とあるフットボーラーの肖像 - エツィオ・パスクッティと狂乱のモスクワ


「モンディーノ」の二つ名で知られるエドモンド・ファブリに率いられたアッズーリ。
1964年欧州ネーションズ・カップ(現在の欧州選手権ユーロ)予選大会2回戦で対戦したのがソビエト連邦代表だった。当時のフォーマットでは準々決勝までが予選大会で、6月にスペインで行われる準決勝以降の本大会の出場権をかけてホーム&アウェー方式のトーナメント戦が行われた。

この試合の1年前、1962年にチリで行われたワールドカップにおいて、悪名高き「サンティアゴの戦いバトル・オブ・サンティアゴ」でホスト国相手に敗退したイタリア代表にとっては、汚名返上の絶好の機会となるはずだった。
ソ連代表は1960年の前大会王者で、実力を示すには格好の相手だったと言える。

一方、ソ連側もワールドカップでは準々決勝でチリ相手に敗退を喫していた。
大会における悲劇は、CSKAモスクワでプレーしていたウクライナ人ディフェンダーのエドゥアルド・ドゥビンスキが骨折してしまったことだった。事故が起きたのはグループステージ初戦に「コミュニスト・ダービー」として行われた対ユーゴスラヴィア戦で、ボスニア人選手のムハメド・ムジッチによる悪辣なプレーが原因だった。

1963年10月13日、ドゥビンスキはレーニン・スタジアム(現在はルジニキ・スタジアム)でのイタリア戦に戻ってくることが出来た。
故障明けの選手には酷なことだが、ドゥビンスキには達成困難な難しいタスクが用意されていた。それは、エツィオ・パスクッティのマンマークだった。


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今回は、二人のフットボーラーの足跡を。

元ネタ:IL PUGNO AI COMUNISTI DI EZIO PASCUTTI


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左サイドを中心とした前線で活躍したパスクッティは生粋の点取り屋としてセリエAで大活躍しており、最終的にはボローニャのワン・クラブ・マンとして296試合130得点の偉大な記録を残すことになる。

1963/64年シーズン、パスクッティはもう一つの驚異的な爪痕を歴史に刻んでいた。
セリエA開幕10試合連続得点──この記録は32年後、フィオレンティーナのガブリエル・バティストゥータに塗り替えられることになる。フリウーリ生まれの爆撃機の餌食になったクラブを順に挙げていこう。ヴィチェンツア、ヴェニス、パレルモ、ユヴェントス、モデナ(ハットトリック)、アタランタ、SPAL、ACミラン、ローマ、トリノ。

ファブリによって代表に呼ばれたパスクッティは、モスクワでも先発に名を連ねていた。
彼とユニットを組んだのは、ブラジル生まれのアンジェロ・ソルマーニ、グランデ・インテルの一角を形成したマリオ・コルソ、そして「超頭脳」ジャンニ・リベラだった。

しかし、試合はアッズーリの思い通りには始まらなかった。
前半22分にヴィクトル・ポネデルニクのゴールでリードを許すと、1分後に状況は混迷を極める。

パスクッティが相手の守備網をかいくぐってゴールキーパーのラマズ・ウルシャゼ(余談だが、彼の息子のザザは映画監督として名作を世に送り出している)への門を開いたが、その美しい瞬間は破壊によって奪われてしまった。
彼の足を薙ぎ払ったのは、ドゥビンスキだった。手術した足で、文字通りパスクッティを刈り取った。


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交錯後のパスクッティの反応は的確なものだった。
すぐに立ち上がるとドゥビンスキの首根っこを鷲掴み、腕を伸ばして彼の体に拳を当てるための空間を作った。そして、殴った。しかしその拳は空を切った。

ドゥビンスキはまるで暴力を受けた被害者であるかのようにグラウンドに倒れこんだ。
主審が近寄り、事件現場から遠ざかろうとするパスクッティを捕まえた。
イエローカードやレッドカードが導入されるのは1970年のことだったが、それがさらに状況を混乱させた。

パスクッティは後に述懐する。

「まるでコミックのようだった。ポーランド人の主審が私の前で2本の指を掲げた。それは、『出ていけ』と言っているようなものだった。主将のチェーザレ・マルディーニが私の所へ来て『あれを見たか?2分間だけピッチの外で待っていればいいさ』と告げた。

私は混乱しており、ほとんど狂乱状態だったかもしれない。タッチライン沿いに立っていた監督の横で、私は2分間待った。しかし、スタジアムに詰め掛けた10万人が揃って口笛を鳴らしていたんだ。私は一人でロッカールームへ戻り、号泣したよ」

重要選手を欠いたイタリア代表は、結局2-0でソ連に敗れた。
それは単なるフットボールの試合結果ではなく、冷戦時においては共産主義側に大きな意味を持っていた。代表チームと共に、多くの政治家たちもスタジアムに駆け付けていた。


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モスクワからイタリアへ帰る機上、パスクッティは政治家たちと同じファーストクラスに座った。ジャーナリストとの接触を避けるためだった。

「誰も私に話しかけようとはしなかった。唯一声をかけてきたのはレッジョの共産党議員だった男だけだったが、彼には勇気をもらったね」

パスクッティを擁護した数少ない人物の一人は、ファブリ監督だった。

「パスクッティをチームから排除しようとするのは、公平とは言えない。ソ連の選手はジェラルミンの靴底を使用していた。ルール違反だよ」

UEFAによる処罰はくだらなかったが、イタリアサッカー連盟は政治家や報道関係者からの圧力を受け、パスクッティに3か月間の出場禁止処分を言い渡した。

「私を『世界最高の左ウィング』と称してくれたジャンニ・ブレラでさえ、私の処罰を求めていた。彼らは私に何も話してくれなかったが、家に帰ると妻が泣いているのを見た。妻はテレビのニュースで私の処分を知ったのだ」


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それから、パスクッティにとって難しい時期が訪れた。
イタリア新聞各紙はフロントページに彼の悪行を書き立て、「簡単に手を出すやくざ野郎」という見出しが躍っていた。国内の試合でも、相手サポーターが指笛を鳴らし、彼に心無い罵詈雑言を浴びせかけた。彼は、フィールドでは常に耳栓をするようになった。

しかし、時間は彼の味方だった。
パスクッティは自らを貶める者たちへの復讐の機会を得た。

1963/64年シーズン、ボローニャはエレニオ・エレーラ監督の下「偉大なるインテルグランデ・インテル」を謳歌していたインテル・ミラノを退け、スクデットを獲得した。その中心にいたのがパスクッティだった。
ロッソブルで過ごした素晴らしいシーズンのおかげで、彼は1964年4月にフィオレンティーナで行われたチェコ・スロヴァキア代表との親善試合でアッズーリへの復帰も果たした。

また、1966年にイングランドで行われたワールドカップのメンバーにも選ばれた。
彼が唯一ピッチに立ったのは、1-0で敗れたソ連代表との試合だった。

1967年までアッズーリでプレーしたパスクッティは17試合出場、8得点の記録を残した。
その2年後、1969年に32歳の若さで選手生活を終えた。

生涯ボローニャのユニフォームを着続けた彼のもっとも美しいゴールは1966年にジュゼッペ・メアッツァで行われたインテル戦で生まれたものだった。インテル側のゴールを守っていたのは、彼と同じくフリウーリ生まれのタルチシオ・ブルニチだった。

引退後は、妻のエマニュエラとともに二つの斜塔がそびえたつボローニャの地に住み続けた。
そして2017年1月4日、自宅で静かに息を引き取った。

彼は同僚だったジャコモ・ブルガレッリと共に、ボローニャファンから最も愛された選手として人々の記憶に残り続けている。


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1964年にミラノで行われたソ連とのセカンドレグで1-1の引き分けを演じたアッズーリは、結局ネーションズ・カップ本大会への進出を逃した。

ソ連代表は2大会連続の王座へ指をかけたかに見えたが、決勝で開催国のスペインに敗れ、その夢は儚く散った。決勝の舞台はマドリードのサンチャゴ・ベルナベウだった。

エドゥアルド・ドゥビンスキにとって、モスクワでのイタリア戦が代表最後の試合となった。
チリワールドカップでのユーゴ戦で負った傷が完治することは遂になく、そのケガが原因で発祥した肉腫(ガンの一種)が体を蝕み、1969年5月11日に命を落とした。34歳だった。

(校了)

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