フットボールの話をしよう - フットボーラーのためのフットボール


1968年5月、フランスでは革命の機運が最高潮に達していた。
同時多発的に繰り返されるゼネストと抗議運動が全土に拡大し、フランスの民衆の熱と力が衆目にさらされることになった。

運動は大学に端を発したが、すぐにオフィスや工場の労働者に飛び火した。
実にフランス国内で就労する70%の労働者が雇い主への抗議に参加したと言われている。

──いわゆる「五月危機」である。

68年闘争は、短期的なものではあったが、民衆運動がいかに力強く拡大するか、いかにフランスの社会構造に影響を与えるかを白日の下に明らかにした。
シャルル・ド・ゴール大統領はひそかに国中を駆け巡って財産を隠し、辞任に備えた。

闘争の真っ最中、注意深くひそかに行動する集団があった。

それは、フットボーラー達だった。
彼らは全体から見ればごく少数だったかもしれない。
しかし、火炎瓶と改造車、催涙ガス飛び交うフランスの街頭で、彼ら自身の革命を始めたのだ。


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革命に参加したフットボーラー達はフットボールピッチ上、そして新聞紙面で活動を行った。
1958年から1979年の間、左翼団体「ミロアール・スピリット」は「ル・ミロアール・デュ・フットボール」と名付けられた月刊紙を発行した。
その寄稿者の多くはアマチュア選手たちだったが、彼らは紙面上で選手の権利と福利厚生を声高に訴え続けた。

発行された新聞はフランスの社会体制のみならずフランスのフットボールにおける権力構造とも敵対した。
頻繁に攻撃されたのはFFF(フランスフットボール協会)と関与する人物で、その中には協会会長のピエール・デローネイや代表監督のルイ・デュゴーグとジョルジュ・ブローニュが含まれていた。

パリが緊迫した状況に差し迫る中、アマチュアフットボーラー達もまた同じように動き始める。
工場労働者が職場を占拠するのなら、フットボーラーもまた拳を掲げ協会を占拠する権利があるはずだ。彼らはそのように考えていた。

事件が起きたのは1968年5月22日だった。
それは1000万人のフランス人労働者たちがストライキを決行した1週間のうちの1日だった。
パリ証券取引所が暴動で炎上する数日前、自らを「フットボーラーズ・アクション・コミッティー」と名乗る団体がシャルル・ド・ゴール=エトワール駅とセーヌ川をつなぐイェーナ通り沿いに拠を構えるFFFのヘッドクオーターに侵入した。

武力行使を行わず、頭数で協会へ入り込んだ彼らは30名の職員を屋外退去させた。
ターゲットは2名だった。代表監督のブローニュ、そして協会会長のデローネイ。
両名は速やかに協会建物内の一室に隔離された。

成功の証に、侵入者たちは建物にバナーを掲げた。
そのうちの1枚は、1階の窓の外へ露出していた。そこに書かれたメッセージは

「LE FOOTBALL AUX FOOTBALLEURS!」(フットボーラーのためのフットボールを!)

というものだった。


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フットボーラーズ・アクション・コミッティーの活動のモチベーションを理解するためには、フットボーラー個人が強大な力を持つ現代とは違った価値観を理解する必要がある。
1960年代、フットボーラーの人生はどのようなものだったのか。

彼らは契約によって生殺与奪を握られていた。

給与は今よりもずっと低かった。
しかし、さらに問題だったのは契約期間だ。
ほとんどすべての選手にとって、この問題が大きくのしかかっていた。

往年、契約期間は選手とクラブ間の話し合いによって決まるものではなかった。
選手がピッチ上でプレーするために締結するすべての契約には、35歳までの雇用が含まれていた──つまり、選手生活のすべてを一つのクラブに費やす終身契約だ。
選手に他の選択肢が与えられないこの契約形態は、FFFによって課せられたものだ。
クラブ側には、必要な時にいつでも選手を切り捨てることが出来る都合のいい条件だった。

みずからの可能性を狭める働き方は、選手にとってはもちろん都合が悪い。
事実、フランスフットボール界のアイコンだったレイモン・コパは1963年に本内容について「まるで奴隷の様だ」と苦言を呈している。
コパはこの発言により6か月の出場停止処分を受けたが、彼の言葉はFFFによって牛耳られた状況下において、大きな波紋を呼んで行った。


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「奴隷契約」の撤廃は、フットボーラーズ・アクション・コミッティーの要求の一つに過ぎなかった。
その他には、1961年に時のスポーツ大臣だったモーリス・ヘルツォグの手で定められた移籍志願の絶対条件だったBライセンスの撤廃とオフシーズンの移籍志願提出許可(当時はシーズン中の8カ月のみで移籍志願可能だった)などが含まれていた。

中でも最も劇的な要求──それは60万人のフットボーラー達の投票によって決められたものだった──は「利権をむさぼる不法者たちの即時解任」だった。
抗議者たちは、「フットボール界を蝕む成金パトロンたち」からフットボールを解放することを心から願っていた。

協会でのバナー掲示や啓蒙パンフレットの配布で、占拠者はフットボーラー、そしてフットボールファンへ占拠活動へ加わるように呼び掛けた。
パリを本拠に活動していたレッドスターの選手、例えばアンドレ・メレールやミシェル・オリオットなど少数ではあるがプロ選手たちが賛同し、これに加わった。
遠方からも賛意の声が寄せられた。

かつて代表選手と監督を務めた、名高きジュスト・フォンテーヌ──あえて説明するまでもないが、ワールドカップ1大会での最多得点記録を持つ男、そしてナショナル・ユニオン・オブ・プロフェッショナル・フットボーラーズの創始者──もこの運動の旗手となった。


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しかし、各メディアはこのFFF占拠事件を大々的に報じなかった。
フットボール・アクション・コミッティーの切実なる要求は、数日後に起こる、証券取引所炎上という大きなトピックスに塗りつぶされてしまった。

状況を鑑み、フットボーラー達はわずか5日間で占拠を解除した。
彼らは、彼らの問題と彼ら自身の持つ力を世に知らしめることに成功した。
そして、武力によってではなく、対話や他の手段によって目的を達成すべきだと考え始めた。

フットボーラー達の必死の抗議によって、その窮状は議論の場に引き上げられた。
その抗議の結果、1969年に「奴隷契約」は撤廃されることとなった。
契約は、契約期間を柔軟に変更できる内容に様変わりし、選手とクラブ双方の合意の元決定できるようになった。

クラブ側が再度この契約について異議を唱え、損失を防ぐために選手の給与水準を引き下げようと画策した際には、選手組合が再び戦った。
1970年代初頭には「奴隷契約」は過去の遺物となっており、Bライセンスも消滅した。

フットボール界のヒエラルキーは、この行動によって緩やかに解体されていく。
FFFがコミッティーの要求を一部呑み、選手の福利厚生や選手組合の認可、ランクに基づく選手獲得などが実現された。


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「フットボーラーのためのフットボールを」というスローガンが現実的に達成されているかは
置いておくとして、読者諸氏は現在のプロフットボーラー──決して一部のトップ選手のみではなく──がある程度は世の春を謳歌しているように感じるだろう。
それは、最終的にフットボーラーが勝利したという何よりの証左だ。

現在でも、一部の不届き者たちがフットボール界には跋扈している。
彼らは選手たちよりも、もしかしたら我々ファンを搾取しているのかもしれない。

しかし、半世紀前、そんな状況に抗議するために立ち上がったフットボーラー達の存在を忘れてはならない。今日フランス国内を覆うジレ・ジョーヌのように時代の波に乗り、圧制と戦った男たちの姿を。

声を上げるのは、いつでも当事者であり、民衆だ。
一人一人の行動が集合してうねりとなり、渦を巻く。
その時、我々はフットボールの歴史が変わる瞬間を目の当たりにするだろう。

(校了)

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