フットボールの話をしよう - アスレティック・ビルバオと英国の蜜月(前)

「ベレスコ」(現実世界)と「アイデコ」(超常世界)──バスク地方には古来より、彼らの神話を形作るうえで欠かせない二つの世界があると考えられてきた。

人が現実的な理を捨て、ベレスコからアイデコに接続するとき、「アドゥー」──すなわち魔術が起こると。アドゥーが充たされるとき、この世界のすべての要素に意味が付与される。

この古代バスク人の神秘主義はキリスト教の伝播と共に駆逐されてゆき、取り込まれて行ってしまった。だが、彼らのフットボールの歴史を見ていると、その未知なる力は未だ彼の地に満ち満ちているように感じる瞬間がある。

住民たちは日常の生活を離れ、スタジアムに通うことで超常的な何かに接続しようとしているのではないか・・・?と。

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19世紀後半、アンダルシア州ウエルバ郊外に鉱山採掘場を構えていたリオ・ティント社に雇われた英国人労働者を通じてスペインにフットボールが持ち込まれると、瞬く間に国内全土へ紹介され、現在では丸い球を蹴り合うその競技が全地球上で最も繁栄する土地の一つとなったことは改めて説明するまでもないだろう。

その歴史の中で、とりわけ英国人と密接に交わりを持った地域があった。

スペイン北部、ビスケー湾へと注ぐネルビオン川と「広い川」を意味するイバイサバルの合流地点、ビルバオ。カンタブリア海を挟んですぐ東側にフランスを睨み、さらに北には英国を眺望できるその立地から、国際的な港湾都市として発展してきた。

国際的に名高い純血主義を掲げながら数々の栄光を手にしてきたバスクの名門クラブが、その黎明期においてどのような形で英国フットボールを吸収してきたのか?

今日はそんな話をしよう。

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タイムマシンでビルバオでのフットボールの起源を探ると、どうやら他地域同様に19世紀後半における英国人労働者流入に端を発するようだ。地元住民はネルビオン川北岸で競技を楽しむ英国人たちの姿を目撃している。

1894年5月3日、ケンブリッジ大学で教育を受けたバスク人たちが英国の契約労働者グループとフットボールの試合を行った記録が残されている。

彼らの対戦相手は主にノースイースト出身の鉱山労働者、またはサウサンプトンやポーツマスのような南部出身の造船員たちで、短期派遣でバスク地方へと送り込まれていた。

かくしてボールは蹴られた。その後数年間で数多くの試合が行われ、バスク地方もまたフットボール文化に汚染されていくことになった。

アスレティック・ビルバオの創設年は諸説あるが、クラブ自身は1898年と公称している。ザマコワ・ジムという総合スポーツクラブに所属していた学生たちが、敢えて英語から「アスレティック」と名付けたクラブを創設した。

1901年には市内のカフェ・ガルシアにおいて、正式な規則が確立された。この年を正式な設立年とする意見も一部あるようだ。

余談にはなるが、同じくバスクの学生がマドリードで立ち上げたクラブがある。その名をアスレティック・クラブ・デ・マドリーという。後のアトレティコ・マドリーである。

現在でも着用されている赤と白のストライプシャツが正式に採用されたのは1910年1月9日のことだとされている。一説にはサンダーランド/サウサンプトンといったクラブの母体となった文化から吸収したものだと囁かれているが、真偽は定かでない。

その発祥について現在で最も支持されているのは「ベッドのマットレスを作る際に余った生地で縫い合わせた」というものだ。

当時、赤と白のマットレスが多く市場に流通しており、ユニフォームを作るためだけに他の色を採用するよりも安価で製造できたと考えられている。

手始めにマドリード側のアスレティッククラブが青白から赤白へと切り替えを行い、ビルバオ側もそれに倣った。ゆえに、現在でもアトレティコ・マドリーの愛称は「コルチョネロ」──マットレス職人となっている。

この1910年より1年間クラブの監督を務めたのは英国人監督、ミスター・シェパードと伝えられているが、彼に関する記録はほとんど残されていない。

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1879年5月20日、ロンドン東部で産声を上げたウィリアム・エドワード・バーンズ──ビリー・バーンズは16歳でフットボールのキャリアを始め、現在のウェストハム・ユナイテッドの前身となるテムス・アイアンワークスで3年間プレーしたのちにレイトンFCへと移籍した。

1898-99年シーズンにはチームの主力として28試合に出場、8ゴールを決める活躍を見せたが、クラブのタイトル獲得には一歩届かなかった。レイトンはこのシーズン、バーキング・ウッドヴィルに次ぐ2位でフィニッシュした。

翌季より3シーズンにかけてヨークシャー、シェフィールド・ユナイテッドでプレーしFAカップ決勝でゴールしたこともあったが、やはり南部の水が身体に合ったのか1902年にロンドンへ帰郷し、ハマーズ、ルートンタウン、クイーンズ・パーク・レンジャーズでのキャリアを通じて400試合以上に出場、南部リーグで2度の優勝を果たした。

第一次世界大戦が始まると、彼は戦争に兵士として加わるより母国以外でフットボールの道を追求することを選んだ。その目的地がスペイン北部、バスクで誕生したばかりのアスレティック・クラブだった。

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シェパード氏の後を継ぎ、1914年より第2代監督の座についたバーンズは、スペインに英国流のキック・アンド・ラッシュを持ち込み旋風を巻き起こし、最初の2シーズンでコパ・デル・レイを獲得した。

だが、彼らの蜜月を分断したのはやはり戦争だった。当時の新聞紙によると、彼がロンドンへ戻ったのは「生活上の些事を済ませるため」だった。

大戦終結後に再びビルバオの地を踏んだバーンズは、2シーズンでクラブを2度コパ・デル・レイ決勝へと導いた。

対戦相手となったバルセロナ、そしてアトレティコ・マドリーは両チームとも英国人監督を採用しており、スペインフットボール黎明期における英国の影響の大きさを垣間見ることができる。結果的に優勝1度、準優勝1度の結果となった。

バーンズは就任当初のスペインフットボールについて

「辛抱強く短いパスの多い、遅いゲーム展開だった。見る分にはエレガントだが非実用的なスコットランドのスタイルだ」

と語ったことがあった。彼はビルバオを通じてスペインにロングパスの速いゲームを紹介した。ボールを翼から翼へと運び、センターにはゴールを決めることができるスピード豊かな選手を起用した。

その手法は後のレアル・マドリーの前身となるクラブ、そして前述の通りバルセロナやアトレティコ・マドリーでも英国人監督を抜擢する潮流へと繋がっていった。

2シーズン後の1921年、彼は突如としてビルバオを去った。その理由や後の行先は定かではない。そして妻のエルシーと3人の子供を残し、1962年にひそかに息を引き取った。

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ビルバオにとって、英国人監督は幸福を呼ぶ青い鳥のようなものだった。バーンズがクラブを去る際、後任監督募集のためにデイリー・メール等の英国内メディアに熱狂的な広告を掲載した。

ミスター・バートンという人物が後継者として選ばれたが、彼もまた謎の多い人物だ。第1次世界大戦の帰還兵だったバートン氏は、戦時中に塹壕で多量のマスタードガスを吸い込んでしまい、監督就任わずか7か月後に息を引き取った。

だが、ビルバオはそれでも英国人監督を意欲的に雇用し続けた。そのうちの一人、そして最も注目すべき人物がフレッド・ペントランドだった。彼を抜きにしてバスクのフットボール史は語り得ないと言えるが、それはまた別の話にしよう。

(次回へ続く)

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