。
かくして、彼らの初めての国際試合となるチェコ・スロヴァキア戦が決行された。
チェコ代表は1934年のワールドカップにおいてイタリア代表に次ぐ準優勝を収めた強豪チームだったが、バスク選抜は勇敢に立ち向かい、3-2で敗戦したものの接戦を演じてみせた。
6月19日、フランコ軍がビルバオを手中に収めた同日、バスク選抜はモスクワの地へ降り立った。
ソ連では様々なチームと対戦したが、敗戦はわずか1試合のみであった。
以下、対戦チームと試合結果を記す。
・ロコモティフ・モスクワ戦(5-1で勝利)
・ディナモ・モスクワ戦(2-1で勝利)
・ディナモ・モスクワ戦(7-4で勝利)
・ディナモ・レニングラード戦(2-2で引分)
・スパルタク・モスクワ戦(2-6で敗戦)
・ディナモ・キエフ戦(3-1で勝利)
・ディナモ・トビリシ戦(2-0で勝利)
・ジョージア代表戦(3-1で勝利)
・ディナモ・ミンスク戦(6-1で勝利)
スパルタク戦は奇妙な試合だった。
ソ連側がなんとかバスク選抜に一泡吹かせるため、国内の優れた選手をかき集めて臨んだものだった。
1937年8月、ノルウェーとデンマークとの試合を行うため、エウスカディはスカンジナビアへ向かった。デンマークとの試合では、このツアー中最多得点となる11-1の勝利を収めた。
◇◇◇
試合によって集められた義援金は、フランス中部のラ・ロズレにある病院へ贈られた。
スペイン内戦による難民を多数収容している場所だった。
また、義援金は、戦火を逃れ英国や南アメリカへと亡命していったバスクの子どもたちへも渡った。この戦災孤児たちの多くは、後に両親と会うことも母国の地を踏むこともできなかった。
ニューカッスルのエルスウィックに逃れた子どもたちは、タイン川のほとりに佇む聖ヴィンセント修道院の修道女によって保護された記録が残されている。
また、英国南岸のサウサンプトンへ渡った子どもたちもいた。
そのうちの一人が、この地でスキルを磨きスペインへと帰還してその名を上げることになる当時15歳のサビノ・バリナガだった。
フランコの魔手から逃れた彼が後にレアル・マドリーへ移籍し、1947年12月にホームグラウンドとなるサンチャゴ・ベルナベウでのクラブ初得点を記録することになるのだから、歴史とは数奇なものである。
◇◇◇
欧州ツアーが終わろうとしていたが、スペイン国内はフランコによって掌握され、エウスカディは母国への帰還が出来ないという難しい状況だった。
彼らはFIFAと再度交渉を行いメキシコでの試合開催の許可を得ることに成功し、次の目的地は大西洋の反対側、メキシコ東部のベラクルスとなった。彼の地において9試合を行うスケジュールが組まれた。
当時のメキシコはラサロ・カルデナス大統領の治世下にあった。
カルナデス大統領はメキシコ史上最も左派色の強い政治家で、バスクの掲げていた共和主義と親和性が高かった。
彼はスペイン内戦後にもメキシコへ25,000人を超えるスペイン人難民の受け入れを行っており、ベラクルス港には難民たちを祈念する像が建造されている。

◇◇◇
メキシコ以外でもキューバやチリでの試合が行われ、ついにアンデス山脈から来たバスク人たちがアルゼンチンへと移動しようとした折、FIFAよりこれ以上の試合決行を禁止する旨の通達が届いた。
途方にくれたエウスカディを救ったのは、やはりメキシコの地であった。
ツアー開始から1年が過ぎ、メキシコ国内ではリーグ戦の新シーズンが始まろうとしていた。
バスク選抜はメキシコフットボール協会へ連絡を取り、期間限定で新シーズンのリーグ戦に参加させてほしいという奇想天外なアイディアを伝えた。
そして、協会は彼らの参入を許可した。
ここに1938年、「クラブ・デポルティーボ・エウスカディ」が誕生した。
彼らは一地域の選抜チームでありながらリーグ戦を戦い、12試合で15の勝ち点を積み上げ、2位の好成績を収めた。
シーズン終了をもって、選抜チームは解体された。
彼らの有終の美は、パラグアイのアトレティコ・コラーレスとの親善試合だった。
エウスカディはその後40年以上再結成されることはなかった。
◇◇◇
彼らが再び日の目を見ることになったのは、1979年8月のアステ・ナグシア(祝祭週)だった。
8月16日にサン・マメスで行われたアイルランド代表との試合は4-1の快勝で終わった。
この試合には、40年前のバスク選抜に加わったイシドロ・ランガラも招待され、キックオフセレモニーを行った。
彼がセンターサークルへ向かおうとすると、バスクの群衆が選抜チームに薔薇の花を贈呈した。偉大な男たちを称える、美しい場面だった。
アイルランド側で唯一気を吐いたのは、わずか18歳のロニー・ウィーランだった。
地元チームからその年に黄金期のリバプールFCへ加わったばかりの青白さの抜けない少年は、チーム唯一の得点を決めてみせた。
この得点は、彼がその後見せることになる輝きの、ほんの階だったのかもしれない。
アイルランド代表は、このバスクの歴史上重要な試合を記念した額をバスク協会より贈呈され、試合後のディナーの招待も受けた。
その席で供されたワインがバスク地方のセラーから取り寄せたものだったことは言うまでもない。
(校了)
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