フットボールの話をしよう - 1980年10月1日、夜、イェーナにて


ドイツのフットボールを愛する諸氏にとって、「カール・ツァイス・イェーナ」という名前はさほどのインパクトを持たぬ物だろう。せいぜい、大きな風景写真にうつりこんだシミのように感じられるかもしれない。
彼らをよく知る人間でも、レンズやカメラ関連のデバイスを製造する企業が運営する小さなクラブという認識しかないだろうし、確かにDFBポカール1回戦で応援するクラブの対戦相手としては与しやすい相手である。

3,リーガの一員として、テューリンゲン州に生を受けたイェーナが世界のフットボールに大きな爪痕を残したとは決して言えない。絵にかいたような田舎の片隅に佇むエルンスト・アッベ・シュポルトフェルドはせいぜいが13,000人のキャパシティで、試合開催の折には数千人のファンが集う程度だ。

しかし、かつてはこの光景が見慣れた日常というわけではなかった。


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今回は、旧東独のユニークな名前を持つクラブのお話。



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古いファンにとっては、カール・ツァイス・イェーナという名前は多少なりとも記憶の奥底を刺激する警鐘となるだろう。
シュタージに支えられたBFCディナモや社会主義色の強かったSGドレスデンロコモティフ・ライプツィヒなどの強豪クラブが東ドイツのフットボールを席巻していた時代があった。そして、FCカール・ツァイス(FCC)も同様の存在だったのだ。

多くの東ドイツのフットボールクラブと同様、彼らも様々な変遷を経た。
第2次大戦前にイェーナの町に君臨していたのは1.FCイェーナだったが、1946年にはその名をSGエルンスト・アッベ・イェーナとした。

東ドイツのクラブやスタジアムが共産主義の影響で名前を変える中、幸運なことにFCCは1990年代初頭まで改名されることはなかった。イェーナ生まれのエルンスト・アッベは物理学を専攻し眼鏡職人として名を馳せた人物で、現在でも世界に熱狂的なファンを持つカメラレンズメーカーであるカール・ツァイスAGの創設者の一人だった。カール・ツァイスはイェーナという町の誇りでもある。
時代とともにエルンスト・テールマンオットー・グローテヴォールなど高名な東ドイツの政治家が死してその名が忘れられてもなお、エルンスト・アッベの名はスタジアムに冠せられ、人々の記憶に残り続けている。


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スタジアムの名が不変であるにも関わらず、クラブの愛称には幾度かの変更が起こった。
東ドイツでは日常茶飯事であり、イェーナもその例に洩れなかった。

SGエルンスト・アッベ・イェーナは1948年にSGシュタディオン・イェーナとなり、さらに1951年にはSGカール・ツァイス・イェーナとなった。1951年にはBSGメカニーク・イェーナ、BSGモートル・イェーナと1年に2度の名称変更があった。1954年にSCモートル・イェーナとなり、最終的にはFCカール・ツァイス・イェーナへと落ち着いている。

国家ぐるみで勢力を誇った強豪クラブに対し、FCCは真っ向から立ち向かい、いくつかの栄冠を手に入れた。1960年にFDGBポカールを獲得すると、3年後にはDDRオベルリーガの栄冠を掲げた。
悪名高きBFCディナモが毎年のように優勝するようになる直前まで、FCCが獲得したトロフィーの数はBFCを上回っていた。1972年、1974年、1980年にポカールを、1968年と1970年にはリーグタイトルを優勝した。リーグ2位で終えた回数も9度を数えた。


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欧州の大会においても、優勝こそなかったものの満足のいく成績を飾っていた。
1961/62シーズンにSCモートル・イェーナの名でカップ・ウィナーズ・カップに初参戦すると準決勝まで勝ち進んだ。70/71でもチャンピオンズカップにおいて準々決勝進出を果たした。UEFAカップでは69/70と77/78にベスト8の記録を残している。

そして80/81シーズン、彼らはついにカップ・ウィナーズ・カップにおいて決勝へと勝ち進んだ。

イェーナのファンの多くがデュッセルドルフのラインシュタディオンで行われたディナモ・トビリシとの試合を鮮明に思い出すことができるだろう。

FCCが63分に先制ゴールを奪ったものの、ソ連を代表してピッチに立っていたトビリシに4分後に同点に追いつかれるなど、往時共産主義を標榜した中心的な2国は一進一退の攻防を繰り広げていた。
もしも優勝を飾ることが出来れば、東ドイツフットボールの歴史に名を残す金字塔となっただろうが、運命はそう簡単なものではなかった。試合残り4分、延長戦へ突入というタイミングでヴィタリー・ダラセリアがトビリシに得点をもたらすと、それがそのまま決勝ゴールになった。

欧州の主要大会での準優勝という成果は、疑うことなくFCCにとって史上最大の成果だろう。
しかし彼らが最も輝いた瞬間という点では疑問の余地があるかもしれない。彼らはこのシーズンの冒険の始まりにおいて、栄華を誇るセリエAの強豪チームを敗退に追い込んでいたのだ。

ASローマとの一戦を目撃したFCCのファンはその一夜のことを生涯忘れないだろう。そして、美しいフットボールの試合を愛する者すべての記憶にも、彼らの驚異的な逆転劇は残り続けるかもしれない。


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すべての逆転劇がそうであるように、この物語も始まりは些細なものだった。
ちょうどラプンツェルが王子様を見つける前に塔の上に幽閉されるようなものだ。

前年のコパ・イタリア王者とスタディオ・オリンピコで対戦し、FCCは強烈なレッスンを受けた。開始5分でロベルト・プルッツォに得点を許し、前半のうちにカルロ・アンチェロッティがそのリードを倍にした。それでもFCCはその点差を保つべく、よく戦っていたと言えるが、フットボール史上に燦然と輝く奇跡のブラジル人、ファルカンが72分に3ゴール目を奪ってしまった。

最終スコアは3-0。
この時点でFCCに期待する者は、よほど熱心なサポーターの中でもいなかっただろう。

迎えたセカンドレグは、当たり前のことだが、ローマのスタジアムと比べて決して勝っているとは言えないエルンスト・アッベ・シュポルトフェルドで行われた。1980年10月1日のことだった。
ホームチームに勝機は無し。皆がそう考えていた。
国別代表のスターを何人も抱えたローマの11人に比べても、ソリッドなチームを構築していたとはいえ、FCC側は見劣りした。

イタリアのクラブは80年代当初、欧州の大会を支配していた。
その最大の武器は鉄の壁にも比肩する強固なディフェンスだった。どんなドリブラーをも容易に通さないカテナチオ相手に4ゴールを奪うのは、至難の技という表現を超えてほとんど不可能に思われた。


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FCCが取るべき方策はただ一つ、「リスクを考えるな」ということだった。
彼らが敗れても、失うものは何一つなかった。
彼らの決死の覚悟に応えたのか、ファンも死地を見届けるためにスタジアムに詰め掛けた。1万3千人収容のホームグラウンドは超満員となり、全員がノイズを起こしてチームに喝を入れた。

試合開始直後から青と白の衣装に身を包んだFCCの選手たちはローマのゴールに押し寄せた。
キーパーのフランコ・タンクレディは何本ものシュートを受けたが、素晴らしいセーブで跳ね返し続けていた。FCCの得点は時間の問題かと思われた。

ローマのディフェンスがトルステン・クルビュヴァイトのクロス処理を誤ると、23歳のアンドレアス・クラウスがペナルティエリアの隅から強烈なシュートをゴール左上に叩き込んだ。時計は前半26分を指していた。

得点後、ボールはすぐにピッチ中央に戻され、FCCの苛烈な攻撃が再開された。
今度は38分にFCCユース出身のトーマス・トプフェルがおぜん立てをし、ルッツ・リンデマンが至近距離からゴールを決めた。

ホームのファンの間で、希望が生まれ始めた。
前半残り7分の時点で、ハンス・マイヤー監督に率いられたFCCは必要な4ゴールのうち、2つを奪うことに成功していたのだ。

前半終了間際、ようやくローマは試合で初めての枠内シュートに成功した。シュートを放ったのはウィンガーのブルーノ・コンティ
しかし、37歳の熟練GKハンス・ウルリッヒ・グラペンティは余裕をもってそれを阻止。彼は東ドイツ代表に選ばれたこともあった。

そして、スイス人審判のアンドレ・デイナが笛を吹き、前半が終了した。


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目の覚めたローマだったが、後半はやはりFCCペースで始まった。
クラウスが放ったシュートがその号砲となったが、将来アズーリを背負うことになる若きタンクレディによって阻まれた。

タンクレディは幸運なことに、2点差を維持することに成功した。
ユルゲン・ラアブのヘディングシュートはバーをたたき、ゲルハルト・ホッペが30ヤードの距離から放った強烈なミドルシュートも同様に防いだ。
観客は次のゴールを確信していたが、試合が進むにつれフラストレーションも露にするようになった。

歓喜の瞬間を待ちわびていたイェーナ市民に、一時の束の間が訪れた。
コンティの代わりに投入されたローマのロベルト・スカルネツィアがクルビュヴァイトをグラウンドに押し倒し、僅か4分で退場処分となったのだ。事件が起きたのはレフェリーの目の前だった。即座にレッドカードが提示され、ローマは10人となった。

「運は自ら作るもの」とはよく言うが、71分に訪れたFCC同点の瞬間はそれ以外の何物でもなかった。
ボックス外側でスペースを見つけたエベルハルト・フォーゲルがゴールに蹴りこんだボールは、相手DFの頭にぶつかり、途中交代のアンドレアス・ビラウの足元に転がった。そして、彼がそのボールをゴールネットに収めるのに、なんの問題もなかった。

苦境にも関わらず、FCCはファーストレグで受けた傷を完璧に癒した。
ピッチに立つすべての選手が激しく戦っていたが、彼らを見事に統率したマイヤー監督以上の功労者はいなかった。ビラウをしかるべきタイミングでピッチに送り込んだ采配は神がかりと言える。ピッチに立って1分も経たぬうち、ファーストタッチで同点弾を決めたのだから。

通算3-3となり、試合は90分を終えようとしていた。
しかしマイヤーが鍛え上げた選手たちは足を止めようとしなかった。あと1ゴールで勝ち抜けという状況のなか、彼らは獲物の羊を発見した狼のように獰猛に襲い掛かった。
クルビュファイトがタンクレディを挑発するかのように長距離からループシュートを放つと、ホームチームは血の匂いを嗅ぎ取った。目的のものは、すぐ眼前にあった。

残り3分、フォーゲルは左サイドにスペースを見つけた。彼が蹴りこんだハイボールのクロスはローマを混乱の渦に陥れた。一度は跳ね返されたボールはボックス外のクルビュヴァイトの足元に収まり、そこからビラウの右足に吸い付いた。放たれたシュートはタンクレディの伸ばした手に渡るかに見えたが、彼の努力は不十分だった。


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4-0。
イタリアが伝統的に築き上げた鉄壁のディフェンスを打ち破ることに、FCCはついに成功した。

奇跡──。

ゴールキーパーへのバックパスが認められていた当時、ディフェンスとグラペンティの間で何度もボールが交換された。
そして、最後のホイッスルが鳴った。

スタジアムに詰め掛けたファンは歓喜を爆発させ、ピッチに乱入した。
それがこの驚くべき情熱の一夜のクライマックスだった。
そして、彼らは歌い始めた。

「アリーヴェデルチ(さよならだ)ローマ!FCCに栄光あれ!」

これまで欧州の大会で誕生した数々の逆転劇があった。
2005年のリバプール、2017年のバルセロナ。

しかし、彼らはいずれも対戦相手に比肩する力を持っていた。
1980年のFCCは決してリバプールやバルセロナではなかった。
対戦相手は高名なるニルス・リードホルムに率いられ、のちにイタリアを制することになるローマだった。彼らは完全に格下の存在だった。

1980年10月1日。
これは夢想家たちが王者のように威風堂々と行進を開始した夜の物語だ。

(校了)

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