とあるフットボーラの肖像 - 倫敦のアルゼンチン人

マラドーナ死去。

2020年11月25日、全世界にすぐさま広がったそのニュースは、地球上のフットボール関係者やファン、そして競技にまったく無関心な者にさえ、少なからぬ衝撃を与えた。

その名を不朽の物とした1986年ワールドカップ、メキシコ大会

イングランド戦での勝利の後、彼が語ったのはフォークランド紛争への思いだった。

フォークランド紛争は現代の歴史の中で破滅的な出来事だった。900人近くが命を落とし、更に多くの重傷者も出した。短期間であったにも拘らず、関与した英国、アルゼンチン両国への影響は政治的にも経済的にも、そして何より国民の人生にとっても甚大なものだった。

それは両国の間に挟まれた、二人のロンドン在住アルゼンチン人にとっても全く同じだった。彼らは国際地政学の衝突の最前線で、必死に戦い生き延びようと試みた。

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フォークランド諸島──その小さな群島の歴史は常に嵐に塗れており、今日まで「フォークランド諸島」、そしてスペイン語の「マルビナス」の両方の名で認識されている。(私は政治的意図を特に込めることなく、フォークランド諸島の名を取りながらこの記事を書こうと思う。現時点で当地を実効支配しているのは英国だ)

所有権争いが過去何度も繰り広げられた南大西洋に浮かぶこの地は、過去フランス、スペイン、アルゼンチン、そして英国がその支配権を訴えてきた。1690年代に英国人が最初に島に上陸したが、その70年後に彼の地で実質的に初めて居住し始めたのはフランス人だった。それから50年の間、居住地はスペイン人とフランス人が東西を分割して共有し、解放されたアルゼンチン人が東側エリアに住み着くことになった。

1830年代に緊張が高まり、アルゼンチン人の生活拠点が米軍によって破壊された。その後イギリス軍がフォークランドを占拠し、強制的にアルゼンチン人を退去させた。アルゼンチン側が主権を宣言してから13年後の出来事だった。19世紀終わりには英国が植民地としたが、アルゼンチンは強制退去後もフォークランド所有を主張し続けた。

20世紀後半には英国とアルゼンチンの間に外交関係が成立し、1979年に和解交渉が再開された。南米側としては態度を軟化させる意思はなく、もしもこの状況が改善されないのならば「他の手段」を模索すると軍事的解決をほのめかしたことが開示された文書によって近年明らかになった。

時の軍事政権にとっては、フォークランド諸島はアルゼンチン国内の悪化する状況から国民の目を反らす格好の材料と見えていたかもしれない。右派勢力にとってフォークランド諸島は奪還すべき場所だった。1982年3月末までに、軍事グループの支援を受けた数名のアルゼンチン人救助隊員がフォークランドからほど近いサウス・ジョージア島にアルゼンチン国旗を掲げた。それを契機に4月2日にアルゼンチン軍がフォークランドへの本格侵攻を開始した。

「鉄の女」マーガレット・サッチャーは相手の出方を待ち構えていたかのように、すぐさま英国軍を動かし戦線が形成された。

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少し時を遡ろう。

国内での軍事政権によるクーデターから2年後、1978年のワールドカップがアルゼンチンで行われた。決勝戦の会場の目と鼻の先で数千名の思想犯が拷問を受けていたことが明らかになるなど、ピッチ外では政治的関与で悪名高い大会ではあったが、ピッチの内側はエキサイティングだった。

ホスト国が1930年以来の決勝進出を果たし、最終的にはブエノスアイレスでオランダを破って初優勝を飾った。(しかし、これも時の独裁政権に反対意思を表明し大会を欠席したヨハン・クライフがいればどうなっていたかはわからない。その意味でもいまだ物議を醸す大会だった)

優勝メンバーのうち、「オジー」の愛称で知られるオズワルド・アルディレスリカルド・ビジャは南半球から遠く離れたフットボールの母国、トッテナム・ホットスパーのスカウトに大きな感銘を与えた。両国の関係に緊張が走っており、移籍交渉は長引いたが、結局2人は翌シーズンよりホワイトハートレーンでプレーすることが決定した。それは英国フットボール史上、最も奇妙な移籍劇の一つに数えられるかもしれないものだった。

ワールドカップでの活躍を知るスパーズファンからは大きな期待を寄せられたものの、南米人の彼らにとっては環境に適応することが困難だったという。どちらの選手もロンドンでの生活を始めた当初は英語を話せずにいた。アルディレスは、相方のビジャの存在が何より大きかったと語っている。「私たちどちらかが欠けていても、『リッキー』も私も適応するのにさらに苦労したでしょう。それが私たちがずっと一緒だった理由です」

78/79シーズンのはじめ、ホワイトハートレーンには真の希望がみなぎっていた。ファンたちは2人の世界王者と共に、再び最高の栄誉に挑戦することになると信じていた。チームメートとなったグレン・ホドルはチームがシーズン開幕戦でアストン・ヴィラを迎えた際、観客席からテープが投げ入れられたことを今でも覚えている。ヴィラは全くボールに触ることもできず、4-1の苦杯を舐めたのだった。

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日常生活の適応とは別に、南米と英国でのプレースタイルの面でも2人は苦しんだ。

それまで外国でプレーすることも少なく、特に南米とは全く関わりのなかった英国人選手たちは、ボールを足元ではなく空中でプレーすることに長けていた。いわゆる「キック・アンド・ラッシュ」の哲学だ。アルディレスにとってそれは大きな障壁だったが、そこで援けとなったのはグレン・ホドルの存在だった。彼は英国人選手というよりラテン気質を持った希少なイングランド人だった。

スパーズは英国スタイルにアルゼンチンの風を送り込むことに成功した。1981年にFAカップ決勝へと到達すると、マンチェスター・シティとの頂上決戦では再試合を含む合計210分の死闘の末、栄冠を手にした。92,000人が見守るウェンブリースタジアムでのリプレーマッチで、リカルド・ビジャは2得点を挙げた。

このキャンペーンの最中、1981年4月に発売された「Ossie's Dream (Spurs Are On Their Way To Wembley)」という一枚のレコードは、いかにアルディレスが愛されていたかを物語るものとなろう。当初はUKチャート45位というまずまずの出だしだったが、シティを破った翌週には5位にまで上昇した。

また、アルディレスには映画出演の機会も与えられた。シルヴェスター・スタローンやマイケル・ケイン、マックス・フォン・シドーといった名優と並びたち、「勝利への脱出」で連合軍チームのフットボール選手役を演じきった。英国内での人気は最高潮に達していた。

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1982年4月2日、アルディレスとビジャの状況は取り返しがつかないほど、大きく変化した。「チームの周りにはいつもより多くの記者たちがいることに気が付きました」とアルディレスはその運命の日について語っている。「それはスポーツ記者だけではありませんでした」

どちらの選手も、母国アルゼンチンと第二の母国とも呼べる英国による軍事的衝突という重大な事件について、すぐに実感を得ることができなかった。翌日にはレスターとの重要なFAカップ準決勝が待ち構えていたのだ。ビジャは「私たちは自分自身の生活を続けながら、次に何が起こるのかを待つだけだ」とコメントした。

ヴィラパークのスタンドから両チームのファンによる声援が鳴り響くようになると、2人はすぐに厳しい現実に直面した。「群衆からの反応は明白だったよ」とガース・クルックスは思い出す。英国人による、2人のアルゼンチン人選手への罵倒が飛び交っていた。ビジャとアルディレスは大きなショックを受けた。彼らは、英国に来て以来このようなことを経験したことがなかったのだ。スパーズファンでさえ攻撃に加わっていたと証言するジャーナリストもいる。

だが、そのような状況にもかかわらず、スタンドには愛の溢れたバナーが掲げられていた。

Argentina can keep the Falklands, we'll keep Ossie(我々はオジーを守れるなら、フォークランド諸島アルゼンチンにくれてやる)

オジーとリッキーは、途方もないプレッシャーに晒されていた。「私が生まれた国は、私が職を得た国と戦争していました」とアルディレスは述懐する。「まるで2人の兄弟が争っているようでした」

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ロンドン到着後初めてアルディレスとビジャは袂を分かった。アルディレスは準決勝でプレーした翌日に母国への飛行機に乗った。1982年のスペインワールドカップへのキャンプに参加することを装ってはいたが、彼と彼の家族を危険に巻き込まないための策だったのだろう。

ビジャはイングランドに滞在し、FAカップ決勝までスパーズとすべての試合を行った。だが、決勝戦には出場しないことをクラブと合意した。FAカップというのは世界最古のカップ戦として知られている通り英国人にとっての誇りそのもので、その事実がビジャにどんな危害を及ぼすかは未知数だった。「私は試合に出る気が全くしませんでした」と彼は後に語っている。

母国に戻ったアルディレスもまた戦争の影響から逃れることはできなかった。あらゆる側面から圧力を受け続け、彼のコメントすべてが両国メディアに精査された。アルゼンチンの主張を支持していると考えられるものについてはすべて英国内で批判の的となり、あいまいな態度のコメントは逆にアルゼンチン国内で非難された。

「多くの人が私をアルゼンチンの裏切り者と見做してきましたが、イギリス国内では、フォークランド諸島に対するアルゼンチンの主張をどうすれば支持できるのか疑問に思っていました」

こんな些細なコメントでさえ、捩じれた意図で受け取られていた。かつて「英国の田園風景が好きだ」と語った古い発言でさえも、メディアによって新たな文脈で焼き直され、再利用されていた。

1982年のワールドカップは悲惨なもので、アルディレスにとっては状況を改善させるものでは全くなかった。アルゼンチン代表チームは第2ラウンドで大会を去った。そのことが国民の不満を爆発させていた。チームには厳しい批判が寄せられた。

大会開幕戦の翌日、6月14日にアルゼンチン軍は敗北を認め、フォークランド紛争は幕を閉じた。1978年と同様、戦争経過などは選手たちには秘密裡となっていたため、突然の終戦によるスペインでの群衆の反応は選手たちに深刻な影響を及ぼしたとされる。

ワールドカップの後、アルディレスは英国へ戻ることは不可能だと判断した。「結局、自分の母国と戦争をしている国でプレーすることはできません」とワールドカップ前に語っている。

「フォークランド紛争は私の人生を破壊しました。それ以来、私はイギリスへ戻ることは絶対にしないと決心しました」

彼のいとこであるホセ・アルディレスが紛争中に姿を消し、死亡したと知らされるニュースを聞いた時の彼の心境はどのようなものであったのか、本人にしか知る術はない。

アルディレスが選んだのはパリ・サンジェルマンへのローン移籍だったが、彼自身「悲惨なものだった」と述懐する通りパリはフットボールに集中できる環境ではなく、すぐにスパーズへの帰還を決断した。

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戦争は終わったものの、その影響はまだ続いていた。

1986年ワールドカップにおいて、かの有名な神の手のゴールを含む2ゴールでイングランドを屠ったディエゴ・マラドーナはこう語る。

「我々はフットボールチームを倒したのではない。イングランドという国そのものを打ち負かせたのだ。彼らはフォークランドで多くのアルゼンチンの少年を小鳥のように殺した。これは復讐だ」

1978年のアルゼンチンの成功に刺激を受けたマンチェスターのストックポート・カウンティは翌々シーズンから水色と白のユニフォームを着用していたが、国内での圧力により伝統的な白と黒のデザインに変更を余儀なくされた。

アルディレスはクラブとファンによる絶大なサポートを受けながら、その後のスパーズでのキャリアを築いていった。フォークランド紛争の影響から脱するのに時間を要したものの、1984年にはUEFAカップのトロフィーを掲げた。

ビジャのキャリアは1982年のFAカップでピークに達した。1983年のシーズン終了後、キャリアの基盤をアメリカに移した。だが、ホワイトハートレーンで過ごした輝かしい時間はスパーズファンにとって今でも宝物だ。

グレートブリテン島から数千マイル離れた一連の島々を巡るフォークランド紛争は、その実在さえ英国人にとって実感あるものではなかったが、確かに歴史に痕跡を刻み付けた。結果的にアルゼンチンの独裁政権は打倒され、英国ではサッチャー政権の方向性を規定した。現在にまで続く両国のその後数十年間にわたる歴史さえ影響を受けていると言えるだろう。

それに加え、世界を制し、第2の故郷で何万もの人々に愛された2人のフットボーラーのキャリアをも決定づけ、間違いなく狂わせたのだ。

(校了)

元ネタ:OSSIE ARDILES, TOTTENHAM AND THE FALKLAND ISLANDS

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