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ジョルジョ・ラ・ピーラはエンポリを「トスカーナ地方における反ファシズムの模範の地」と語った。
元フィレンツェ市長のラ・ピーラと二次大戦後にイタリア憲法を制定したメンバーによって結成されたキリスト教民主主義は、ムッソリーニ政権下でエンポリが被った大規模な迫害について言及した。言うまでもなく、エンポリは独裁政権に対抗し、多くの人間の命を犠牲にした。
その中の一人がカルロ・カステラーニだった。
◇◇◇
カステラーニは1909年、フィレンツェの南西20キロメートルに位置する小村、モンテルーポ・フィオレンティーノに生を受けた。
彼の少年時代、この地域ではフットボール文化の華が咲き始めようとしており、その中心となっていたのがフットボール・クラブ・エンポリとウニオーネ・スポルティーバ・エンポリが合併して出来たエンポリFCだった。このクラブの創設は1920年8月で、フィオレンティーナ創設の6年のことだった。
英国人のビジネスマンによってイタリアに輸入されたフットボールは、当初エンポリの人々にとって奇異の目で見られる存在だった。
この地域では、100年前から「ジョコ・デル・パローネ」あるいは「ブラチアーレ」という球技が盛んだった。この土着の球技はファシズムによって、英国発祥のフットボールに対抗する形でイタリア全土に紹介されていた。
この競技は試合中、上腕に「ブラチアーレ」という木製の筒を装着したプレイヤーが、それを使ってボールを動かすというフィールドゲームだ。エンポリは30年代初頭に全国王者となるなど、ブラチアーレの有力地域だった。
しかしながらカルロは生まれながらのフットボーラーで、通学路ではボールを蹴りながら登下校するほどの熱の入れようだった。彼の有り余る情熱とは裏腹に、カステラーニ家でフットボールに関心を持つ者は彼のほかにはいなかった。
父親のデヴィッドは改革的社会主義者として活動をしており、ファシスト党の党員証授与を拒むほど政治に傾倒していた。彼の目下の関心事は自身で経営する材木ビジネスにあった。
安定した家庭に育ったカルロは、フットボールで金を稼ぐなどあり得ない時代だったが、自身の才能を思う存分伸ばすことができた。彼は私財を投じて荷馬車をレンタルし、チームメートをアウェイの試合に遠征に連れていくこともあった。
そんな努力の甲斐もあり、16歳にしてファーストチームへのデビューを果たし、翌年には18試合出場で16得点と堂々たる成果を残した。その翌シーズン、チームはイタリア3部リーグへの昇格を果たした。
カステラーニは華麗にボールを操る才能あふれる中盤の選手で、ゴールへの嗅覚も鋭かった。1928-29年シーズンに22ゴールを挙げたことからも、その才覚のほどを窺い知ることができる。1試合5得点という記録は、いまだどの選手にも並べれていないエンポリのクラブ記録だ。
◇◇◇
驚くには値しないが、カステラーニはエンポリのユースシステム卒業生として初めてセリエAのピッチに立つことになった。エンポリから同じトスカーナ地方のリヴォルノへ移籍したのだ。そこで彼に与えられたのは10番のユニフォームだった。
しかし、リヴォルノは窮地に瀕しており、カステラーニ自身も実力を発揮できずシーズン3ゴールという期待外れの結果となってしまった。その後、リヴォルノは降格してしまう。
セリエBで数シーズンを過ごした後、カステラーニはヴィアレッジョにわずかばかり在籍し、1934年にエンポリに帰還して、更に5シーズン選手としてピッチに立った。彼が引退したのは第2次世界大戦の直前のことだった。
カステラーニが残した145試合61ゴールという数字は「アッズーリ」にとっては長年クラブ記録として残り続けたが、つい最近フランチェスコ・タヴァーノとマッシモ・マッカローネに押し出され、表彰台の3番手となった。
◇◇◇
カステラーニがエンポリを去り、トスカーナでの小旅行を終えて生誕地に戻ってくるまでの間に、時代は大きく変わっていた。
クラブ名は「ドポラヴォーロ・インテラズィエンダーレ・イータロ・ガンバツィアーニ」に変更された。ローマ進軍で命を落とした若きファシストの栄誉をたたえるためだった。
ファシズムへの反抗勢力はほぼ死に絶えてしまったが、消え去ったわけではなかった。1934年、ガラス職人達による労働組合の選挙で共産主義者代表が勝利すると、その事実が世に知れ渡ることとなった。
1943年9月にイタリア軍と連合国が休戦協定を結ぶと、その不透明な内容に大きな困惑が走り、反ファシストの魂が再び都市に芽生え始めた。
イタリア降伏の動きを事前に察知していたドイツは、発表直後にイタリア半島とイタリア勢力圏を制圧し、ナチスの傀儡となるイタリア社会共和国を作り上げてしまった。
国民の状況は、ムッソリーニ政権時代と何ら変わらないものだった。
1944年初頭にエンポリ近郊の小高い丘で最初に行われたレジスタンスの戦闘は、イタリア国内に反ナチのゼネラル・ストライキを引き起こすきっかけとなった。イタリアを制圧していたナチス、およびナチスによって再構築されたファシスト政権は、労働者階級にあまりにも冷酷だった。
この大規模行動には、手痛いしっぺ返しも待っていた。1944年3月7日の夜から8日にかけ、関係者100名以上が収容所へ強制送還されたのだ。
黒シャツ隊と武装警官、ナチス軍がこの夜に合同で行った作戦では、彼らが手にした検挙用の住所録を元に市街地の住宅を虱潰しに訪問していくというもので、住民には「定期管理のために警察署に来てくれ」と説明した。
多くの者は疑わず、父親は子供を集めて一緒に同行するように告げた。それにより、人数は次から次へと増えていった。
◇◇◇
夜明け前、デヴィッド・カステラーニが不在なことに気づいた部隊がカステラーニ家のドアをノックした。
デヴィッドは病院で病気の治療中だったため、息子で有名なフットボーラーでもあるカルロが窓から顔を出した。そこには見知った知人の姿があったため、カルロは安心して父親のいる場所まで案内すると家を出ていった。
そして、彼は二度とその場所へ戻らなかった。
フィレンツェまでの道中、誰かがカルロに軍用車から飛び降りることを提案した。
カルロは引退したとはいえ優れたアスリートで、逃げるにはいい機会だと感じたのかもしれない。しかし、彼と彼の仲間たちは、なんの問題もないと認識していたためその提案を断った。
フィレンツェの列車駅に到着した彼らを待ち受けていたのは、オーストリアへの3日間のツアーだった。
わけのわからない言語で不意に指示され極寒の列車に押し込められると、到着地で所在なげに車両を出た彼らが目にしたものは陰鬱なマウトハウゼン強制収容所だった。
カルロたちは、ほかの多くのナチスの犠牲者たちと同様のプロセスで扱われた。
強風の中でも立ち続けることを強要され、雨の中でも衣類の着用を認められず、悪臭のベッドで眠り、満員状態のあばら家で生活した。どんな小さなミスに対しても収容所の管理者たちは罰を与え、僅かな残飯を生活の糧に過酷な肉体労働を課せられ、音を上げるまで人間として蔑まれ続けていった。
これが、カルロ・カステラーニの話のすべてだ。
彼は1944年8月11日に亡くなった、らしい。
わずかながら収容所を生き延びた人が伝えたところによると。
今日では、エンポリ・フットボール・クラブのホームグラウンドは彼の誇りを後世に伝えるため、「スタディオ・カルロ・カステラーニ」と名付けられている。
2011年12月3日、セリエBに所属していたエンポリはホームグラウンドにアスコリを迎えていた。
試合開始後4分、フランチェスコ・タヴァーノがブスチェよりボールを受け取ると「アッズーリ」にリードがもたらされた。それは、「チッチョ」タヴァーノがエンポリの最多得点者に名を連ねた瞬間だった。
それはまた、70年の時を経て、歴史の埃に埋もれかけていたカステラーニの名前が歴史の日の目を見るタイミングでもあった。スタジアムにも名を冠せられたほどの選手であるにもかかわらず、彼がどう生き、どう死んだのかということについては少しずつ人々の記憶から失われつつあるようだ。
今こそ思い出してみたい。
彼の名は、カルロ・カステラーニ。
エンポリが生んだ最初のカルチョ・ヒーローである。
(校了)
元ネタ:
THE EMPOLI HERO SENT TO HIS DEATH AT MAUTHAUSEN
Carlo Castellani, the hero of Empoli who died in Mauthausen
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