とあるフットボーラの肖像 - ボリス・パイチャーゼと一隻の船


届いた電報は簡潔なものだった。

「父危篤。すぐ帰れ」

翌日から英国行きの大型タンカーに乗り込む予定だったボリス・パイチャーゼはすぐに予定を変更し、列車で家へ戻ることにした。彼が黒海に臨む湾口都市、バトゥミから親族の元へ到着したのは真夜中のことだったが、その忙しない旅は徒労に終わったと言える。
彼の実父ソロモンの健康には何の異常もなく、同居する家族たちも電報について何も知らなかった。

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ボリスが船と航海を愛するようになった原因は、彼の少年時代に遡る。

6人兄弟の1人としてジョージア西部に位置するチョハタウリ近郊の小村オンチケティに生を受けた彼は、ジョージアの主要湾口都市ポティで荷受け人として働いていた父親に付いて回った影響で海の向こうの世界を夢見るようになった。

そして、同時に父親が仕事の休憩時間に楽しんでいたフットボールも少年を虜にした。彼らの対戦相手は、英国から訪れた船員たちだった。

ボリスはそのボールを足で扱うゲームの隠された秘密を観察し、学習していった。
そして彼が学んだ技術は地元ポティのフットボールチームにとっても貴重なものだった。

だからこそボリスがフットボールチームから離れ、数か月後に仲間たちに自らの夢であった商船員の仕事を手にしたことを報告した際、仲間たちは大きな失望を味わった。
ボリスは爆撃機のようなセンターフォワードであり、チームにとって欠くべからざる存在となっていた。

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ボリスの父親とは対照的に、彼がかつて所属した地元チームは危機を迎えていた。
主要選手を欠いたポティがもがき苦しむ中、ボリスとソロモンの不可分な関係を知っていたかつてのチームメイト、カコ・イムナゼが一計を案じ、宿敵バトゥミとの都市対抗戦に備えたのだった。

激怒したボリスはすぐに試合への出場を拒否したが、彼のフットボーラーとしての才能を熟知していた父親の説得もあり、最終的にピッチの上に立つ決断をした。
試合は彼の2ゴールのおかげで、2-1と勝利に終わった。

ボリス・ソロモノビッチ・パイチャーゼの運命を永遠に変えたのは、この一つの偽電報だった。その電報はパイチャーゼを人生の危機から救い、やがてはジョージアのフットボール史を作り上げたものでもあった。

元ネタ:
https://www.fourfourtwo.com/features/how-missing-boat-created-georgias-best-footballer
http://www.uomonelpallone.it/boris-paichadze/
https://www.worldsport.ge/ge/page/111839_boris-paichadze-bermuxa-karuzo-raindi-moxetiale-forvardi

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「ソヴィエト連邦とソヴィエト連邦加盟国のプロレタリア農民政府を転覆、破壊、または弱体化させる行為、対外的な安全を脅かす行為。プロレタリア革命の経済及び政治の成果を破壊、または弱体化させる行為は反革命とする」

これは1926年に改訂されたロシア共和国刑法第58条に記載された「反革命罪」についての詳細である。

中国やソ連などの共産主義国では、共産主義体制を強固なものにするために政治思想を統制する目的で「反革命」という刑法犯罪が設けられた。反革命の定義があいまいであるため、独裁体制が恣意的に運用できる余地を持つものだった。

その悪名高き刑法58条に、以下の追記がある。

「プロレタリアの国際連帯に鑑み、ソヴィエトに加盟していない他のプロレタリア国家に対しても同行為を行った場合はすべて反革命とみなす」

具体的に反共産活動を行った者だけでなく、「反革命の目的で」外国の者と会うことも犯罪と見做された。

もしもボリスが英国行きの船に乗っていた場合、反革命罪で強制労働所へ連行されていた可能性もあった。実際、船員の多くが投獄された。

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ボリスがフットボールのキャリアを歩み始めたのは16歳の時だった。
若くして類まれなスキルを身に着け、得点を量産できるストライカーとして能力を存分に発揮した彼は、すぐに対戦相手から荒々しいファウルを受けるようになる。チームメイトの他の選手を無視してまでボリスへのマークを徹底したという逸話も残されている。
ボリスはそのような対戦相手には、激しさで応えた。削りに来た選手へは容赦なく身体を当て、結果的にその選手が足を引きずってピッチを去るということも起きた。レフェリーはその点に関しては寛容だったようだ。

しかしながら、学生生活を終えた彼が最初に職を得たのはピッチの上ではなく、海上だった。海兵校を卒業した後、バトゥミとウクライナのオデッサ間を航行する船のメカニックとして働き始めたのだ。だからこそ、彼が電報を受け取ったのはバトゥミ港でのことだった。「メタリスト」と名付けられたタンカーは、彼抜きで英国へと出発した。

生家へ戻った後、ボリスは再びフットボールの世界に足を踏み入れた。ポティへ入団した彼は1935年に長期ツアーでウクライナへと向かった。目的地のドンバスは、ウクライナ国内でも工業地域として知られるエリアだった。ウクライナ国内はどの炭鉱街もフットボールクラブを持っており、そのレベルは決して低くなかったが、ポティはツアーで28勝を挙げた。引き分けはわずか1試合だった。17歳のボリスは、この時から自身の才能を自覚し始めたようだ。

ウクライナから戻った彼は、チームメイトと共にトビリシの汎コーカサス工業大学への入所を認められた。本来なら必ず通過しなければならない入所への試験を免除される特別待遇だった。学長だったイヴァン・ヴァシャクマゼという人物が熱心なフットボールファンだったことが原因だった。その成果によって大学学内リーグで優勝を果たし、所属していた全選手へは自転車が贈られた。

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1936年、ソヴィエト連邦所属国が参加するトーナメントが創設された。その9年前にはディナモ・トビリシ(当時の呼び名はティフリスだった)がディナモ・スポーツ・ソサエティの一員として産声を上げており、内務省直下のクラブとしてそのコンペティションへ参戦した。

モスクワに本拠地を構えたNKVD(内務人民委員部)KGB(ソ連国家保安委員会)の前身団体と言える─の責任者はラヴレンチー・ベリヤだったが、彼自身ジョージア出身でフットボール狂として知られていた。自身もピッチに立つことのあった彼を「荒々しく汚い左サイドハーフだった」と回顧するのはスパルタク・モスクワ創設者のニコライ・スタロスティンだったが、ベリアは大のディナモ・トビリシのファンであり、彼の持つ政治力はクラブに多くの利益をもたらした。

当時21歳のボリスに目を付けたベリヤは彼をクラブへ招聘しようとしたが、その強引な引き抜きは学長のイヴァン・ヴァシャクマゼの激怒を呼んだ。

だが、ボリスには選択肢の余地は無かった。当時、父ソロモンは強制労働を課されており、クラブと契約すれば父親を解放するという条件を突き付けられていたからだ。港湾で働いていたソロモンは、30年前に軍が港を制圧する妨害活動を計画したかどで有罪となっていた。

しかし契約が完了した後も物事は思い通りに進まなかった。父ソロモンがコトラスの強制収容所にいることを突き止めるのに5年を要したのだ。ドイツ侵攻が中断する頃合いを見計らって父親に母国へ戻るための資金を送った。チームメイト達は結果を恐れて彼にこれ以上動くのを止めるよう忠告したが、1942年、彼は遂にベリアとの面会の機会を得た。そこで知った事実は、父が強制収容所で命を落としていたという悲惨なものだった。

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ボリスは今で言う「ワン・クラブ・マン」だった。

戦争で中断された期間を含めて16年間をディナモで過ごし、素早くスキルのあるセンターフォワードとしてどこまでも得点を求め続けた。時には中盤にも顔を出すピッチ上の放浪者でもあり、対戦相手を混乱に陥れたという。1936年にデビューして以降、第二次大戦による中断まで110試合に出場し、68得点を生み出した。

1945年の終戦後に再びフットボールが蘇った際、ボリスは30歳となっており全盛期を越えたかに思われていたが、引退までの6年間で41ゴールを量産した。唯一獲得できなかった栄誉は優勝の二文字だけだったかもしれない。準優勝2度、3位4度と輝かしいキャリアを描いてきたボリスだったが、ディナモ・トビリシが栄冠を手にするのは彼が引退して13年後、1964年まで待たなければならない。トルペド・モスクワとの試合での膝の負傷により、36歳でピッチを去った。

今でも語り草となっているのは1939年シーズン、CSKAモスクワとの試合だった。クラブにとっても歴史に残る試合となった。当時のCSKAはソヴィエトリーグ史上初めて100得点を記録したグリゴリー・フェドトフ擁する強豪クラブだった。先制したものの前半のうちに4失点を喫したディナモだったが、ボリスの活躍により最終的には5-4で勝利を収めた。

引退後、一度固辞したものの周囲の勧めもありディナモで監督に就いたボリスだったが、目覚ましい成果を残すことはできなかった。「いい選手といいコーチは全く別のものだ」というのが彼の持論だった。

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そのプレースタイルから「彷徨う人」と呼ばれ、また正々堂々としたプレースタイルから「フットボールの騎士」とあだ名されたボリス。バスク代表と戦った親善試合では、対戦相手の選手から「ビルバオ人のようだ」と勇敢さを褒めたたえられたこともあった。

1990年に75歳でこの世を去ったボリスは母国の独立をその目で見ることはかなわなかったが、死後も国内外で称賛され続けている。トビリシの国立競技場は1995年に彼の名を冠して「ボリス・パイチャーゼ・スタジアム」と名付けられ、第一等のヴァフタング・ゴルガサリ勲章が追贈された。

そして2001年に行われたアンケートでは、ジョージア史上最高のフットボーラーに選ばれた。

世界を旅することを夢見た青年は、実際にその夢をかなえることはできなかった。
しかし一つのきっかけで様々な運命を巡りながら、彼は思わぬ形で全世界にその名を馳せることになった。

これは、船を乗り逃した男の奇妙な物語だ。

(校了)

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