フットボールの話をしよう - 主将マルタの涙


2016年に開催されたリオ五輪。
PK戦の結果、準決勝で敗退の決まったブラジル女子代表チームだったが、ブラジル国民は新たな英雄たちの誕生に胸を躍らせていた。

歓喜に沸き立つスウェーデン女子代表の横で、チームの主将でもあり、6度のFIFA最優秀選手賞を受賞したこともあるマルタ・ヴィエイラは膝から崩れ落ち、号泣していた。
チームメイトと監督は自分たちの悲しみを忘れるように彼女を慰めた。

ピッチに立つ者は皆、マルタの涙の意味をこれ以上ないほど理解していた。
それは単なるフットボールの試合での敗戦にとどまらないものだったのかもしれない。


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一般的にブラジル国民はフットボール狂の気質をもつことで知られている。
しかしその熱狂は、これまでは男子代表にのみ向けられてきた。

ブラジルという国は、女子のフットボールを完全に無視してきた歴史を持つ。
スタジアムには常に少数の物好きが集まり、女子フットボール界への投資も十分には行われてこなかったと言える。
そんな中、オリンピック開催期間中、女子代表チームは国民の関心を集めることに成功していた。それは彼女らが勇敢な戦いでメダルに手をかけつつあり、男子ともどもブラジル史上初のフットボール競技での金メダルを勝ち取る可能性が見えていたからだった。

女子代表の敗退後、世間の関心はすぐに男子代表へと移っていった。
彼らは結局、悲願だった金メダルをその掌中に収めることになった。

女子代表、とりわけ主将のマルタにとって、大会での敗戦は大きな喪失だっただろう。
だが、敗退したとはいえ、彼女たちに集められた期待は少し前の時代を知るものであれば夢物語のように感じられたかもしれない。


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19世紀半ばにヨーロッパよりブラジルの地に持ち込まれた当初、この競技を行っていたのは白人のエリート階級だった。時代を追うにつれて試合が多様化してからは、女性たちがスタンドからピッチへと移っていった。

女子フットボールの最初の試合がいつ行われたかということについては様々な議論が交わされているが、1940年初頭には少なくとも10のクラブチームが存在していたと歴史家は指摘している。その中にはカッシーノ・レアレンゴやエヴァ・フットボールクラブも含まれており、リオ・デ・ジャネイロで大会が開催されていたという。

女子フットボールが隆盛になるにつれ、それを懸念する声も出てくるようになった。
社会科学を研究していホセ・フゼイラは当時の大統領──ブラジルでファシズム色の強い独裁政権を長年にわたって築き上げた──であるジェトゥリオ・ヴァルガスに一通の手紙を上申した。

フゼイラはその手紙の中で、フットボール競技を行う女性たちが女らしさを捨てて子孫を残すという本質を忘れるようになると指摘した。

「このままだと1年以内に、ブラジル全土で2,200人を超える『将来の母』が棄損されるようになるでしょう。精神を破壊され、横柄で贅沢なふるまいを見せるようになるかもしれません」

フゼイラの言葉は、不幸なことにヴァルガスの胸に届いてしまう。
警告の手紙を大統領より受け取ったブラジル教育健康省は、即座に反応した。
1941年4月、ナショナル・スポーツ・カウンシルより女性のスポーツ参加に関する法令が発令された。

女性の「本来の性質にそぐわない競技」を行う事を禁止することを明言したその条文は、その後のブラジル女子フットボール界に暗い影を落とすことになった。
最初期に興ったクラブは解散を余儀なくされ、将来的な発展も社会に阻害された。それ以降、ブラジルでの女子フットボール運動は、そのまま男性中心文化への挑戦と同義となった。

おとぎ話のように歴史の泡として浮き上がったペロタスの2つのクラブ、ヴィラ・ヒルダFCとコリンチャンスFCといった例外があったにせよ、それらのクラブもすぐに政府の手によって叩き潰されてしまった。

「女性の唯一の義務は主婦で居ることだと考えていた男性がほとんどだったのです」とサンパウロで女子フットボールを中心に取材するスポーツライターは語る。

「伝統的な男子フットボールのクラブや関係団体、そしてフットボールを男性のものだと考える女性達からでさえ、女子フットボールへの反発が起こりました」


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1964年に軍事政権がポプリズモ政権をクーデターによって追い落とすと、1970年代中盤にはブラジル国内で民主政治が萌芽する。
その潮流にフェミニズム運動が加わり、状況は大きく変わる。

「ホーゼ・ド・リオ」の異名で知られたホーゼ・フィラルディスという女子選手がナショナル・スポーツ・カウンシルを相手に抗議運動を開始すると、人気を博した女優や著名な法律家もその運動に加わった。
女性と体育教育に関する議論が広く行われ、最終的に1979年には女性をフットボールから排除した条項が撤廃されることになった。

ホーゼの雄姿を捉えた貴重な写真
ソクラテスと共にフィルムに収まるホーゼ

ホーゼの標的は国内にとどまらず、当時FIFA会長を務めていたジョアン・アベランジェに対しても女子フットボールを男子と同じ扱いにするよう要求を突き付けた。
女子フットボールの解放運動は彼女より端を発したものだと考える者もいる。

かくして女性がピッチに戻ってきた。

その後もナショナル・スポーツ・カウンシルは試合時間の短縮や身体へのプロテクターの装備、試合後のユニフォーム交換の禁止など様々な施策を試みたが、現在では男女の区別なく試合が行われている。

女子フットボールはなおも勢いを増し、1996年には五輪史上初めてトーナメントが行われることとなった。その地位向上の運動は、現在進行形で続いている。

母国開催のオリンピックにおいて、ピッチを自らの涙で濡らしたマルタの言葉で本稿を締めくくることにしよう。

「女子フットボールの未来は試合を見ているあなたたち次第です。その事実をよく考え、価値を感じてもらいたいのです」

「私たちは女性を代表し、女性がどんな役割を果たせるのかピッチの上で示したいのです」

(校了)

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