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今回は、今から42年前の欧州選手権大会について書いてみようと思います。
ある男の名を永久不滅のものにしたこの大会で、咬ませ犬だった代表国の見せた勇敢な戦いがありました。
「プラハの春」から50年の節目となるこのタイミングで、振り返ってみるのも悪くないと考えています。
それは時に復讐でもあり、時に心躍る冒険譚でもあります。
◇◇◇
1976年の夏に行われた欧州選手権は、今日とはまるで違うものだった。
大会は年を追うごとに拡大化し、2016年からは総勢24チームが競い合うフォーマットになったが、当時の出場チーム数はわずか4チームだった。
そのうち2チーム、すなわち西ドイツ代表とオランダ代表は、いわゆる「西側」から出場した代表国だった。しかし、この76年大会は、歴史上初にして唯一、共産主義国が主催となった。
とはいえ開催国のユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、鉄のカーテンによって分かたれた反対側のヨーロッパというわけではなかった。1943年に独立を果たしたユーゴスラビアは、ソビエト連邦とは距離を置き、欧州大陸の中で中立の立場を保っていた。
しかし、その実態は他の「東側」の国々と同じく、独裁政権によって支配されていた。
1949年にソ連主導の下、東側諸国の間で形成された「経済相互援助会議」─コメコンの準加盟国だったユーゴスラビアは、モスクワの傀儡ではなかったにしても、ソビエト連邦の衛星国家のひとつと言うことはできる。
また、彼らが冷戦下において果たした役割は、西側と東側につながれた一本のつり橋のようなものだったとも言える。
東側ではあるがソ連とは袂を分かっているという立ち位置を最大限利用し、ユーゴスラビアは他の西側諸国と友好関係を築いていた。その姿勢こそが、この76年大会という歴史の特異点を生み出した最大の要因だったのかもしれない。
チトー元帥の強権外交により欧州選手権の主催の座を勝ち取ったユーゴスラビアだが、西側諸国はこの舞台を外交上重要なチャンスと見た。むろんどの出場国も勝利を欲していたが、とりわけ冷戦下という極度の緊張状態のなかで、自らのイデオロギーを世界的に知らしめる唯一無二の機会と捉えたのである。
◇◇◇
ユーゴスラビアは往時、ヨーロッパで権勢を誇る代表国の一つだった。60年代に開催された欧州選手権では2度の準優勝を飾るなど、国際舞台で結果を残していた。
そして、それは西ドイツとオランダにも同じことが言えた。特に前者はディフェンディング・チャンピオンとして76年大会に臨むこととなった。
参加国の中で唯一評論家の関心を集めなかったのは、チェコスロバキア代表であった。
彼らは地政学上、分かたれた欧州の辺境に位置する小国だった。そこには東から西へと逃げだすものを射殺する監視塔とフェンスが数多建造され、大地には地雷原が広がっていた。
彼らが本大会出場までの間に歩んできた道のりは、決して平たんなものではなかった。
予選大会ではイングランド、ポルトガル、キプロスと同じ組に選ばれ、全6試合を戦い1位になることだけが次のラウンドへの突破条件だった。
初戦でウェンブリーで行われたドン・レヴィーのイングランドに3-0で敗れたものの、すぐにチームを立て直すことができたのはチェコスロバキアにとって大きなターニングポイントだった。キプロスを4-0で蹴散らすと、ポルトガルも5-0で粉砕して勢いに乗った。
その中心にいたのが、ある選手だった。
キプロス戦において、ハットトリックを決めてイングランド戦の大敗を払拭し、チームを軌道に乗せた男。彼の名は、アントニーン・パネンカ。後に歴史に名を刻むことになる、プラハ生まれの天才だった。
ブラチスラバにイングランドを迎えた第4戦では、ミック・シャノンのゴールで早い時間に先制を許したものの、ズデニェク・ネホダとドゥシャン・ガリスが試合をひっくり返し、フットボールの宗主国に歴史的な勝利を突きつけた。
この勝利によって、チェコスロバキアは次のラウンド、プレーオフへと駒を進めることになった。その反面、誇り高き英国は何年もの間国際舞台で非難を浴び続けることになるのだが、それはまた別の話だ。
◇◇◇
スリー・ライオンズの勝利をもってしても、しかしながら、評論家たちにチェコスロバキアの優位性を披露するには足りなかった。プレーオフの相手は、ソビエト連邦だったのだ。もはや彼らの大会での躍進も風前の灯に思われていた。
ソ連代表が欧州選手権の最終ステージへの切符を逃したことはそれまで一度もなかった。
その政治的信念と団結は、そのままピッチ上に体現されていた。
ユーゴスラビアがソ連と一定の距離を保っていた一方、チェコスロバキアはそのような特権を持っていなかった。彼らはソ連の直接支配国家で、そのことを改めて思い知ったばかりだった。
大会から遡ること8年前、1968年の春にチェコスロバキア共産党の第一書記に就いたアレクサンデル・ドプチェクは、政権運営のためにこれまでのソ連共産主義とは一線を画した「人間の顔をした社会主義」をテーマに掲げ、民主化に乗り出していった。
3月に検閲制度を廃止して言論の自由を保障すると、4月には新たな共産党行動綱領を制定した。
チェコスロバキア国内─特にその首都であるプラハでは言論の華が咲き乱れ、新たな政党結成の動きや西欧風の文化流入などが同時多発的に起こった。
世にいう「プラハの春」である。
しかし、夏になるとブレジネフ政権下のソ連がワルシャワ条約機構5カ国軍をチェコスロバキア領土内に侵攻し、軍事弾圧に踏み切った。
彼らはチェコスロバキア民主化の動きが他国に波及し、ソ連支配の基盤が崩壊することを恐れていた。
市民の抗議の声は武力によってかき消され、プラハは制圧されてしまった。
中心人物だったドプチェクら政権中枢メンバーは次々に連行され、チェコスロバキアの春はわずか半年強で終わりを告げることとなった。
「社会主義を保護するためには衛星国の国内問題にも関与せざるを得ない」とする「ブレジネフ・ドクトリン」が牙を剥いた瞬間であった。
チェコスロバキアは、この事件以降、自らが冷戦の最前線に立たされていることを再自覚し、隣国で自由経済を謳歌していたオーストリアや西ドイツへの国民流出を避けるため、国境線上に広大なフェンスを築き続けた。
◇◇◇
プレーオフでソ連代表を引き当てたことは、チェコスロバキアにとってフットボール以上の重要な意味を持っていた。
それはソ連代表という強敵に立ち向かう戦いであるばかりか、衛星国による君主への反逆劇だった。彼らは、改革に頓挫してからの8年間、着々とその機会を窺っていた。
後にパネンカは次のように語っている。
「ソ連代表との戦いは、サポーターにとって大きな意味を持っていた。我々にとっては、事実上、侵略者たちとの戦いだったのだ。
1968年、『プラハの春』で味わった抑圧に復讐する機会を得た、と感じた」
プラハの春は非暴力の運動だったが、その後チェコスロバキア国民がソ連から味わったのは、投獄、拷問、政治転向の強要といった陰惨なものだった。
国民は、みな怒りに燃えていた。この国際舞台での復讐の機会を待ち望んでいたのだ。
再び、パネンカの回想に戻ろう。
「我々はブラチスラバで試合を行った。サポーターたちは地獄の釜のように沸き立ち、熱狂的な声援を我々に送った。
私が2ゴール目を決めると、初戦を2-0で勝利した」
東側の全体主義的な政治の空気の中、こうした不服従が生み出すものは身の危険だった。
第2戦目となるキエフでの試合が行われるまでの間、チェコスロバキア代表チームは数々の脅迫に遭ったという。しかし、彼らは屈しなかった。
76,495人が詰めかけたキエフのオリンピック・スタジアムの威圧的な空気に飲み込まれることなく、彼らは打ち合いの末2-2の引き分けを勝ち取り、最終決戦への切符を勝ち取った。
スタジアムでこの結果を見届けた数千のチェコスロバキア国民は怪気炎を上げ、小作人が大地主に一泡吹かせる瞬間を満喫した。プラハ市内では、人々の歓喜の歌が轟いたという。
しかし、彼らの冒険はここで終わりではなかった。
一人の天才に導かれた小国の代表チームは、さらなる快哉を叫ぶことになる。
◇◇◇
ソ連相手の勝利により西側へ自分たちの力を誇示して見せたチェコスロバキアだったが、ユーゴスラビア本大会での準決勝の相手はビム・ヤンセン、ロブ・レンセンブリンク、そして全盛期のヨハン・クライフを擁するオランダ代表だった。
その晩のザグレブは湿気が多く、街路は夜露で覆われていた。
翌日にベオグラードで行われることになる主催国のユーゴ代表対西ドイツ代表には5万人を超える観客が集まったが、この試合の観客数は1万8千人弱だったという。
「欧州の強豪が鎬を削る熱戦を控える」という形容詞ほどには、街の空気は熱気を帯びたものではなかったかもしれない。
しかし「トータル・フットボール」をピッチ上で体現する、おそらく当時惑星最高の代表チーム相手に、チェコスロバキア代表は肉薄し、ピッチ上で熱戦を繰り広げた。
開始19分に相手ファイナルサードの左側でフリーキックを得ると、パネンカの右足から放たれたボールは高く弧を描き、ペナルティボックス中央へと飛んで行った。
構えていたのはチームの主将を務めたオンドルシュだった。ボールは彼の頭頂部に当たり、ゴムマリのように跳ねてオランダ代表のゴール左上隅へと吸い込まれた。
ピート・スフライフェルスが必死に手を伸ばしたが、徒労に終わった。
スコアは1-0。圧倒的に下馬評の下だったチェコスロバキアが先制した。
一進一退の攻防を繰り広げた両チームだったが、試合を動かしたのは、またもオンドルシュ。相手が右サイドから突き刺したクロスをクリアしようとしたボールは、そのまま自軍ゴールに収まってしまった。
お互いに退場者を出す中、試合は延長戦にもつれ込んだ。
114分、勝負を決めるゴールを奪ったのは、チェコスロバキアだった。
カウンターからの素早い攻めで、相手ゴールキーパーの頭上を越えるクロスを上げ、ネホダが頭で合わせて無人のゴールに押し込んだ。
さらに交代選手が追加点を奪うと、合計スコア3-1でチェコスロバキアが決勝進出を決めた。最強のオレンジ軍団相手を葬り去ってみせたのだ。
オランダ代表は、東欧の不思議な天候に苦しめられたと言えるかもしれない。
しかし、それ以上に相手を侮っていたとは考えられないだろうか?
この試合で主審を務めたウェールズ人のクライブ・トーマス氏は後にBBCでこのように語っている。
「後半が進むにつれ、オランダ代表は尊大さを見せ、いら立っているような印象を受けた」
その傲慢は、彼らに大きな代償としてのしかかってきた。
オランダ側に2名、チェコスロバキア側に1名の退場者を出した雨中の激戦で最後まで立っていた勝者が、次に立ち向かわなければならなかったのは、言うまでもなく前大会王者の西ドイツだった。
◇◇◇
最終決戦の地は、ベオグラードのスタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダだった。
試合は極めてスリリングな展開となった。
チェコスロバキアが開始8分で先制し、25分にはカルロス・ドビアシュのゴールでリードを2点に広げた。
西ドイツも黙ってはいない。
2点目を奪われた3分後にディーター・ミュラーのゴールで1点差に追い上げると、最後のホイッスルが吹かれる直前にアイントラハト・フランクフルトの伝説となったベルント・ヘルツェンバインが同点弾を決めた。
そして、試合は延長戦まで決着がつかず、最終的なカップの行方をPK戦に委ねることとなった。
先攻を取ったのはチェコスロバキア。相手ゴールには、ゼップ・マイヤーが立ちはだかっていた。
マスニー、バンホフ、ネホダ、フローエ、オンドルシュ、ボンガルツ、ユルケミク…
両軍の選手が次々にPKを決めていく中、意外な人物がキックを失敗した。
ウリ・ヘーネスである。バイエルン・ミュンヘンの絶対的なエースとして君臨していた彼のミスは、少なからずマイヤーにも影響を与えたかもしれない。
そして、次のキッカーがペナルティスポットに立った。
誰あろう、アントニーン・パネンカである。
満を持して彼がゴールに蹴りこんだボールは緩やかに虚空を舞い、そのままネットに吸い込まれていった。
私がここで千語を尽くすより、Youtubeで「Panenka」と検索したほうが理解が早いだろう。すなわち、これが現代でもフォロワーの尽きない「パネンカ」と呼ばれるPKの元祖となったのだ。
この瞬間、チェコスロバキアの欧州選手権優勝が決定した。
◇◇◇
優勝チームがプラハに戻ると、大勢の群衆が彼らを出迎えた。
パネンカはその瞬間のことを、はっきりと覚えている。
「我々はオープンバスに乗っていた。最高の瞬間だった。あの群衆の数ときたら!」
「以前、何度かあのような数の人々を見かけたことがあったよ。他の共産主義国の代表団がやってきた時だったかな。でも、あれは義務的なものだった。優勝後に駆け付けた人々は、自発的に我々を祝福してくれたんだよ」
「共産党員だった何人かの選手たちは『労働赤旗勲章』を受勲したし、私も含めて他の選手たちは『殊勲労働記章』をもらった。もちろん数々の賞金も得ることができた。カラーテレビもセットでね。だけど、金銭なんていうものは偉大な成功からすれば小さな問題でしかない」
「チェコ人もスロバキア人も、すべての国民が欧州王者のタイトルに酔いしれたのさ」
◇◇◇
もしもパネンカのペナルティがフットボールというスポーツの見方を未来永劫に渡って変えたのだとしたら、それと同様、チェコスロバキア代表の栄光も、ヨーロッパの在り方そのものを僅かではあるが本質的に変化させたと言えるかもしれない。
二つの巨大で地政学的な帝国に挟まれながら、そのどちらをも屈服させ、隷従しなかった。全体主義のソビエト連邦をものともしなかった姿勢、そして傲慢なオランダ代表を蹴散らした強靭さは、1976年に端を発したものではない。
68年8月、道半ばにして潰えた「プラハの春」の瑞々しい感性が、確かに8年後の夏に再び芽生えたように見えた。
パネンカが蹴った、自由な軌道を描いたPKのように。
そしてその精神は、やがて分厚い鉄の壁を突き破っていく力となった。
(校了)
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