フットボールの話をしよう - 大統領閣下のフットボールクラブ


ルーマニア南部、手つかずの田園地帯にスコルニチェスティは位置している。
人口は12,000人に満たず、かつては、これと言って特筆すべきところのない村だった。

しかし、ニコラエ・チャウシェスクがルーマニア大統領に就任すると、この小村の様相も一気に変化した。ここは大統領の出生の地として名を知られるようになり、彼の後ろ盾により、地殻変動的に工業地域へと変化を遂げた。

その助力はスポーツ面でも大きな影響を及ぼすようになった。
チャウシェスクの大いなる野心は、1972年にこの地で設立されたフットボールクラブが体現することになる。そのクラブは、後にFCオルト・スコルニチェスティと呼ばれるようになる。

ルーマニアフットボール界に深い闇を落とした1970年代から80年代にFCオルトが成し遂げた成果は、幾分か議論の余地が差し挟まれるだろう。


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元ネタ:FC OLT SCORNICEŞTI – NICOLAE CEAUCESCU’S HOMETOWN CLUB


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1972年にヴィトルル・スコルニチェスティの名で創設されたこのクラブは、東欧ではありがちなことだが、いくつかの改名を経て1980年にFCオルト・スコルニチェスティとなった。
とんとん拍子で下部リーグから駆け上がると、1978年にディヴィジアB(ルーマニア2部)へ昇格。そして、翌シーズンにはトップリーグへの切符を勝ち取ることになった。

しかしこの昇格は、のちにフットボールファンの疑念を呼ぶものとなった。
昇格枠に上がるためには、上位クラブと大きく開いた勝ち点差を解決する必要があったが、FCオルトはエレクトロドゥル・スラティナとの試合を18-0で大勝して一気にポールポジションへとのし上がった。

この試合、FCオルトの会長だったドゥミトル・ドラゴミルが試合終了後のシャワールームへみずからおもむき、両チームの選手たちにもう一度試合をするように指示したという。彼は、この滑稽な茶番をFCオルトが昇格可能な得点となるまで何度も繰り返した。

その甲斐もあってスコルニチェスティは大都市以外からトップリーグに参戦した唯一のフットボールクラブとなったが、彼らと彼らの後ろ盾となった大きすぎるパトロンに対して怨嗟の念が募っていった。

オルトのゴールを守ったイオン・アンヘルはこのように回想している。

ラピド・ブカレストとのアウェーゲーム、スタジアムは観客で埋め尽くされた。ブカレストの人々は我々を好奇の眼で眺めていた。彼らが2-0で勝利すると、ファンは一斉にチャウシェスクを呪い、歌を歌い始めた。『小作人が農場にいるぞ』とね」

ディフェンダーのアウレル・ミンクはメタルル・ブカレストとの試合をこう振り返る。

「我々のホームゲームで、80分を過ぎても試合は0-0のままだった時だ。メタルルが完璧なゴールを決め、先制した。我々がセンタースポットにボールを置き、試合を再開しようとすると、ピッチサイドで試合を見ていた会長が私を呼び、こう言った。

『レフェリーのところへ行き、あれはオフサイドだったと話せ。キックオフする前にな』

レフェリーは私が来るのを待ち構えていたようだ。私はその指示を忠実に実行した。すると、彼は線審と話をしに行った。そして、ゴールは取り消されたんだ。

その判定に抗議するように、メタルルの選手たちはボールに背を向けた。我々のチームメートだったソアレスだけが取り残され、彼はボールをゴールネットに蹴りこんだ。これで試合は1-0となった。

メタルルの選手たちはボールを中央に戻したが、キックオフが宣言されてもやはりボールに背を向けていた。だから我々は、誰も守備をしに来ない相手ハーフでボールを進め、さらに得点を追加した。

2点目を見届けた主審は、すぐに試合終了の笛を吹いた。時計はまだ82分を回ったところだったにも関わらず」


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1970年代に話を戻そう。

スコルニチェスティの人口は、当時6,000人といったところだった。
しかしチャウシェスク主導の実験的な都市開発計画に組み込まれ、「モデル都市」として目まぐるしく再開発が行われた。1980年代初頭には、古くからあった町並みはすべて取り壊され、農業と工業を融合した中心地へと変貌していった。

ルーマニアの伝統的なレンガ造りの家々は軒並み破壊された。そこに住んでいた住民は強制的に退去させられ、中規模のアパートメントが立ち並ぶ一角へと移住させられた。すべて国家の命令によるものだった。

コンドゥケーターによって思い描かれた通り、かつてルーマニアの片田舎の村だったスコルニチェスティは、国が掲げる「農工融合の黄金都市」に生まれ変わった。

イオン・アンヘルはこの変化が起こる前にスコルニチェスティを訪れている。

「私が初めてこの村に来た時、乗り換えで2時間も待たされたよ。町には車なんて走っていなかった。2台くらいしかなかったんじゃないかな。あるのはただ泥、そして泥だった」

スタジアムは村の入り口、かつて屠殺場だった場所の横にひっそりとたたずんでいた。
そこには選手たちの宿泊場所と、村で数少ないバーも併設された。

当時の状況について、ミンクはこのように語った。

「そこは村のメッカだった。飲みにでも行かなけりゃ、他にやることなんて何もなかった。バーのテーブルにすわって、ひたすらおしゃべりをすることだけが時間を潰す方法だったんだ。

正直に言おう。誰が好きこのんでこんなクラブのシャツを着たいと思う?俺たちは傭兵集団だった。誰だろうと、金のためにあそこにいたんだ」


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初めてのディヴィジアAでのシーズン、FCオルトは若く未だどのクラブからも目をつけられていない才能を獲得した。やがてルーマニアのレジェンドとなるその選手の名はヴィクトル・ピツルカ

その時のことを、ミンクは鮮明に覚えている。

「開幕戦開始の20分前、奴は突然ドレッシングルームに現れたんだ。クラブの経営陣がやってきて、俺たちにこう告げた。

『彼の名はピツルカだ。パンドリ・タルグ・ジウから移籍してきた』

ピツルカは素晴らしかった。開幕戦でいきなりゴールを決め、1-0で俺たちは勝った。

若くてすばしっこい選手だった。『チャンスは逃しちゃいけない』『試合と相手を常にコントロールしてなきゃいけない』って嘯いていたが、奴はその金言をどこでも実行してきたってわけだ」

将来的に代表監督となるピツルカは、オルトに4シーズン留まった。そして、ステアウア・ブカレストへ──彼はそこですべてを勝ち取ることになる。とりわけ高名なものは1986年のヨーロピアンカップだ──と旅立っていった。
バルブレスクやドゥミトレスク、バムベスクといった選手たちも、ピツルカの後を追うようにクラブを去っていった。

ダン・ペトレスクも後にFCオルトへ1シーズン限りのローン契約でやってきた。そして、その後セリエAやプレミアリーグで名を残した。


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前季同様、1979-80年シーズンにもお決まりの出来事が起きた。
つまり、八百長疑惑である。しかし、そのことでFCオルトが直接的に受益者となったわけではなかった。

改めて、ミンクの証言を借りよう。

ASAトゥルグ・ムレシュとのシーズン最終戦の時だった。彼らはCSトゥルゴヴィシュテと降格争いをしていた。スタジアムに、突然2人の将校がやってきて、俺たちに『この試合、負ければ金をやろう』と告げた。

『ここで提案を受け入れずに君たちが負ければ、金は受け取れない。どのみち受けた方が君たちのためだ』とね。実はトゥルゴヴィシュテからも同じようなオファーがあったんだが、結局将校たちの提案を飲んだよ。そっちのほうが安全だと思ったんでね。

奴らは7-0で勝利し、得失点差で相手方を上回って無事に降格を免れたよ。トゥルゴヴィシュテも対戦相手のティミショアラに5-1で勝利したんだが、不十分だったようだな。

試合終了間際、俺たちは向こうさんに『ゴールを決めてもいいか?』と提案したんだ。彼らは承諾し、ボールを渡してくれた。

簡単なチャンスだったんでゴールネットにぶち込んだが、ラインズマンがオフサイドの旗を上げた。相手DFが『いまのどこがオフサイドなんだ?』と俺たちのために抗議してくれたが、やはり得点は認められなかった」


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チャウシェスク支配後のルーマニアで、スコルニチェスティは他の計画都市と同じように発展を遂げていったが、唯一違うのは大きなスタジアムの存在だった。ディヴィジアAへの昇格後、トップハーフを安定して保っていたクラブは、1985年にスタジアム建設を決断した。

ヴィトルル・スタジアムは25,000人収容の観客席を持つ大規模会場として作られたが、村の総人口は6,000人ばかりだった。そして1988年、国内で初めてプラスチックの椅子が採用されたスタジアムとしてこけら落としが行われた。ピッチは最新鋭の排水システムが導入された。

当時クラブのディレクターだったイオン・プレダは、ピッチサイズが120m×90mに設定されたことを冗談を交え振り返っている。

「デカすぎたよ!開幕戦で我々はクライオヴァを6-2で破ったが、当時の相手監督はあまりの広さに怒り狂っていたな」

当時ゴールを守ったイオン・アンヘルは「協会の人間が数日後にやってきて、こんなピッチサイズは狂っていると話をしていた。使用は認められないとね。だから我々はとりあえず100m×70mに直したんだが、重要の試合ではラインを10m広く付け加えていた。誰が気づくっていうんだ?」と語る。

「素晴らしかったよ」と語るのはイオン・ミウだ。

「スタジアムはすべてが美しく装飾され、設備には何の不足もなかった。

現在のスタジアムの姿からは、当時の栄光を見出すことは難しいだろう。スタジアムへ向かう道路には甌穴が点在し、回避して進まなければならない。駐車エリアは沼地となっている。

スタジアムはもう何年も保守点検されていない。装飾は壁から剥がれ落ち、入り口は薄暗く照明が機能していない。いくつかの壁や天井は地面に横たわっている。もともと選手のために用意された上階の部屋はホームレスによって占拠されているよ」

イアメンツ・テオドレサフも往時を懐かしむ一人だ。

「一度はスーパースタジアムだったこの場所が、今ではこんなに醜い建物になってしまうなんてね。チャウシェスクの後ろ盾がなくなり、クラブが4部へ降格してからすべてが間違った方向へ進んでしまった。地域リーグレベルではスポンサーの関心を引くことも出来ない。

FCオルトは、古き良き時代は白い巨象のようだった豪奢なスタジアムを保つことが出来なくなってしまった。ブカレストにさえ、あんなスタジアムはなかった。

プールやサウナのような選手の肉体回復に使える施設があって、スタンドは全席着席だった。他のスタジアムでは立見席や木製のベンチしか持っていなかったんだ」

かつてのオルトの選手でファーストチームの監督も務めたマリウス・スタン曰く、「こんな大きなスタジアムで、無観客の中プレーするのはつらい」と。
現在このスタジアムに訪れるのは、多い時でせいぜい70名ほどの観客だ。その光景は、まるで灰色の何もない画面に点在する黒い点のように映る。

「今とはまるで違う物語だった。私は1988年にここにやってきたんだが、ここはトップクラブだった。しかし、1989年にすべてが変わってしまった。革命の後、クラブは自動的に3部へ降格させられた。共産政権との癒着が原因だった。選手たちも去ってしまった。

一度はディビジアBへ上がったんだが、また逆戻りさ。悲しいことだよ」

「共産主義時代は良かった。すべてが今よりも」とはイオン・ミウの言だ。
彼を擁護するわけではないが、確かにここでの生活は共産主義時代のほうが暮らしやすかった。

「1990年までは、スコルニチェスティはまるで西欧諸国のようだったんだ。肉や牛乳、卵、チョコレート、そしてルーマニアでは販売が禁止されていたペプシまでもが無料で手に入った。ブカレストから買い出しに来る人もいたくらいさ」とアンヘルが証言している。

1989年当時の監督だったマリアン・ボンドレアは、過去に関してより慎重に考えている。

「それは事実だ。我々は特権を持っていた。欲しいものは何でも購入することが出来た。しかし、それは他のクラブも同様だったんだ。フットボールは国にとっての優先事項で、スコルニチェスティだけのものではなかった。他の多くの地域もフットボールの恩恵を受けていた。ニコラエ・チャウシェスクの生誕地だったからと言って、我々が大統領閣下のクラブだったと考えるべきではないね」

実際の所、チャウシェスクはFCオルトで重要な役割を担っていたわけではなかった。このクラブのカギとなる人物は、チャウシェスクの義理の兄弟であるヴァシル・バルブレスクだった。ヴィトルル・スタジアムの建設も彼が取り仕切った。

イオン・プレダによれば「チャウシェスクはこんな大きなスタジアムが出来たことすら認識していなかったんじゃないかな。彼が訪れたのはこけら落としの1年前だった。ブルガリア大統領のジヴコフを連れていたが、その時は建設の真っただ中で人々があふれ、スタジアムの全容は見ることが出来なかった。完成後も、彼はなんの祝辞も送ってこなかった」という。


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FCオルトのリーグ戦最高順位は4位だったが、彼らには枷が嵌められていたと考える意見がある。

マリアン・ボンドレアはこのように語っている。

「1989年の1シーズンを過ごしただけだったが、素晴らしい体験だった。正直に言えば、チャウシェスクの影響を感じることはなかったよ。クラブ上層部はディナモだけは全力をもって叩き潰せと言ってきただけだった。そのシーズン、彼らを1-0で破った。

それ以外は我々にはなんの重圧もなかった。明確に目指すべき目標というものが無かったんだ。出来る限り上の順位を目指していた。ヨーロッパの大会には出場しない程度にね。

信じてもらえないかもしれないが、FCオルトはヨーロッパに出場することを望まれていなかった。例えば1989年、我々はリーグ最終戦の前まで5位につけていたんだが、そこでヴィクトリア・ブカレスト(国からの援助を受けていた)を破ってUEFAカップに出場することも出来た。だけど我々はそこにプライオリティを置いてはいなかった。

バルブレスクの希望があったにせよ、大統領の意思に背くようなことはしなかったんだ」

チャウシェスクは実のところ、それほど熱狂的なフットボールファンだったというわけではなかった。むしろ嫌々フットボールに関わり、時には侮蔑的な態度を取ることもあったという。

彼にとって重要だったのは新たなルーマニアの建設と、「共産主義者」の育成だけだった。フットボールはその役割を担っていたと言える。ステアウアとルーマニア代表の試合結果を気にしていたのは、息子のヴァレンティンの方だった。

ここに一つの逸話がある。当時のことをミンクは覚えている。

「1982年のジウル・ペトロサニとの試合は忘れられない。

とんでもない暑さの中、6月に行われたリーグ最終戦だった。収穫期でほとんどの男たちは畑仕事をしていた。試合には数百人しか訪れていなかった。

全員がゴール裏の日陰になる場所で試合を見守っていたが、ハーフタイムが終わってピッチに戻ると彼らは反対側のゴール裏に移動していた。そこは太陽が照り付ける場所だった。

何が起こったのかと不審に感じたが、どうやらチャウシェスクが試合中継を観戦するのでガラガラの観客席を見せるわけにはいかないというクラブ上層部の配慮だったようだ」


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今日では、FCオルトは4部リーグという底辺をさまよっており、若い選手たちは地元住民の無関心に苦しんでいる。エリートとは遠く離れ、ヨーロッパへの道のりも困難で、クラブの将来を楽観視する理由は数少ない。

FCオルト・スコルニチェスティはこれまで語られてきた挑戦と妥協の歴史を持ちながら、今でも片田舎の農村にひっそりと存在している。

戦後、共産主義によって生み出されたヨーロッパ最悪の独裁者との関りを断つことはできない。
クラブを見る者すべてに、いやおうなしに専制政治を思い起こさせてしまうのだ。

(校了)

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