フットボールの話をしよう - 氷の王の物語


1962年から63年にまたがる冬は英国観測史上に残る記録的な寒さだった。
クリスマスを迎える前に南方より吹き込んだブリザードにより1月中旬時点で英国は-16℃という極寒に見舞われ、チャールズ・ディケンズやチャールズ・ダーウィンといった偉人を輩出したロンドン南東のケント州に面したハーン湾の海面は1マイルもの分厚い氷の被膜が広がった。

降雪は3ヶ月もの間続き、数百ものフットボールの試合が延期となったため、フットボール賭博のプールサロンは3週間の休業を余儀なくされた。その結果、現代でも運営される「プール・パネル」が結成されたほどだ。収入を確保するための苦肉の策だった。

フットボールクラブは往時、その収入のほとんどを入場料に依存していたため、ピッチを解凍する術を模索した。試合がなくとも給与支払い義務によって従業員の人件費が嵩み、銀行口座残高はみるみるすり減っていったのだ。

ブラックプールでは軍用の火炎放射器でブルームフィールド・ロードを覆っていた雪を溶かし、チェルシーは高速道路の工事に使われるタールバーナーを試した。発想の転換として、ハリファクスタウンはスタジアムをスケートリンクとして開放した。

しかし、レスター・シティのフィルバート・ストリートでは少し事情が異なっていた。
グラウンドキーパーを務めるビル・テイラーの発案により、彼らは1962年夏に肥料と除草剤をピッチに巻いていた。これが思わぬ効果を発揮し、化学変化で熱を発したことで自然に霜を溶かす役割を果たした。

ファンの献身も手伝って芝生の上の雪がすっかり取り除かれると、テイラーは芝を藁で守り、寝ずの番でコークスを火鉢に入れ、一定の温度を保たせた。

テイラーの眼を見張る働きは、1月下旬に10日間続いた豪雪を防ぐことはできなかったが、1月末時点でフィルバート・ストリートを試合可能な状態にまで引き上げた。ボクシングデー以来、実に1ヶ月超の長い戦いだった。他のクラブが10週間以上も苦闘していたことを考えれば、奇跡的な成果だったと言える。

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1960年代の英国フットボールの主人公は、まぎれもなくビル・シャンクリーサー・マット・バズビーサー・アルフ・ラムジーハリー・カタリックジョー・マーサーマルコム・アリソンドン・レヴィーハリー・ポッツビル・ニコルソン、そして66年のワールドカップ王者たち、という具合に、現代でもなお語り継がれる人々であり、そこに異議を挟む余地はないだろう。

クラブで言えばスパーズがFAカップ決勝に3度進出し、その3度共を優勝してカップを勝ち取るという目覚ましい成果を残した一方、同じく3度の決勝進出を果たしたもののいずれも準優勝で終わったレスター・シティの名を言及する者は数少ない。実際、1961年、69年の2度の決勝において、レスター・シティは紛れもない噛ませ犬だった。

しかし1963年の決勝では、少し様子が違った。
ボビー・チャールトンやデニス・ローパット・クレランドといった20世紀フットボール史を彩る伝説的な選手たちを擁したマンチェスター・ユナイテッドを向こうに回し、優勝の有力候補として名乗りを上げたのだ。

彼らがそこに至ることが出来たのは、まぎれもなく厳しい数か月の冬の間にも、雪と格闘し続けた努力の賜物だった。そのシーズン、レスター・シティはカップ戦だけでなくリーグでも好成績を残し、レスター市の日刊紙面では愛するクラブの二つ名を「アイス・キングス」にするか「アイス・エイジ・チャンピオン」にするかという奇妙な議論が巻き起こった。

かつてボルトンで主将を務め、1952年にレスター・シティに加入して現役引退したのち、56年よりデイブ・ハリデイの下でコーチに転身したマット・ギリーズが58年に監督に就任していた。

1960-61年シーズンには、結局リーグタイトルとFAカップのダブルを達成することになるスパーズをリーグ戦で破ったこともあったが、FAカップ決勝で手痛いしっぺ返しを食らった。フルバックのレン・チャルマーズが負傷し、相手ウィングに蹂躙されてしまったのだ。しかしその頃よりギリーズは戦術面での称賛を浴び始めるようになった。

ギリーズの下でアシスタントを務めた、才能あるスコットランド人のバート・ジョンソンは1930年代に「ヴンダー・チーム」と呼ばれたオーストリア代表や、1950年代にMMシステムで世界を席巻した「マジック・マジャール」ことハンガリー代表のフットボールに強い影響を受けていた。彼がチームに持ち込んだのは、いわゆる「渦巻」と呼ばれた流動的なプレースタイルと、攻守の切り替えを迅速に行う現代にも通底する戦術だった。

1962年に新たに獲得した2名の選手によって、このプランはさらに洗練されることになる。

マンズフィールドより加入したマイク・ストリングフェローは勇敢で高身長の左ウィンガーだった。レスター・シティで寝食を共にしたスコットランド代表のフランク・マクリントックをして「チームのために常に走り回れるほど献身的で、ゴールの機会があればすべてを賭して攻撃的になれるほど身勝手だった」と言わしめた。

ストリングフェローの相方を務めたのは、ハイバーニアンより獲得した左インサイドハーフのデイヴ・ギブソンだった。もともとギリーズ監督はマザーウェルのパット・クインに強い関心を持っていたが、アシスタントのジョンソンの助言により意見を変えた。ギブソンはすぐにチームになじみ、攻撃面で指揮棒を振るようになった。非の打ち所の無いボールコントロールでストリングフェローに決定的な瞬間を演出するだけでなく、彼とポジションを入れ替えることで相手を混乱に陥れた。そのプレーは非常に俊敏で、センターフォワードのケン・キーワース目がけボックス内へパスを送り込んだ。

新入団の2名の活躍で、レスター・シティは前シーズンに味わった挫折を乗り越えていった。

右サイドでは、後年アーセナルへ移籍することとなるフランク・マクリントックが躍動した。右サイドハーフに陣取った彼は、同サイドのグラハム・クロスが下がった時に空いたスペースを有効活用し、前線へ爆撃を仕掛けた。かつてはクリケットの選手だったクロスも、最終的にはセンターバックとして活躍することになったが、その恵まれた体躯と守備本能を前線でいかんなく発揮した。

このシーズンのレスター・シティの素晴らしさは、様々なポジションを流動的にプレーできる選手たちの能力に紐づいたもので、かたくなにポジションで守り続ける相手チームをどん底に陥れることに成功していた。もちろん、ゴードン・バンクスというワールドクラスのゴールキーパーを擁したこともチームにとっては幸運だった。

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1962年のクリスマス明けから、ブリザードがミッドランズより南の地域を襲った。ボクシングデーにレイトン・オリエントを5-1で破ったことでレスター・シティはリーグ戦4位につけていたが、1月のリーグ戦を開催する見込みは立っていなかった。1月中に行われたのはいずれもFAカップの試合で、1月8日にアウェーでグリムスビー・タウンを、1月30日にホームでイプスウィッチ・タウンを破った。

ギリーズは屋外での練習を諦め、通常はコンサート会場などで使用されるグランビー・ホールでのトレーニングを決行したが、より温暖な環境を求めて英国南部のブライトンへとチームを移動させた。しかし、そこも凍てついた土地となっていた。

「腐臭漂う経験だった。どれだけ多くの石炭を火に投げ入れようと、何ガロンもの温かいシチューを胃に流し込んでも、暖気というものがまったく存在しない数週間だった」とは、この厳しい冬を生き残ったマクリントックの言だ。

前述の通り、ビル・テイラーの尋常ならざる献身のおかげで、レスター・シティは45日間の停滞の後、リーグ戦再開に踏み切った。45日は十分長い期間ではあるが、たとえばアーセナルは63日間、エバートンは70日間、マンチェスター・ユナイテッドは77日間の休止を余儀なくされたことを考えると、スタッフの功績は甚大なものだっただろう。

グラウンドキーパー達の昼夜を問わない尽力があったものの、ピッチコンディションに懸念を示した守護神ゴードン・バンクスは奇妙なルーチンを採用した。

「ピッチは部分的に凍結していました。スタジアムにそびえたつ2階建スタンドの陰に隠れてしまったエンドでは芝がやられてしまっていたのです。そこで、右足では革スタッズを装着した通常のブーツを、左足にはラバー加工されたスタッズを装着した特別なものを履くようにしました。そして、ピッチまで2種類のブーツのもう片方ずつを持っていくのです。前半にどちらのエンドを守るか決まれば、ブーツのどちらかを履き替えていました」

再開したホームゲーム、キーワースの2得点でアーセナルを破ったレスター・シティは、3月9日のブラックバーン戦までの7戦を全勝する。彼らはピッチ状況を考慮したうえで、両サイドバックから、それぞれ左翼のストリングフェロー、右翼のハワード・ライリーの裏のスペースへロングボールを蹴りこむ戦術調整を行った。

3月2日にアンフィールドへ赴いた彼らは、最上級のパフォーマンスでリバプールを2-0と蹴散らした。オブザーバー紙のベン・ライト記者は次のように紙面に書き付けた。「リバプールはいつもの通り、ほとんどヒステリックと言えるほどの性急さで試合に入った」。更に続けて、レスターについては「チームワークの勝利だった」「完全な指揮を執った」と。ガーディアン紙のエリック・トッド記者は、レスター・シティの能力を次のように分析した。「柔軟性、順応性、驚くべき戦術理解と常識が彼らの最大の資産である」。

4月8日にブラックプールと引き分けた後、アプトン・パークでの0-2の敗戦により無敗記録は12でストップしたものの、イースターの月曜日とその翌日に行われたアウェー/ホーム入れ替えでのマンチェスター・ユナイテッドとの連戦を1勝1分で乗り切ると、チームは遂にリーグ首位に駆け上がった。とりわけ、4月16日のホームでの試合ではキーワースがハットトリックを飾り、非常にスリリングな接戦を演じて見せた。

※※※

1月~2月にかけてのリーグ戦休止のしわ寄せが3月下旬~4月下旬に大きくのしかかった。その超過密日程を下記の通り列挙する。

3月23日 トッテナム・ホットスパー戦 ホーム 2-2
3月26日 シェフィールド・ユナイテッド戦 アウェー 0-0
4月3日 レイトン・オリエント戦 アウェー 2-0
4月6日 マンチェスター・シティ戦 ホーム 2-0
4月8日 ブラックプール戦 アウェー 1-1
4月13日 ウェストハム・ユナイテッド戦 アウェー 0-2
4月15日 マンチェスター・ユナイテッド戦 アウェー 2-2
4月16日 マンチェスター・ユナイテッド戦 ホーム 4-3
4月20日 ウォルバーハンプトン・ワンダラーズ戦 ホーム 1-1

実に27日間で9試合という想像を絶するものだった。

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いち早くピッチの問題を解決したことがレスター・シティに優位をもたらしていたが、気候が温暖になると他のチームが調子を上げてきた。選手たちは意気揚々と試合を謳歌していたものの、バンクスやキーワース、ギブソン、イアン・キングの負傷によりチームは崩れ、勢いを失っていった。もちろん過酷な日程も影響しただろう。リーグ戦残り5試合で1ポイントしか獲得できず、最終的に4位で終わった。優勝したエバートンが同じ5試合を4勝1分でまくったことを考えれば、必然的な結果だったかもしれない。

「リーグ戦を4位で終え、FAカップ決勝まで進出した通常のシーズンであれば成功とみなされるだろうが、我々は降格したように感じられた」と、後にゴードン・バンクスは述懐している。

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4月27日に行われたFAカップ準決勝において中立地ヒルズボロでリバプールを破ったレスター・シティは2位につけており、まだ優勝の可能性が残されていた。しかし最終的に優勝の芽がなくなると、地元紙レスター・マーキュリーはFAカップ決勝を慰めの源として書き立てるようになった。

準決勝は注目の一戦として報じられ、特にリバプールが勝ち抜けの有力候補だったこともあり、レスター・シティが勝利するのは紳士的な泥棒というより強盗に近いようなものだった。「リバプールの調子が最高潮の時に彼らとプレーするのは、マーマレード・ジャムを自分の顔に塗りたくってスズメバチの巣を蹴り飛ばすようなものでした」とマクリントックは鮮やかな比喩を用いて証言した。

シャンクリーの子供たちが一方的に相手を蹂躙する試合展開ではあったが、18分にカウンターからの一撃でレスター・シティが先制すると、リバプールの攻撃はさらに苛烈なものとなった。マクリントックの述懐によればバンクスは30以上ものセーブを要求され、その1つはイアン・セント・ジョンからのシュートで「ペレを相手に止めたものと同じで、彼がこれまでに行った多くのセーブ同様」素晴らしいものだったという。

マクリントックはまた、次のようにも語っている。「レスターの勝利は、私がプロとしてプレーした21年間の中で最も茶番劇じみたものだった」。

試合後、不公平な事件が起こった。バンクスとキング、左サイドバックのリッチー・ノーマンをが談笑している光景は、新聞記者の手によって不自然な角度から撮影されたのだ。イアン・セント・ジョンが屈辱に塗れ、まるで畑の泥濘からなんとか抜け出したかのようなみじめな姿で歩くシーンが、バンクスの笑みと対比された。


この写真が翌日の新聞紙面に掲載されると、リバプールファンにバンクスへの憎悪を植え付ける結果となった。バンクスがアンフィールドに訪れた11月の試合では、彼に対しオレンジの皮や茹でた菓子など様々なものが投げつけられた。

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レスター・シティにとってリーグ戦4位という順位は1928-29年シーズン以来最高だった(準優勝したシーズンで、首位はザ・ウェンズデーだった)が、マンチェスターの両クラブにとっては悲惨なものだった。マンチェスター・シティは降格し、マンチェスター・ユナイテッドは降格圏ギリギリの19位──シティよりわずか3ポイントを上回るばかりだ──でシーズンを終えていた。

マンチェスター・ユナイテッドは個人の能力は高いと考えられていたが、反面マット・バズビーやジミー・マーフィーがチーム作りに苦労しているとも見られていた。この点では、高く評価されたギリーズやジョンソンが作り上げた革新的なレスター・シティとは正反対だった。試合前の評判は満場一致だった。レスター・シティが万全なら、彼らの勝利だろうと。

しかしながら、悲しいことに、その日のレスター・シティはみすぼらしく悲惨だった。唯一の希望はキーワースが80分に一矢報いた瞬間だったが、5分後にマンチェスター・ユナイテッドがデヴィッド・ハードの2ゴール目で突き放すと、試合はそのまま3-1で終了した。

サンデー・エクスプレス紙のアラン・ホビー記者の戦評を引用すると「2人のタータンの魔術師、パット・クレランドとデニス・ローの躍る死のデュエット」によってレスター・シティは引き裂かれてしまった。クレランドの戦術眼による予見で、ギブソンから幾度もボールを奪い、試合の主導権を失わせたことが試合を決定づけたとホビー記者は続ける。

スタッドの音は、3年間で2度の敗北を喫したFAカップ決勝戦の記憶としてマクリントックの脳裏に刻まれている。

「試合後、歓喜を爆発させた選手が太鼓の細かなリズムでコンクリートのトンネルを飛び出していく。敗者へ贈られるのはおだやかな拍手のみだ。それはまるで死の行進のようで、頭を悩ませるんだ」

その夜、試合後の宴会でレスター・シティの主将を務めたコリン・アップルトンはチームメートへこう語りかけた。

「俺たちは今日、重要な教訓を学んだだろう?しかし、どうしても俺にはそれが理解できない」

氷の王は、やがて溶け去る運命にある。氷そのものと同じように。

私たちが学ぶべき不変の教訓は、まさにそのことかもしれない。

(校了)

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