フットボールの話をしよう - 海を渡ったアイルランド人たち


19世紀より本格的に始まったアイルランド人のアルゼンチンへの移民は、現在でも現地文化へ大きな影響を残している。
政治面においては欧州の革命の風を大陸に送り込み、信仰面ではカトリックの考えを定着させた。現在、アルゼンチンの人口の92%がカトリック教徒であり、大統領にはかならずキリスト教徒が選ばれている。
スポーツにおいてもハーリング、ラグビー、そしてフットボールの情熱を根付かせた。

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史上初めてアイルランド人がアルゼンチンの地に降り立ったのは、16世紀のことだったと言われている。
フアン・ファレルとトマス・ファレルの兄弟は、「ブエノス・アイレスの発見者」として知られるスペイン人の探検家、ペドロ・デ・メンドーサのチームの一員だった。

1814年に上陸したメイヨー州生まれのウィリアム・ブラウンという男がアルゼンチン海軍の提督になると、独立戦争やアルゼンチン・ブラジル戦争、ラプラタ川封鎖における勝利で国民的英雄の一人となった。彼はアルゼンチンの称賛を集め、「アルゼンチン海軍の父」と呼ばれている。

ウィリアム提督の渡爾後ほどなくして海を渡ったウィックロウ出身のジョン・ソモンド・オブライエンは、困難な海路の結果生き残った少数の仲間と共にブエノス・アイレスでの生活を始めた。現地人から「ドン・フアン・オブライエン」と新たな名前を授かると、解放者ホセ・デ・サン=マルティン率いる解放軍に加わりチリ独立戦争で活躍した。

1844年に宣教師として訪れたアンソニー・フェイヒーはカトリック布教を推し進め、のちにブエノス・アイレスの代表者となった。

1869年までに生活拠点をアルゼンチンに移した11,000人のイギリス人のうち8,500人がアイルランド姓を持っており、5,000人が実際にアイルランドからの移民だった。
19世紀を通じて推算すると、約45,000人のアイルランド人がアルゼンチンに渡った。

当然のことながら、その移民の波はスポーツの文化も大陸に持ち込んだ。
1863年にフリーメイソンたちがロンドンで作り上げたフットボールはアルゼンチンでも行われ、4年後にブエノス・アイレスFCが結成された。
このフットボールクラブ結成に携わった関係者2名がアイルランド人だったと言われている。

アルゼンチン国内には現在でもなおアイルランドとのコネクションを持つクラブがいくつか存在するが、その嚆矢となったのはロボス・アスレティック・クラブボカ・ジュニアーズだった。

ロボスはブエノスアイレスより100kmの郊外に位置する肥沃な農園地帯である。
アイルランド人の植民により、ヨーロッパの文化を形成する下地が整ったことがロボス・アスレティックを生み出した大きな要因と言える。

クラブはこの地域でのフットボール拡大に貢献した。
当時、まだ国内にはアマチュアクラブしか存在していなかったが、彼らはアルゼンチンのフットボールクラブとして初めて国外での試合を行った。1899年、ウルグアイのチームとの試合だった。

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20世紀に近づいてもなおアイルランドからの移民の流れは留まらなかったが、後発でこの地を訪れたものの中には後に著名な成果を挙げる男が含まれていた。
名をパディ・マッカーシーという。

アイルランド南東部に位置し、古より歴史を紡ぐカシェルという小さな村から希望を胸に異国の地へ渡ったマッカーシーはアルゼンチンで港湾労働者の職を得ると、後に体育教師として教育者となった。
しかし、彼の才能はボクシングで最も輝いた。

当時、多くの船乗りや肉体労働者が辿ったのと同じように、彼もまた教師を続けながらボクシングのリングに上がった。
ボクシングはギャンブルや売春の温床となる反社会的な競技ではあったが、大衆の人気を集めていた。

アマチュアボクサーとして結果を残し続けたマッカーシーは、史上初めて行われたプロボクシングの試合に出場することになった。
対戦相手はイタリア人のアベラルド・ロバッシオ。4ラウンドのKO勝利を飾った。

リング内外での成功により名を挙げた彼は、ボクシングの第一線を退いた後にブエノス・アイレス市スポーツ委員会のメンバーとなり、すぐに次の天職──つまり、フットボールコーチへと転身した。

アイルランド人のコネクションからすぐにロボス・アスレティックの職に就くと、1905年に創設されたエストゥディアンテスで一時的に選手兼任監督に就任したのち、同年ボカ・ジュニアーズの結成に携わることになった。

教師として教えた5人のイタリア人たちに請われる形でボカ結成に参加したマッカーシーは、クラブ結成後に初代監督へと就任した。
アルゼンチン国内でのプロクラブ誕生はそれから数十年後のこととなるが、マッカーシーの果たした役割を無視することはできない。

ボカのチームカラーである青と黄色はマッカーシーの生まれ故郷のティペラリーに由来したものである、という神話が長い間語られてきた。
クラブ結成当初はチームカラーを持たず、黒とピンクのストライプに身を包んでプレーしていたボカ・ジュニアーズだったが、1907年に現在も使われるカラーを採用した。
確かにティペラリー州のエンブレムには、赤のほかに青と黄色が用いられている。

美しい物語だが、異議申し立ての余地があることも確かだ。
当時、ティペラリーはエンブレムを持っていなかった。
スウェーデン国旗も同じ色で、ラ・ボカ港に入港したスウェーデンの商業船をモチーフにしたという説もある。

しかし、重要なのはそんな作り話が定着するほど、マッカーシーが地元住民たちに愛されていたという事実であろう。
後年、彼はクラブ創設の貢献を評され「プレジデント」の称号を授かることになった。

マッカーシーは監督退任後も長い間フットボールとの関わりを続けた。
18年間のレフェリー生活の中には、記念すべき一戦での笛を吹いた記録も残されている。
1913年、彼が主審としてピッチに立ったのは、史上初めて行われた二つのライバルチーム同士の試合だった。
すなわちボカ・ジュニアーズ対リーベル・プレート──現在では「スーペルクラシコ」と呼ばれ世界中のファンの耳目を集めるダービーマッチだ。

1943年に引退するまでコーチ業を行ったマッカーシーは、ただ単にアルゼンチンでのフットボール文化定着に携わったというだけでなく、ブエノス・アイレスの街とアイルランドのつながりにも大きな影響を与えたと言える。

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1909年の大みそか、3人の男たちがブエノス・アイレス西側の鉄道駅に集まった。
フットボールの試合を終えた後、突如降り出してきた篠突く雨から身を隠すためだった。
簡易的な避難所でしばらく過ごす間、3人は世間話として新たなフットボールクラブ設立について議論していた。彼らの妄想はエンブレムやチームカラーにまで及ぶ微の入り様だった。

しかし、暇つぶしのための茶飲み話はそのままでは済まなかった。
議論は数週間継続され、ついにクラブ名まで決まるに至り妄想を実現するために行動を起こす。

クラブ名は彼らが身を寄せた駅名から名付けられた。
ベレス・サルスフィエルド」 ── 後にコパ・リベルタドーレス優勝の栄冠を勝ち取り、トヨタカップではファビオ・カペッロ率いるスター軍団ACミランを屠ることになる古豪だ。

駅名の由来となったダルマシオ・ベレス・サースフィールドはアルゼンチンの民法を記した著名な法律家だった。
サースフィールドは古くから存在するアイルランド由来の家名で、彼の祖先は18世紀中ごろにアルゼンチンへと植民してきたアイルランド人だった。

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現代のアルゼンチンフットボールの輪郭からは、アイルランドの影響は蒸発してしまったように感じられる。
ロボス・アスレティックはアイルランド人の手で造られパディ・マッカーシーを監督に迎えたこともあるが、現在では地域リーグで細々とプレーを続けている。
海軍提督ウィリアム・ブラウンの名を冠した二つのクラブ、アルミランテ・ブラウン・デ・アレシーフェスクラブ・アルミランテ・ブラウン(アルミランテとは「提督」の意だ)もアルゼンチン下部に甘んじている。

そんな中、いくつかの噂話が根拠不在のまま語り継がれている。
ある者は、後にサンチャゴ・ベルナベウの英雄となるアルフレッド・ディ・ステファノの祖先はアイルランドからの移民だったとブエノス・アイレスの居酒屋で酒気交じりに叫んでいる。

そんな眉唾物の伝説も、45,000人ものアイルランド人たちが19世紀に海を渡ったという事実を考慮に入れると、あながち与太話とは言えないかもしれない。

(校了)

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