フットボールの話をしよう - 「ジ・インヴィンシブルズ」の誕生


1889年3月30日、数万人のファンがサリー州に位置するケニントン・オーヴァルの入場ゲートへ押し寄せた。彼らの目当ては、ウォルヴァーハンプトン・ワンダラーズプレストン・ノース・エンドの試合だった。
FAカップ決勝戦。燃え上がったウルブズのサポーターが待ち望んだのは、ノース・エンドの敗北。

1880年5月に結成され、ともに戦ってきたウイリアム・サデルとノース・エンドの選手たちにとっては、FAカップは掲げるべき聖杯だった。


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記憶に新しい、2003-04年シーズンにアーセナルが成し遂げたプレミアリーグの無敗優勝。
「ジ・インヴィンシブルズ」(無敵の軍団)と二つ名を与えられたチームを率いたアーセン・ヴェンゲル監督は、従来の英国フットボールが取り入れてこなかった様々な最新手法でチームを至高の高みへと押し上げました。

しかし、彼らに先立つこと1世紀以上前、同じように「インヴィンシブルズ」と呼ばれたチームがありました。
そのチームは百合色の真っ白なユニフォームを身にまとい、21世紀のアーセナルと同じように革新的な手段で歴史を大きく変えたのです。

彼らが栄冠を成し遂げたシーズンスタートから今年で130年。
その誕生の瞬間を、振り返ってみようと思います。


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ディープデイルの農場借地代を支払う金銭を稼ぐためにクリケットクラブからフットボールに乗り出したノース・エンドが、のちに英国中を震え上がらせるようになるまでの物語は、控えめに言ってドラマチックなものだった。
彼らが初めてFAカップに参戦したのは1883-84年シーズンのことで、その船出は大会からの締め出しという形で締めくくられた。4回戦のアプトン・パーク戦で、登録されていない選手を出場させた為に執られた措置だった。

翌シーズンも試合への参加は認められず、FAカップへのノース・エンドの帰還は86-87年になった。
準決勝まで勝ち進んだ彼らを待ち受けていたのはウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンだったが、遠征と試合数過多で疲れ切った彼らは10分で2ゴールを許し、1-3で大会から姿を消した。

翌年、サデル率いる選手たちは優勝候補だったハイドを26-0という驚異的なスコアで一蹴し、決勝まで進んだ。待ち受けていたのはまたもウェストブロムで、試合終盤に失点して栄冠を逃した。
試合を観戦したすべての群衆はノース・エンドに分があったと感じたが、それもわずかな慰めだった。記録には2-1というスコアだけが記された。

何度もその手をすり抜けていった運命に加え、チームの主将で大黒柱だったニック・ロスエバートンへの加入のためにノース・エンドを去ると、気まぐれなファンや新聞記者は黄金期の終焉を声高に叫んだ。
しかし、後世の私たちから見ると、それは誤った見解だったと言える。

ウェストブロム戦での敗北まで、ノース・エンドは驚くべきことに42連勝を記録していた。前年には54試合無敗という記録も残しており、衰退期にあるチームの様相とはまるで異なっていた。
破滅予言者たちの戯言を他所に、ノース・エンドの面々は新シーズンに向けて静かな自信を蓄えていった。疑う者の目を覚ましてやろうという気概に燃えていた。


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この時点ではいまだリーグ形式のフットボールの大会は行われていなかったが、サデルとプレストン・ノース・エンド(以降PNEと表記する)はリーグ設立のために大きな役割を果たした。事実、設立を提唱したのはサデルだったと伝えられている。
新たなイベントへの期待膨らむPNEの面々には、FAカップでの敗北を悲しんでいる余裕はなかった。彼らの治世を天下に知らしめる絶好の機会と捉えていた。

かくして、世界初のフットボールリーグ戦が1888年9月8日に産声を上げた。

第1節から順調に勝利を重ねていったPNEは、過去数シーズンに渡って屈辱を味わってきたウェストブロムを3-0で下すと、開幕6連勝を記録した。
10月20日のアクリントン戦でその記録はストップするが、彼らの行進は止まらなかった。その後も順調に勝ち点を重ね、残り3試合を残した1889年1月5日のノッツ・カウンティ戦に勝利すると、早々とリーグ初代王者の座を獲得した。

2月になってもその勢いは止まらず、最終節のアストン・ヴィラ戦に勝利すると、彼らは無敗でリーグ戦の全日程を終了した。
当然のことながら、PNEはリーグ戦全試合で無敗を記録した英国初のクラブとなった。
これは信じがたい偉業で、その困難さは次に続くチームが1世紀以上も出てこなかったことからも証明されている。

PNEの次なる目標は、FAカップへと向けられた。


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このシーズンのPNEは、潤滑油が行き届いた機械のように選手の連携が円滑に行われており、フットボールリーグ黎明期におけるロールモデルの役割を果たした。
彼らはスコットランドのクイーンズ・パークが披露していたショートパスをつなぐスタイルを改良し、それまでの標準だった2-2-6ではなく2-3-5のシステムでプレーした。各選手が自らの役割を理解し、チームのタクトを振ったのは優秀なビジネスマンであり予見者でもあったウイリアム・サデルだった。

ディープデイルへの移転とグラウンド整備を実行する中で、サデルは選手たちとの結束を高めて戦術的なアプローチや試合への準備などを綿密に行った。現代の監督の青写真は、彼によって作り上げられたものだった。

彼は選手に学びを与え、勇気づけた。
チョークボードを使った戦術的なセッションを開発し、時にはチェスボードやビリヤード台の上が彼の学校だった。対戦相手のスタジアムに試合観戦に行くと、そのスタンドが即席の青空教室となった。雨の日には靴職人を呼び、シューズを交換させた。

サデルは独裁者であり、選手たちの絶対的な上役でもあった。そして、彼がチームに置いた信頼は絶対のものだった。


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1889年3月16日にシェフィールドのブレイモール・レーンで行われたFAカップ準決勝で、PNEはウェストブロム相手のジンクスを払拭することになった。
1-0で勝利が確定すると、彼らは2年連続2度目の決勝へ進出した。時代の潮流は彼らの手の中にあった。

ザ・ボート・レース開催時間との兼ね合いでキックオフが16時に設定された決勝戦当日。15時40分ごろまでにジ・オーヴァルのスタンドは満席となり、数百人のファンがゲートの前で追い返された。

本来ジ・オーヴァルはクリケット用のスタジアムであり、フットボールの試合を行う際には観客席とピッチは使用しない芝生のスペースで隔てられていたが、この試合で始めてピッチサイドぎりぎりまで仮設観客席が設けられた。
観客を10名1区画に整理できるよう、そのスペースにはロープで境界線が引かれた。

設けられた仮設席を含む、すべての客席が満員となった。観客席に座れなかったファンはスタンドの屋根の上に陣取った。
観客数はそれまでの開催で過去最高の26,000人を数えたが、それはあくまで正規のチケットで入場した人数を集計したものだった。

かつてイートン校のレジェンドとして名を馳せ、この試合で審判員を務めたアーサー・キナード(ロード・キナード11世)による”Prepare for action!”の叫び声が試合開始の合図だった。

ウルブズの面々がとてつもないうなり声を上げて敵のパスゲームを妨げようとするも、12分に先手を取ったのはPNEだった。
ジミー・ロスが放ったシュートがバーに跳ね返ると、主将を務めたフレッド・デューハーストがこぼれ球をネットに押し込んだ。

その13分後、今度はロスがきっちり仕事をして、スコアを2-0とした。
試合はほとんど終わったも同然だった。

ウルブズの選手たちがその身と魂を削るような闘いを挑んできたが、サデルが鍛え上げたチームはゲームを支配し始めた。後半20分過ぎに、サム・トンプソンが仕上げの3点目を決めると、手負いの狼は完全に動かなくなったようだった。

主審のメジャー・マリンディンが運命を告げる最後の笛を吹いた。
ジ・オーヴァルの観客たちは我先にとピッチ・インベージョンを開始し、PNEの即席祝賀会が始まった。

プレストン・ノース・エンドはついにFAカップの聖杯を手にした。
彼らにしかできないやり方──すなわち、パスゲームで。大会中はいかなる失点も喫することはなかった。


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カップ授与式は試合後すぐに報道セクションで行われる予定だったが、あまりにも多くのファンがピッチに残っていたため、スタジアム正面へと変更された。ファンたちの感情が鎮まるまで、待たなければならなかった。

PNEの選手たちはウイリアム・サデルにトロフィーを掲げてほしいと要望したが、彼は怒りとともに、主将にその大役を仰せつかるよう伝えた。フレッド・デューハーストは謹んで拝命し、FA会長を務めていた主審のマリンディンからカップを受け取った。

PNEがここに至る道中、様々な失望や障壁が彼らに襲い掛かった。
しかし、鉛塊のようにサリー州上空に立ち込めた雨雲から光が差し込んだのと時を同じくして、PNEは栄冠を勝ち取った。

トロフィーを手に、デューハーストは神聖な儀式を静かに見守ったファンに、このように語りかけた。

「古いことわざに、こんなものがある。曰く『望みを達するのが遅くなると心は重くなる』と。しかし延期されればされるほど、その日が来ればより強い幸せを感じるのだ」

「このカップを受け取った最も素晴らしい喜びの一つは、我々の偉大なる友人にして管理者でもあった方にこれを渡せるということだ。すなわち、ミスター・サデルに。彼の努力なくしてこの成功はあり得なかった。ミスター・サデルはこのチームの父親であり続けてくれたのだ」

明くる月曜日、PNEは列車でロンドンからプレストンへ凱旋した。
19時までには30,000人を超える市民たちが通りに詰め掛けた。彼らは製粉所や工場の労働者たちだった。
列車駅から出てきたのは、マーチバンドと着飾った銃士にエスコートされたPNEの面々だった。彼らはパブリックホールで行われる特別式典へと向かった。

勝利の行進が続く中、プレストンの人々は歓喜に酔いしれた。
高頂帽とステッキが宙を舞い、荒々しい祝福の声が夜空を切り裂いた。ひとめでもわが町の英雄、そして彼らが勝ち取った栄冠を目に焼き付けようと、群衆の数は次第に膨れ上がった。


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彼らの栄光は長くは続かず、劇的なスピードで坂を転がり落ちていった。

ウイリアム・サデルがアソシエイション・フットボールの父として黎明期の競技形成にもたらした功績は、皮肉にも多くの競争相手にその知見を与え、敵を多く作り出す結果となった。

革新的な手段はいつの時代も模倣され、拡散し、新鮮味を失っていく。
まるで20世紀の終わりにアーセン・ヴェンゲルが英国に持ってきた手法が、いつしか各クラブのスタンダードになっていった歴史の鏡写しのようにも感じられる。

しかしながら、彼がノース・エンドのみならず英国全土、そして全世界における現在のフットボールの形を確立したことは、決して見過ごされて良いものではない。
競技面で、彼らはかつて見たこともなかったような洗練されたパスゲームをピッチ上に体現した。

大会からの締め出しにより試合が出来なくなっても、彼らは失望に向き合い、前進した。その不屈の精神が、19世紀最高のフットボールチームを作り上げた。

あれから129年が経過した現在までの間、FAカップとリーグタイトルのダブルを達成したチームは6クラブしか存在しない。さらに、その誰もが達成できなかった「無敗での2冠」をプレストン・ノース・エンドは成し遂げている。

ここに「ジ・インヴィンシブルズ」は誕生したのだ。

(校了)

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