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スペインの国内カップ戦であるコパ・デル・レイは、その名を何度か変更した歴史の中で、幾度となく奇跡的な瞬間を生み出してきた。
1943年にはレアル・マドリーがバルセロナを11-1と蹂躙し、両者のライバル関係は後の70年余りで世界有数の苛烈なものとなった。記憶に新しい1999年の決勝ではガイスカ・メンディエタが素晴らしいゴールを決め、クラウディオ・ラニエリ率いるヴァレンシアにトロフィーをもたらしたこともあった。
これまで演じられてきた数々の激戦。
そんな中でひときわ異彩を放つのが、1979-80年シーズンに行われた決勝戦であることには、多くの者が疑いの余地を挟まないだろう。
対戦カードはレアル・マドリー対レアル・マドリー・カスティージャ。
世界最大のフットボールクラブ「同士」の奇妙な組み合わせだった。
スペインにおいて、リーグ戦ではシニアチームとユースチームが同じディビジョンに同居することはルール上不可能だったが、国内カップでは、1991年までリザーブチームの出場が許されており、両者が対戦することも可能性としてゼロではなかった。しかしながら、一般的にユースチームが勝ち上がるのは難しく、おおよそ1回戦での敗退が慣例だった。
もし勝ち上がったとしても、次のラウンドの抽選でシニアチームとの対戦を引き当てた場合、籤を引き直す必要があった。シニアチームとユースチームが対戦することのできる唯一の状況は、お互いが決勝まで駒を進めた場合のみだった。主催者はもちろん、スペイン国内のフットボールに携わるすべての者が、そんな日が訪れるはずがないと考えていただろう。
しかし、実際にそれは起こった。
レアル・マドリーのユースチームであるカスティージャは、79-80年シーズンにそのことを証明して見せた。
◇◇◇
元ネタ:WHEN REAL MADRID CASTILLA REACHED THE COPA DEL REY FINAL AND PLAYED IN EUROPE
◇◇◇
フランコ将軍が1975年に亡くなると、独裁政権から解放されたスペインではマドリードを震源地とした「ラ・モヴィーダ・マドルレーニャ」という文化革命が勃興した。音楽家や映画関係者、作家は謳歌する自由を各々の作品で表現した。フランコ政権を下支えしたカソリック教会の抑圧を振り切って、マドリード市内では24時間営業のパブが開店し、毎夜パーティが開かれていた。
集った若者たちはドラッグを体中に吸い込み、アルコールを飲んでバカ騒ぎし、性にも開放的だった。目の前に突如現れた頂上への道を歩むことに躊躇せず、その階段を三段飛ばしで走り抜けようとしてた。すでに官僚主義やフランコの悪名高き中央集権制は消え去っていた。
フランコ死後、1977年には41年ぶりとなる議会選挙が行われた。民衆に権力が移譲されたことを表す、象徴的な出来事であった。
そんな空気を温床に、カスティージャの若者たちはフットボールのキャリアを歩み始めた。
彼らの平均年齢は20歳と非常に若く、監督を務めたフアンジョ・ガルシア・サントスも34歳だった。このチームの中心は数名の才能ある若者だった。後にレアル・マドリーのシニアチームの選手として250試合以上ものキャリアを積むことになるリカルド・ガジェゴやフランシスコ・ピネダ、アグスティン・ロドリゲス。主将としてチームを牽引したディフェンダーのハヴィエル・カスタニェーダは、ついに生涯シニアチームの白いシャツを着ることはなかったが、マドリー移籍後にオサスナでクラブ記録となる350試合出場を達成した。
既に壁は取り払われていた。マドリードで野望に燃えた若きビジネスマンのように、カスティージャもまた自信に満ち溢れてプレーした。
チームの花形だったリカルド・ガジェゴは、感傷に浸りながら後にこう語っている。
「我々は若き才能が終結したチームだった。試合に出ては多くの対戦相手を驚かせてきた。我々は効果的にボールを回し、走り、若さを前面に押し出した。どのチームも、私たちへの準備はできていなかった」
◇◇◇
カスティージャの能力が示されたのは、当時1部に所属していたエルクレスとの4回戦での試合だった。
エルクレスは彼らを見誤っていた。少年漫画の悪役のように対戦相手を低く見積もり、第1レグで4-1の勝利を収めてからはさらにその傾向を強めてしまった。生意気なガキ共にはこのリードで十分、と考えたかもしれない。
シニアチームが難なく次のステージに進むと、マドリディスタたちの関心はカスティージャに向けられた。2月の凍るような日に、ユースチームの試合を見るため9,000人もの観客がスタジアムに詰め掛けていた。彼らは、せいぜい「若者たちの成長を見守ってやろう」ぐらいの心づもりでいただろうし、カスティージャにそれ以上の期待を寄せる者など皆無だったかもしれない。
30分までにパコ(後にラシン・サンタンデールやレアル・ベティスへ移籍する)が2ゴールを上げても、その期待は動かなかった。
試合は膠着状態に陥り、最後の審判が下るまであとわずかという展開だった。
若者たちは2試合合計のスコアを振り出しに戻す追加点を生み出すのに苦しんでいるようだった(当時、アウェーゴールという考えはなかった)。
スタジアムが鳴動したのは残り1分というタイミングだった。9,000人が固唾を飲んで見守っていた筈の観客席には、空白が目立ち始めていた。
中盤でチームのメトロノームを刻んでいたガジェゴが、2試合合計で同点となるヘディングを相手ゴールに突き刺した。試合は振り出しに戻された。
走り出した列車は止まらない。
延長戦に突入した試合を決定づけたのは、ヴァレンティン・チドンだった。ルーズボールに急襲し、値千金となる決勝ゴールを上げた。103分のことだった。
エルクレスは煮え湯を飲まされた。そして、若者たちの行進はさらに続くことになった。
ムンド・デポルティーボ紙は、衝撃とともにこの事件を伝えた。
それはカスティージャの躍進のためではなく、エルクレスが長い間保有していたカジノのチップをすべて吐き出してしまったというものだった。
エルクレスは愚かにもカスティージャを侮ってしまったかもしれない。
しかし、カスティージャは、エルクレスと対戦するまでに3つのシニアチームを屠ってきた。
一つはエストレマドゥーラで、1回戦で10-2と若きタレントたちに一蹴されていた。次のラウンドでマドリードと距離の近い場所にあるアルコルコンと相まみえたが、彼らは善戦したものの5-1で敗れ去った。さらに、次のラウンドではラシン・サンタンデールも餌食となっていた。ラシンは4シーズンのラ・リーガでの戦いから後退し、2部リーグに移動したばかりだった。
◇◇◇
エルクレス戦の勝利で、フアンジョ率いる若者たちはベスト16の切符を手にした。
次の対戦相手はアスレティック・ビルバオだった。
この組み合わせが決まった時、ビルバオはジャックポットを引き当てたと感じたかもしれない。0-0でアウェーゲームを終えると、その期待は確信に変わっただろう。次はサン・マメスでの試合が残されていた。
しかし、優勝23回を誇る彼らの青写真を塗りつぶしたのはカスティージャだった。
2-1という試合結果だけを見ると接戦だったようにも感じるが、カスティージャの実力はフロックでは決してなかった。
後半にピネダとバリンのゴールで2-0と先手を取ったカスティージャに、ビルバオは90分を過ぎてからのゴールで一矢報いることしか出来なかった。アグスティンの好セーブがカスティージャを救ったとはいえ、彼らのパフォーマンスは「モダン・フットボールの真の誇り」と伝えられた。
ピッチ上での彼らは、速く、攻撃的で、ゴールへの嗅覚鋭い80年代のフットボールを先駆けて体現していた。
準々決勝でも、カスティージャはバスク地方へ小旅行に出かけることになった。
対戦相手は当時ラ・リーガの首位を走っていたレアル・ソシエダだった。
ビルバオに起きた悲劇を横目に、サン・セバスティアンの住人たちはマドリードの小僧に好き勝手やられてなるものかと気炎を吐いた。第1レグで2-1の勝利を収めると、ついにカスティージャの命運もここで尽きたかと思われた。
そのシーズン、リーグ戦でレアル・マドリーがソシエダとの2度の対戦で上げた勝ち点はわずかに1のみだった。アウェーでは4-0と土を舐め、ホームでも2-2のドローに終わっていた。シニアチームでも勝てなかった相手をカスティージャが降すとなれば、それはもはや歴史に残る大事件と言えるだろう。
舞台はサンチャゴ・ベルナベウ。ユースチームの試合だというのに、スタジアムは100,000人もの観客で埋め尽くされていた。この観客数は翌日の新聞で報道されたものだったが、そのシーズンに行われたベルナベウでのほとんどの試合よりも多かった。
16分、パコのゴールで試合が動くと、2戦トータルで2-2の同点となった。
すると前半終了間際、サンチェス・ロレンツォが決勝点となる2点目を上げた。
その日に起きた出来事は、それだけだった。
かくして、ラ・リーガのトップチームをカップ戦から敗退させてしまった。
◇◇◇
最終的にはレアル・マドリーがソシエダを抜き去りラ・リーガ王者に輝くことになる79-80年シーズンだったが、ソシエダとの対戦結果に不満を持っていた多くのマドリディスタたちにとってカスティージャの活躍はシニアチームよりも興奮するものとなった。
また、レアル・マドリーを嫌いな人間たちにとっても、カスティージャは一服の清涼剤となった。王者として君臨しており、フランコ政権からも優遇されたレアル・マドリーは国内の憎悪を一手に引き受けていたが、彼らのユースチームの冒険心は一定の尊敬と感嘆を持って迎え入れられた。
準決勝の対戦相手がスポルティング・デ・ヒホンに決まると、カスティージャの面々はさらに気を引き締めた。ヒホンはこのシーズン、レアル・マドリーとソシエダに次ぐリーグ戦3位の成績を収めることになる強豪で、偉大なるキニを擁するタレント集団でもあった。
シニアチームはアトレティコ・マドリーとの対戦となったが、ここに至るまでの抽選会で珍事件が起こった。カスティージャが、レアル・マドリーとの対戦を引き当ててしまったのだ。アトレティコはすぐにこの対戦を成立させるよう申し出たが却下され、再抽選された。あくまで対戦が認められるのは、決勝戦に勝ち進んだ場合のみだった。
カスティージャは、準決勝でもエルクレス戦で見せた不屈の精神を知らしめることとなった。
アストゥリアスでの試合を失意の2-0で終え、この長く魅力的なおとぎ話がバッドエンドとなることが濃厚となってきた。しかし、ホームゲームでの試合で開始わずか3分にパコがゴールネットを揺らすと、ベルナベウの観客たちは熱狂と雷鳴に包まれ、若者たちの「レモンタダ」(英語でcome backを意味する)を予感した。大逆転はレアル・マドリーのお家芸であること、そしてこのシーズンにシニアチームがセルティック相手に見せたパフォーマンスを彼らは忘れていなかったのだ。
観客席からはボトルが次々に投げ入れられ、主審には終わることのない罵声が降り注いだ。もとよりマドリディスタたちの熱狂は凄まじかったが、それがユースチームの試合で発現するとは現在では想像だにできない出来事だろう。
主審にとっては幸運なことに、ヒホンがまるでさび付いたアイロン台のように崩れ落ちてハーフタイムまでにカスティージャが2点を決めると、ベルナベウの観客たちは平穏を取り戻した。ガジェゴが熟練の人形遣いの手つきで3点目のチドンのゴールをおぜん立てし、自らも4点目で試合に花を添えた。
ヒホンも70分に1点を返したが、あまりにも遅すぎたと言える。
カスティージャは国内カップ戦史上、2部から決勝まで駆け上がった3番目のクラブとなった。そして、この時点で決勝戦はオール・マドリード・ファイナルとなることが確定した。
レアルは、もしかしたら自らのユースチームと当たる前にライバルチームに敗退させられることになるかもしれない事態に困惑し、逆にアトレティコはそれを実現するために兜の緒を締め直した。
カスティージャによる熱狂の僅か2日後に、同じくベルナベウで行われた準決勝第2レグは白熱した展開となった。
レアルが19分のフアニートのゴールで決勝への先手を握ると、両チーム幾度かの決定機を決めきれずに膠着状態のまま推移した。しかし最後のホイッスルまで残り5分というところでアトレティコが同点に追いつく。
試合は延長戦でも決まらず、PK戦へと縺れ込んだ。
アトレティコにとっては、第2キッカー、第3キッカーが連続してキックに失敗したことが、運の分かれ目となった。最終的にはPK戦を4-3で勝利したレアルが、運命の戦いへと駒を進めることになった。
試合後、レアル・マドリーにとって特別な日が1980年6月4日に決定した。
会場は、言うまでもないことだが、サンチャゴ・ベルナベウだった。コパの決勝戦における会場選びはたいていの場合一波乱あるものだが、このシーズンに関してはシンプルだった。
◇◇◇
決勝戦は、お互いにとってまるで家族のように近しく感じられるものだっただろう。少し豪華なプレシーズンマッチのようなものだったかもしれない。フアン・カルロス1世が観客席から見守る決勝戦だが、実際には毎週木曜日の午後に両者は練習試合を行っていた。
スタンドから見守る65,000人の群衆は、どちらも応援していたし、どちらにも勝ってほしいと願っていた。結果は重要ではなかった。いずれにせよ、「レアル・マドリー」がトロフィーを掲げることになるのだから。実はアトレティコとのPK戦で勝利した後、ファンはすでにカップタイトル獲得の喜びを爆発させていたのだ。
シニアチームと対戦するという事実、そして2部のリーグ戦での長い戦いを17位で終えて心身ともに疲れ切っていたという事実の両面から、カスティージャは、決勝までの数か月間このスペインの首都を揺らしてきた一連の騒動の日蔭側にいた。そして完全なるアンチ・クライマックスを演じるように、彼らは相手に本気を出させることなく、易々と敗れた。
シニアチームに伝統のエル・ブランコを譲り紫色のユニフォームでピッチに立ったカスティージャの面々は、ハーフタイムまでに0-2で相手にリードを許した。ゴールを決めたのはフアニート、サンティリャーナというスペイントップレベルのプレイヤーだった。
サビード、ヴィセンテ・デル・ボスケにそれぞれ3点目、4点目を許すと、60分強で試合の趨勢は決した。
リカルド・アルヴァレスが残り10分のタイミングで一矢報いるも、さらに2点を追加したシニアチームが6-1で勝利し、栄冠を獲得した。
華々しく特異なカスティージャの旅は、この日に一つの終着点へと辿り着いた。しかし、それは少なくともサンチャゴ・ベルナベウに試合終了のホイッスルが鳴り響いた瞬間ではなかった。試合後、観客は今までに見たことのない光景を目にすることになる。
ピッチの上でトロフィー獲得を祝ったのは、レアル・マドリーとカステージャ、双方の選手たちだった。
ガジェゴは後に、自らのシニアチーム(そしてスペインでも最高のチーム)を破るのは「不可能なタスク」だったと語っている。
「我々が決勝までたどり着いたという事実こそが重要だった。その事実により、トップチームはユースチームをより真剣に取り扱ってくれる。6-1とは、トップとユースの差そのものだった」
と彼は付け加えた。
◇◇◇
カスティージャにとって、トップチームとともに栄光を味わうことができたという事実だけが、いわゆる「試合後の涙」を流さなかった理由ではなかった。
彼らは国内カップのランナーアップとして、翌シーズンのカップ・ウィナーズ・カップへの出場権を手に入れたのだ。
彼らは史上初にして現時点で唯一、リザーブチームとしてUEFAのコンペティションへ出場したチームとなった。(最近、イングランドではヨーロッパリーグの試合にほぼリザーブ同然の面子を送り込むことがあるが、それはまた別の話だろう)
彼らの大陸での冒険は短かったものの、決して退屈ではなかった。
カスティージャは、1回戦でトレヴァー・ブルッキング擁するウェストハムと対戦することになった。
第1レグのベルナベウでの試合は早い段階で相手に先手を許したものの、前シーズンを思わせる逆転劇を演じて見せた。コパ決勝にも出場したパコ、バリン、チドンの3人が1点ずつ決め、3-1で勝利したのだ。
第2レグでは、UEFAの制裁によりアップトン・パークで無人試合が開催された。結果的に3-1で今度はハマーズの逆襲に合うと、突入した延長戦で2点を決められた。
両方とも、デヴィッド・クロスのゴールだった。
こうして、ひっそりとカスティージャの冒険は本当の終わりを告げた。
しかし、若者たちは決して下を向いてなどいなかった。
◇◇◇
その後アルフレッド・ディ・ステファノがトップチームの監督に就任すると、すぐにカスティージャの躍進に注目した。
カスティージャ在籍時より「キンタ・デル・ブイトレ」(ハゲワシ部隊)と呼ばれていたエミリオ・プトラゲーニョ、ミチェル、マルティン・バスケス、ミゲル・パルデサ、マヌエル・サンチス・オンティジュエロの5人をトップチームに昇格させた。彼らは後にクラブのレジェンドとなり、代表でも名を上げた。
しかし、もし79-80年シーズンのカスティージャの躍進がなかったら、果たしてレアル・マドリーのヒエラルキーを突破して彼らがチャンスを得ることはあっただろうか?
カスティージャの躍進が80年代のレアル・マドリーを規定することになったのは、なんの誇張も衒いもなく、真実といえよう。フロレンティーノ・ペレス会長のガラクティコが始まるまで、レアル・マドリーはヨーロッパで最も若手選手を重用し、成果を出してきたクラブだった。
悲しいことに、このような出来事は今後起こりそうもない。1991年にユースチームがカップ戦に参加できなくなった。
しかし、もし仮にそうならなかったとしても、現在どこかのクラブのユースチームが、大金で集められてきたタレント集団のトップチームを打ち破るということはなかなか想像できないことだ。
懐古趣味に浸っているわけではなく、1980年とはフットボールを取り巻くありとあらゆる状況が変わってしまった。
◇◇◇
カスティージャは決勝に至るまで過酷な道のりを歩み、いくつかの国内トップレベルのチームを実力差の現れやすい2レグ制で打ち破った。単なるまぐれ当たりのジャイアント・キリングと呼ぶべきではないだろう。
彼らは忘れられざる伝説を作り上げた、ということも出来る。
モヴィーダ・マドリレーニャの精神は、スペイン中に「現状を打破しろ」「不可能なものは何もない」という重要な教訓を残した。
そして1980年にレアル・マドリー・カスティージャがそれを確かに体現し、次々に勇気が伝播していった。
まるで、彼らの背中に時代の翼が宿り、マドリードの風に乗って飛んで行ったように。
(校了)
コメント
はじめまして。貴重な動画、見つけました。
返信削除バルサ対バレンシアです。
クラウディオロペス、メンディエタがいます。
https://www.youtube.com/watch?v=057ZQU53plE