【a day in the life】day 2 - ウェストブロムウィッチ・アルビオン 1990-91

 クラブの歴史の中で最もトラウマを負ったシーズンから30年近くたった今でも、ウェストブロムファンを震え上がらせる3つの固有名詞がある。

ブザグロ、バース、ボビー・グールド。

アルビオンの誇り高きカップ戦の血統、攻撃的なサッカーの伝統、そして連綿と続くクラブの歴史はこのシーズン、泥にまみれた。

シーズン開始は1990年の夏だった。ミッドランズの陽光の中、ファンも多くの期待を抱いたシーズンだっただろう。90年イタリア大会でのガッザの涙があった。英国クラブが大陸の大会への復帰を許され、春にはマーガレット・サッチャーが政権の座から降りたことでこれから新たな時代が始まる予感が芽吹き始めた年だった。だが、アルビオンにとっての4度目のトップリーグ外でのシーズンは強く打ちのめされることとなった。選手兼任監督を務めたブライアン・タルボットは絶望に暮れていたに違いない。

1988年10月にアトレティコ・マドリー行きの切符を買ったロン・アトキンソンの後継者として選手だった彼が兼任監督の座についたとき、ファンからは喝采を浴びた。就任直後は調子がよく、2部リーグ首位につけた時期もあったが、エバートン相手にFAカップ3回戦で敗退すると失速、トップフライト行きのプレーオフも敗れて翌期に至ってはリーグのボトムハーフから抜け出してくることができなかった。

その間に、長くチームを支えたデヴィッド・バロウズがリバプールへ、カールトン・パーマーはシェフィールド・ウェンズデーへ去り、レギュラー格のディフェンダー、クリス・ホワイトもリーズへと旅立った。

代わりにやってきた選手たちは前任者と同じレベルではなかった。シュルーズベリーから獲得した北アイルランド代表のバーナード・マクナリーは技術があるものの身体は貧弱で、クレイグ・シェイクスピアは器用貧乏、ゲイリー・ストロダーもハマーズ出身で期待されたが動きが重かった。中心選手だったタルボット自身が指揮を執り、チーム一のファイターだったグラハム・ロバーツは歳を取りすぎていた。ゲイリー・ロブソンは努力家だったが彼の高名な兄とは比べようもなかった。すなわち、チームに不足していたのは経験だった。

アルビオンにとって唯一の太陽はドン・グッドマン。しかし周りのストライカーのサポートには恵まれず、歯がゆい思いをしたことだろう。

前期に引き続き低調でフットボールはただ球を蹴り、追いかけているだけというありさまだった。ファンは途方に暮れ、冷静さを欠いた。クリスマス直後、シーズン折り返し地点でのウルブズ戦。ホーソーンズに集まる28,000人が見守る前で1-1と悪くない結果を残し、死に際で宝物を見つけたように見えた。その時点での勝ち点は27ポイント、順位は15位。24チーム中2チームだけが降格するというルールで、安全圏の50ポイントまでは順調に推移しているかに見えた。

だが、彼らの弱みは思わぬ形で打ち砕かれることとなった。

アルビオンはFAカップ3回戦、ノンリーグのウォキングFCをホームに迎えた。ハーフタイムを1-0で終えた時点で、その後起こる事件を想像できた者が何人いただろうか。

Googleで「Tim Buzaglo」と検索してみてほしい。詳細不明、シンプルなフットボーラーとしてのキャリアに加え、クリケット選手としても活動した記録が残されている。ごく普通のノンリーグの選手に見える。だが、ウォキングFCが4-1と試合をひっくり返す奇妙にこじれた後半戦の中で、彼がハットトリックを記録したことは古くからのファンであればだれもが忘れないだろう。残酷なBBCのMatch of the Dayのカメラマンは、意気揚々と喜びを爆発させるブザグロと、その対照として肩を落とすアルビオンの選手・ファンの姿を収めた。

コリン・ウェストが微々たる慰めとして1点を返したものの、やはりその日はウォキングFCの日だったと言える。最終的なスコアは2-4だった。アルビオンファンがピッチに乱入し、相手選手であるはずのブザグロを肩に担ぎあげた。奇妙な光景だった。数日後に監督とハットトリックヒーローがBBCのスタジオに呼ばれたが、新聞などに踊る自身の名前に全く実感が湧かないと心からの当惑を語った。

一方、ウェストブロムではサポーターの怒りが爆発し、タルボットとアシスタントのサム・アラダイスは即時解任され、スチュアート・ピアソンが暫定監督の座についた。そして次に連れてこられたのがボビー・グールドだった。彼は1988年のFAカップでリバプール相手にジャイアント・キリングを演じた元ウィンブルドン監督だった。選手としてはウェストブロムを含む3つのミッドランズクラブでのプレー経験があり、取締役会のお気に入り候補だった。

彼のロングボールスタイルは攻撃的フットボールの血統を持つアルビオンファンの反感を買い、試合中に「ボビー・グールドなんていらねえ」という歌声がバーミンガム・ロード・エンドから鳴り響いた。ピアソン暫定監督の元、チームはフットボールの方法を取り戻しつつあり、若手が伸び始めて降格圏からの一定の距離を確保することに成功していた。

取締役会はファンの意見など意に介さなかった。グールドが正式に監督の椅子に座ると、チームはまたもや腐敗を始め、6連敗を喫してしまった。パニックに陥った彼は移籍市場最終日に3名の補強を敢行し、次戦のスウィンドン戦に勝利して負の連鎖をなんとか止めることができた・・・だが、それは嵐の中の一瞬の休息と呼べるものだったかもしれない。

モリニューでのブラックカントリーダービーでの失態、レスター戦でのアディショナルタイムの決勝ゴールによる歓喜、そしてポート・ヴェイル戦での2度のPK失敗・・・。ジェットコースターのようなシーズンを潜り抜け、気が付けばリーグ戦も最終週。降格争いから勝ち残るためには同勝点で並ぶレスターシティを順位で上回る必要があった。得失点差はアルビオンが15上回っていた。

レスターはフィルバートストリートでオックスフォードと、ウェストブロムはブリストル・ローバーズとの最終戦で運命の地、バースへと赴いた。精神が灼け付く状況だったが、遠征中のファンはユーモアを忘れなかった。ブラックカントリーのあらゆるベッドのシーツをはぎ取ってスタジアムに持ち込み、古代ローマ風のパーティ衣装のコスプレで観戦に臨んだのだ。

試合開始3分でブリストルが10人になったものの、アルビオンはこのチャンスを生かせなかった。相手のカミカゼアタックに驚いたせいかもしれない。イアン・ホロウェイから放たれる攻撃的なパスに乗ったホームチームのアタッカー陣に1点を先制されると、断頭台に首の乗ったグールドと選手たちは絶望的な戦いに挑んだ。最終ラインに残された数少ない選手は粘り強く防御に徹した。最終盤、起死回生のイコライザーが生まれ選手の心に安堵が広がったが、それもレスターの試合結果を聞くまでのわずかな一瞬だった。

フルタイムのホイッスルが鳴り響き、ホームチームのファンがフィルバートストリートのスコアを確認すると、惨めな敗北者への笑みが投げかけられた。

かくして、1888年の秋から始まったウェストブロムウィッチ・アルビオンの「トップリーグ上位2部から降格したことがない」という1世紀以上に渡って紡がれてきた金字塔は、1991年5月11日17時直前に潰えた。そして、その記録は今やエバートンだけが持っている。

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