フットボールの話をしよう - 「赤の襷」の誇り


1970年、5月の最終日の出来事だった。

ペルー、チンボテ海岸沖から35㎞離れた地点で発生したナスカプレートと南太平洋プレートの擦れ合いが生み出した初期微動は、瞬く間に最寄りの大都市・アンカシュ州州都ワラスへ到着。人口の半分に当たる30,000人以上の死者を生み、市内の建造物の約90%を損壊させた。

ワラス北西50㎞に位置するペルー最高峰のワスカラン山麓の町、ユンガイでは更に甚大な被害を受けた。ワスカラン北峰が氷河とともに崩落。約1,500万㎥の土砂と氷塊が3000mの標高差から時速300㎞で住民を襲い、18,000人だったユンガイ人口の殆どを死に至らしめた。

史上最も壊滅的な自然災害の一つに数えられる「アンカシュ地震」である。

母国より5,000㎞離れたメキシコの地に滞在していたペルー代表チームは、1970年のFIFAワールドカップ初戦の2日前にその報を受けた。

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ペルーのフットボール史は多くの悲劇とわずかな眩さに彩られている。ブラジルやアルゼンチンなど近隣を大国に囲まれながら、いくつかの傑出した成果で世界に勇気を発信してきた。

ペルーとオリンピックは親密な関係とは言えない。1936年にベルリンオリンピックで物議を醸したオーストリアとの準々決勝──2-2で突入した延長戦にてペルー人のファンがオーストリア代表選手を襲った事件──以来、目立った成果といえば1960年のローマオリンピックでインド代表に一度勝利したのみだった。

東京オリンピック予選、リマで行われたアルゼンチンの一戦。
引き分け以上の結果を収めれることができればペルー代表の東京行きが決まる試合だったが、彼らはエスタディオ・ナシオナルでフットボール史上最悪の出来事の一つを目にすることになった。

60分にネストル・マンフレディのゴールで先制したアルゼンチン代表だったが、試合残り5分でアンドレス・ベルトロッティのオウンゴールでペルー代表が追いつく。栄光を掴みかけたかに見えた。

笛を吹いたウルグアイのアンヘル・エドゥアルド・パソス主審はビルドアップの際にペルー側に不正があったとして、この得点を認めなかった。このジャッジを契機にスタンドに詰めかけた群衆に不穏な空気が宿る。

一人のファンがピッチに降りようとしたところ、場内警備を担当した地元警官によって阻止されると、もう一人の男性ファンとともに暴行を受ける。この出来事によって注がれたオイルが燻っていた群衆の火を巨大なものにした。

観客席ではスモークが焚かれ、ピッチへ向けて瓦礫が投げ入れられた。当局は最大限の対応として催涙ガスを使用したが、パニックに陥ったファンたちが出口に駆け込んだことで死者312名、重傷者500名以上を生む最悪の結果を招いてしまった。

興奮状態の収まらない観客は市街へ流入して暴徒化した。走行中の自動車への放火や商店の破壊活動を行ったため、地元警察は警官隊を増援。暴徒鎮圧のために発砲も行われた。警官側にも3名の死者を出した本事件を受けたペルー政府は同日夜、緊急事態宣言を発令し、犠牲者追悼のための1週間喪に服することを決定した。

世に言う「エスタディオ・ナシオナルの暴動」の背景には、キューバ革命の影響があったと言われる。共産党主導による労働争議やデモが多発しており、左翼勢力は警察へ一泡吹かせる機会を伺っていた。1963年、軍部の支援を受けて成立した当時の政権は、農業地区での農地改革を実施しようとしたが野党からの反発で頓挫。そのことがペルー南部での農民闘争を呼んだ。

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このような悲劇はペルーにとって全く初めての出来事ではなかった。

モンテビデオを本拠地としたCAベジャ・ビスタが1930年代初頭に国内ツアーに出た際、アレキパでペルー軍との衝突を経験した。ウルグアイ代表の主将を務めたホセ・ナサシを擁したベジャ・ビスタは見事に勝利した。

観戦していた地元兵士が憤慨し抗議のためにピッチへ侵入し、警察に殴打された。仲間の負傷を受けて兵士たちがグラウンドへ雪崩れ込んだ結果、発砲を招いて5名が死亡した。

ペルーのフットボールは社会的、及び政治的風土と同じように混沌としたものだ。

1960年代にフェルナンド・ベラウンデ・テリーが大統領に就任した際、政情不安が蔓延した。1968年にベラスコ将軍は政府に対し無血クーデターを繰り広げ、結果的に大統領が追放されて国内の闘争は終息した。

よくある共産主義国家同様、数週間のうちに石油産業が国有化され、外国企業はその存在自体を否定された。輸入の激減は、フットボールにも大きな影響を及ぼした。外国人選手や監督たちは、将来的なペルー国内での成功に懐疑的になった。

その2年後に起きたアンカシュ地震は、ペルーを粉々に打ち砕いてしまった。2日後にワールドカップ初戦を控えた代表チームに求められたのは、国威の発揚だった。

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ペルー代表がこの大舞台にたどり着くまでの道は、決して容易なものではなかった。

めまいがするようなラパスの高地で行われたボリヴィアとの一戦は、アルゼンチンの手で八百長介入が行われた悪名高い試合として現在でも歴史に刻まれている。両者がワールドカップ出場への座をかけて争った中、アルゼンチン側はボリヴィアに有利に働くよう主審を買収していたのだ。

アルベルト・ガジャルドの左足から放たれたすさまじいシュートがゴールネットに収まりペルー代表が2-2の同点に追いつくはずだったが、ユーゴスラヴィアの主審はなぜか得点を認めず試合はそのまま2-1で終了した。

衝撃を受けたロベルト・シャジェは主審をピッチ上に押し倒した。混乱の中立ち上がった主審は彼の前に立っていたラモン・ミフリンにレッドカードを提示した。数年後、彼はアルゼンチンの買収を認めた。

しかし、ペルー代表の希望はまだ潰えていなかった。予選最終試合となったブエノスアイレス、ラ・ボンボネーラでのアルゼンチン戦を2-2で引き分けるとそのままメキシコ行きの切符を掌中に収めた。アルゼンチンがワールドカップ出場を逃したのはこれが初めての出来事だった。

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0-0で終わったメキシコとソヴィエトの開幕戦から数時間後、ペルー代表は「メキシコに残って試合を続けるか、家族のために母国へ戻るか」の二択を眼前に突き付けられた。電子的な情報交換が初期段階だったこの時代、選手全員が彼らの家族や恋人、友人たちの無事を確信していなかった。しかし悩ましい時間の後、選手たちは「赤の襷」を身にまといピッチに立つ決断をした。

エスタディオ・ノウ・カンプ(エスタディオ・レオン)に降り立った彼らの心は当然のことながらどこかほかの場所にあっただろう。対戦相手のブルガリアは彼らに容赦なく襲い掛かった。試合開始50分で2-0。母国を大災害に襲われた選手たちが受けたトラウマを思えば当然だったかもしれない。

ブラジル代表として2度のワールドカップ優勝を果たしたヴァルディール・ペレイラ──「ジジ」の愛称で知られている──に指揮されたペルー代表は、しかしながら、不死鳥のように息を吹き返す。主将のエクトル・チュンピタスやシャジェ、ミフィン、ガジャルド、そして「宝石」とあだ名され現在でもペルー史上最高の選手と称えられるテオフィロ・クビジャスは、まだ白旗を揚げてはいなかった。

ジジが51分、小柄で俊敏なアタッカーのウーゴ・ソティルを送り込むと一気に試合の流れが変わった。ガジャルドとチュンピタスがそれぞれ得点を挙げた後、クビジャスがその名に違わぬ輝きを放ちボールをネットに送り込んだ。

3-2。彼らは23分間で一気に試合をひっくり返したのだ。

この試合の4日後にはアフリカの強豪、モロッコ代表との試合が行われた。65分まで0-0だった膠着状態は、ブルガリア戦と同じように何かのきっかけで点火したペルー代表によって一気に激流となった。クビジャス、シャジェによって10分間で3得点がスコアボードに加えられた。

グループ最終戦で対戦したのは4年後に栄冠を勝ち取ることとなる西ドイツだった。この日ばかりは神通力は通用せず、前半の間にゲルト・ミュラーがハットトリックを達成するとそのまま試合終了のホイッスルが吹かれた。

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西ドイツに次ぐ2位でノックアウトステージに駒を進めた彼らが対戦したのは、黄金のブラジル代表だった。地球上で最も偉大なペレリベリーノトスタンジャイルジーニョを擁した絶対王者に対し、ペルー代表は成す術がなかった。

最終スコアは4-2。力の差をまざまざと見せつけられた試合だった。

のちに「ペレのワールドカップ」として語り継がれることとなるこの1970年のメキシコ大会は、彼らが初めて「カラーテレビでカップを掲げた」瞬間でもあった。

しかし、ペルーにはペルーの物語があった。

容赦なく押し寄せる困難な状況と向き合いながらも、決してあきらめない不屈の精神。

それは、愛する者のために戦う男たちの挽歌だったかもしれない。

(校了)

元ネタ:https://www.footballparadise.com/peru-1970-earthquake/

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