【a day in the life】day 1 - リーズユナイテッド 1989-90

1980年代はリーズ・ユナイテッドにとってこれほどまでに悲惨なものは無かろうというほど地獄の様相を呈しており、英国フットボールが史上最低の衰退に見舞われる中(もちろん二つの悲劇に由来している)トップリーグから8年間遠ざかっていたのだ。エランド・ロードは暴れ狂うフーリガンどもに囲まれ、古いスタンドは異常なほど低くファンが詰めかけるとピッチが眺望できないこともしばしばだった。21世紀に入ってから経験した財政破綻期の混乱に匹敵するどん底の時期だったと言える。

その中でも最悪の瞬間は1983年にゲイ・メドウで喫した1-5の敗北(ポール・ペッツによるハットトリックを含む)とチェルシーに蹂躙された0-5の屈辱だっただろう。しかも、ホワイツはウェストヨークシャーのライバル関係にあるハダースフィールドの2部昇格も見届けなければならなかったので忸怩たる思いもあっただろうと推測する。

この期間、チームの建て直しの為に監督に就任したかつての英雄たち(たとえば永遠にしかめっ面をし続けたアラン・クラークやエディ・グレイ、ビリー・ブレムナーなどだ)も結局役目を果たすこと能わず、数少ない栄光の瞬間は1987年のFAカップ準決勝進出のみだったと言える。のちにクラブを去りトップリーグ優勝の栄冠をつかむことになる、才能あるジョン・シェリダンでさえグリムスビーやオールダムといった歴史的には格下と呼べるクラブ相手に何かをすることができなかった。

だが、そんな低迷を抜け出すきっかけになったのは「サージェント・ウィルコ」と呼ばれたハワード・ウィルキンソンの監督就任だった。1988年にやってきた彼が最初に行った改革は、クリス・フェアクラフとゴードン・ストラカンを連れてくることだった。クジャク軍団はそのシーズンを大過なく終了したが、それは羽を広げる前のちょっとしたあくびみたいなものだっただろう。

89年のある夏の雨の日に署名を取り交わしたヴィニー・ジョーンズ(のちにガイ・リッチーの映画で俳優に転身した奇人だ)や地元出身のデヴィッド・バッティ、物理学の授業でしかお目にかかれない放物線のスローインを投げるメル・スターランド、ノンリーグから連れてきた謎の新人マイク・ウィスロウといった面々が躍動し、最後はストラカンの鉄槌が対戦相手に下されることになった。シーズンを通じてウィルキンソンの連れてきた選手たちは大きな働きをし、最終的に昇格を勝ち取ることになる。それはクリスマス後に連れてきたリー・チャップマンも同様だった。

リーズというのはいつの時代も不名誉な悪名を蒙っており、対戦相手にとってはスタジアムに行くのが厄介なチームだろう(もはやワールドクラスと言っても過言ではない)が、このシーズンもそういった事案がちらほら発生した。例えばミッキー・クインが水をぶっかけてニューカッスルのメッキをバリバリと剥がした開幕戦での5-2の勝利後、リーズは順位表を遺伝子操作されたタケノコのようなスピードで上がっていった。すると報道機関はリーズのディスキャンペーンを開始したのだ。当時、リーズの国内での人気のなさは折り紙付きで、テラスのファンは憎悪を引き起こし続けていた。10月のハマーズ戦の勝利は酷いもので、ロンドンの新聞紙に踊ったのはまるでリーズが王室の誰かと不倫でもしたかのようなスキャンダラスな言葉だった。

後半戦になると気運がだいぶ薄れ、チューインガムのスポンサーユニフォームを着たブライトン相手にジョーンズが決めた美しいカーブシュートがファンを虜にした。スタジアムの入場者は増えた。ボロが負け、マグパイが復讐し、今は亡きローフィールドロードスタンドがファンの足踏みで揺れ動くとクリスマスを前にして圧倒的な状況となった。春に入るとチャップマンが定期的にゴールネットを揺らし、若きガリー・スピードがピッチを疾走し、リーズはシーズンを決定づける瞬間に最も近隣のライバルであるシェフィールド・ユナイテッドを4-0の破滅へ追い込んだ。優勝決定試合ではボーンマスにも勝利し、恐るべきリーズ・ユナイテッド・サービスクルーの強面たちは街に出て暴れまわり、パブやショップを破壊し、警察官と取っ組み合いをした(最終的には104名が逮捕され、警官側にも12名の負傷者が出た)。いつものお祭りだった。

その後もウィルキンソンはガリー・マカリスターやジョン・ルキッチ、幾人かのフランス人をチームに加えた。そして2年後には、プレミアリーグ移行前の最後のフットボールリーグ覇者となるのだが、それはまた別の話に譲ることにしよう。

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